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【試し読み】超規格外戦後ミステリー『虚史のリズム』(奥泉光・著)

NHK連続テレビ小説『虎に翼』で今注目を集める、「戦後」という時代。
『グランド・ミステリー』『神器 軍艦「橿原」殺人事件』『東京自叙伝』『雪の階』等、これまで近現代史を舞台に数々の傑作を生みだしてきた奥泉光さんがこのたび世に送り出すのは、占領期日本を舞台にした、なんと1000ページ超えの弩級のテラ・ノベルです!

奥泉光『虚史のリズム』
定価:4800円+税  ISBN:978-4-08-771839-4  装丁:川名潤
2024年8月5日(月)発売予定

あらすじ

1947年、連合国軍占領下の日本に生きる男・石目鋭二。
天性のおべっか術と持ち前の機転でもって混乱真っ只中の東京を渡り歩く彼には、かつて夢がありました。それは探偵になること。
シャーロック・ホームズ、エラリー・クイーン、明智小五郎。名だたる名探偵たちのように、優雅にずばりと事件を解決したい――。苛烈な大戦を生き延びた石目は、自身の夢を実現させるべく動き出します。
やがて山形で起こった一件の殺人事件に関する調査依頼が彼のもとに舞い込み、それを機に「K文書」なる国家機密レベルの怪文書の存在が明るみに出、石目は思わぬ陰謀の渦に巻き込まれてゆくのですが……。

と、あらすじ語りを試みたものの、本書の物語的&物量的厚さをこの短さで表すことは到底叶いません!!
もう一人の主人公的存在・元陸軍少尉の神島健作はじめ、美術学校生、プロカメラマン、新聞記者、渋谷愚連隊の頭、GHQ高官、バンドマン、国家絡みの宗教団体の構成員、得体のしれぬターバンの女等々……。戦後を生きる登場人物たちの多声的な語りが、読み手の私たちを深く広く遠くへ誘う圧倒的な一冊です。

このたび8月5日(月)の刊行に先立ち、作品の冒頭部分を特別公開することになりました。
愛すべき我らが主人公・石目鋭二の活躍の序章、ぜひお読みください!


第一章

 むかしから探偵になりたかった。ホームズ、クイーン、明智の小五郎、ファイロ・ヴァンスにギリンガム。 中学校時代に熱中した探偵小説の、強い酒に漬けこまれた熟果のごとき、芳醇にして甘く蠱惑的な物語に登場する名探偵たち、人並みはずれた推理力を武器に、颯爽と難事件を解決する、どこかおかしみのあるかれらに、自分はずっと憧れていた。 色とりどりに薔薇咲き乱れる英国式庭園のある屋敷、蔦の絡まる煉瓦壁に歴史が染みついた西洋館の、古雅な西洋甲冑と錦織に飾られた客間で、あるいは警笛の響きも優雅に大陸を往く長距離列車、天鵞絨張りの安楽椅子に峨々たる山稜が影を落とす談話室で、あるいは四本煙突の豪華客船、エメラルドグリーンに輝く地中海のむこうに阿弗利加の赤茶けた大地を眺める上甲板で、「あなたが犯 人です」とついに名指して衆人の度肝を抜く名探偵・石目鋭二 、とは、すなわち、このおれ、このわたし。 「どうしてわかったのです?」と目をまるくして問うてくる凡庸かつ善良な人々に向かい、紙巻き莨に火を 移しつつ、「なに、ごくごく簡単なことですよ」と、石目はおもむろに謎解きを口にするのだった。
 はたまた殺人現場に残された一輪の百合の花、誰もが見逃してしまう些細な印に巧妙な殺人トリックの痕跡を看破し、旧家の土蔵に眠る古文書に血も凍る連続殺人を惹起すべき因果の根を探りあて、麻薬取引の廃工場から逃走する悪漢を追って深夜の街に愛車ダットサンを駆る探偵・石目鋭二。 等等。探偵の自分がいかにも探偵然として活躍する諸場面を夢想しては、ひとり悦に入ることでわが十代はおおむね過ぎゆきた。思えばずいぶんと馬鹿だ。
 馬鹿、というならしかし、日本という国もそうとうに馬鹿だった。自分の十代は極東の一島国が破滅的な戦争にむかって邁進した時期とぴったり重なっている。 支那事変のはじまったのが中学時代、あっさり片付くからね、とのふれこみとは裏腹に、愚図愚図長引くうちに米英と戦争になって、国土の隅から隅、一木一草にいたるまでが戦時統制下におかれたあの時代 ――といってもほんの数年前の話なのだけれど、八紘一宇だとか大東亜共栄圏だとか、いまとなっては誇大妄想としか思えぬ夢を日本は見ていたわけで、わが夢との乖離ははなはだしかった。
 個人の夢は個人の夢、ほうっておいて欲しいわけだけれど、国家というものは自由を蛇蝎のごとくに嫌い、人をして枠に嵌めること、西瓜を四角く育てねば気のすまぬ百姓に似て、妄想国家の出先機関となり果てた中学校では、わが夢は弾圧につぐ弾圧をこうむった。同好の友と作ったガリ版刷りの同人誌は焼却を命じられ、教練をさぼって『新青年』を読んでいるのをみつかったときは、配属将校と体育教師から交互に殴られたあと、学校むかいの八幡神社の清掃を半年間させられた。学校では探偵小説の「た」の字も口に出せず、いきおい自分らは地下潜行を余儀なくされた。思えば隠忍の数年であった。
 学校を出てやや楽になったけれど、逆に時代の圧力は増し加わる。鬼畜米英などという、正気の沙汰とは思えぬ惹句が合言葉になる時節、敵性語たる英語を故郷にする探偵小説などに生存の余地はあるはずもない。 一方わが探偵志望はどうなったかといえば、素志にしたがい、卒業してすぐ浜松町にあった 「丸甚(まるじん)」という 興信所に見習いで入ったものの、三日で嫌になった。朝から晩まで区役所で登記簿を書き写させられるのには辟易した。事務所の先輩がたの、饐えた麦飯みたいな陰気臭さにも我慢がならなかった。だいたい「丸甚」とはなんだ! スッポン料理屋でもあるまいし、探偵が寄り集う場所の名前じゃないだろう。
 現実の探偵は小説の探偵とは違う。あたりまえの認識を得た自分は「丸甚」を辞め、いずれは自分なりの 理想的探偵事務所を立ち上げようとの志を胸に、とりあえずは兄の経営する町工場を手伝いつつ、小説など書いて憂さを晴らしていたが、大長編となるはずの探偵小説の、冒頭一章を書きあげた時点では、小説家になるのも悪くないと考えはじめたのだから、欲目とはおそろしいもんだ。暇を見つけては執筆に励んだものの、二十歳になって徴兵検査を受けたときには、探偵関連の夢はきれいさっぱり、書きかけの原稿と一緒に 押入の奥に片付けた。
 このへんで人生に一区切つけるべし。第一乙種合格の判定をうけて海軍を選んだ自分はそう考え、微力ながら御国の御役にたちませう、粉骨砕身皇運を扶翼申し上げませう、との殊勝な気持ちを少しは抱いて横須賀海兵団の門をくぐったのだけれど、たしかに人生の区切に兵役は格好で、というのも、自分には小説家の 才能がないと、その頃にはうすうす感づいていたからだ。軍需の下請で螺子や撥条を作る兄の工場は開戦以 来絶えず人手不足だったから、いくら不熱心でも猫よりはましと、兄が放任してくれるのをいいことに、余暇を勝手に捻出してはせっせと書き継いだ長編の題は 『緑死館殺人事件 』。いうまでもなく小栗虫太郎の 『黒死館殺人事件 』へのオマージュ、というとオマージュの語が泣くだろうが、とにかくこの 表題からしてすでに才能の欠如は、哀しいが、明らかだろう。
 そもそも自分は探偵小説が書きたいのではない。探偵そのものになりたかったんだし。と、そう考えれば、五百枚を超えた原稿を反故にするに未練はなかった。なにより自分が入営したときの海軍は、南雲艦隊の真珠湾急襲から、マレー沖のレパルス、プリンス・オブ・ウェールズ両艦撃沈にはじまる、開戦劈頭大勝利の余韻がまだ残存していたから、海軍さんはどこへ行ってもモテにモテて、格好がよかったのだ。
 というわけで、海兵団で私服から烏と呼ばれる水兵服に着替えたときには、探偵のことはすっかり忘れていた。それから三年、自分は予想外の運命の変転に見舞われ、比喩でなく死にかけたりもしたが、いまは詳しく述べない。 ひとつだけ予想外だった事柄を紹介しておくなら、自分はまったくモテなかった。早い話が軍隊で格好がいいのは士官限定、一般の兵隊水兵は下積み、ならまだましで、単なる備品ないし消耗品にすぎぬ事実を痛感するわが三年間なのであった。
 俘虜として抑留されていたフィリピンから ――と、これなども 『緑死館殺人事件 』を書いていた頃には夢想だにしなかったのだが、焼野原の東京へ舞い戻ったのが敗戦の年の師走、すなわち昭和二十年の十二月。これは抑留からの帰還としてはまず早い方だろう。終戦時に海外の邦人は軍人だけで三百五十万人以上いたという。なかには満洲からシベリアに送られたあげく、十年にわたり酷使された人もいたわけで、それでも 生きて故国の土を踏めた人はまだまし、凍土に埋もれた人も大勢いたと考えると痛ましいが、霊峰富士が裾野から天辺まできれいに眺められる焼跡に立ったときには、自分は幸運だったとも思わず、知らず、というより、およそ人間の運命についてあれこれ想像したり考えたりするような感覚は麻痺しきっていた。
 だからなのか、引揚船が着いた浦賀から大森へ直行して、実家が工場ごとすっかり焼けているのを見たときも、焼跡の 仮小舎から顔を覗かせた近所の人に、五月の空襲で一帯が焼かれた際、焼夷弾の直撃をくらって兄が死んだと聞いたときも、ああ、そうなんだと、ぼんやり頷かれるばかりで、広いと思っていた敷地もこうなってみると案外狭いもんだ、押入の 『緑死館殺人事件 』も灰になっちゃったんだな、と考えたくらいが唯一の心の働き。 とにかく雨露と餓えをしのがねばならぬ。それが当面の問題、というよりほかに問題はないくらいなもので、とりあえず近くの京浜東北線のガード下を塒にして、大森駅前から蒲田、あるいは新橋あたりへ遠征しては、食糧確保に専心する日々がしばらくは続いた。
 しかし、その年の冬は寒かった。睫毛がぴりつく寒気の朝、焼跡一面に霜柱が立って、粗悪なゴム靴の下でかしかしかしと音を立てた。夜は底深く冷えて、躰が芯まで凍え、そのまま冷えきり死骸へと速やかに移行した者も少なからずあった。冬の陽は冷然としてぎらつき、黒ずんだ地面に焼けただれたビルや仮小舎の列が長い影を曳いた。焼跡に蠢く人間は誰もが 炭団みたいに真っ黒だった。栄養不足のせいもあるんだろう、男も女もへんに煤けて、焦げた目刺しみたいになっていた。そういう印象がある。それでも餌を求め闇市に群がる黒い人たちの、白目の際立つ目玉だけはぎらついて、もう一刻の油断もできない。生き馬の目を抜くというけれど、間抜けな馬などはたちまち皮を剝がれ、肉を喰われ、骨までしゃぶられる。ほとんど毎日が 戦争、米国との戦争が終わって、第二の戦争がはじまった具合で、自分もまた修羅の群れに身を投じ、かろうじてその日その日を生き延びた、というのはそれほど大袈裟ではない。
 潜水していた人が水面に顔を出したがごとく、自分がようやく一息ついたのは約一年後、昭和でいえば二十一年の暮れ。占領下ニッポンの先行きはいまだ混迷をきわめていたけれど、破産した日本のことなど考えても仕方がない、問題はこのおれ、このわたし。自分はこの先どうするのだと、ようやく考えはじめたのが、国電大森駅の線路沿いに立ち並ぶ屋台でカストリ焼酎を飲みつつ、除夜の鐘を遠くに聞いたとき。 金属供出でどこの寺の鐘も潰されていたが、かろうじて残ったのが近所にあったんだろう。つまりは百八つの煩悩がようやくわが身に戻ってきたという次第。
 正月準備なんてものは誰ひとりできぬままに暮れた大晦日、終電も終わって静まり返った線路土手の下、 襤褸同然の国民服や軍隊外套がぽつりぽつりと貼り付く屋台見世に吹きつける寒風をついて届く、祇園精舎ならぬ廃墟に響く鐘の音。ボオン、ボオンと、憤懣を吐き出すようでも、還らぬときを愛おしむようでも、 孤独の憂愁を嘆くようでもある響きを耳にした酔眼の自分に、そのときふとある考えが、いや、考えというほどでもない、浮かんだのは思考の切れっ端みたいなもんだ。しかしそれが突風に舞う紙屑みたいに脳中に 飛来したときこそ、あとから思えば運命の瞬間だった。
   浮かんだ考えとは果たしてなんであるか? というならば、すなわち、探偵だ。私立探偵になったらどうだろう、というもの。そうなのである。忘れていた夢が伻ったのである。
                             (つづく)

石目が遭遇する殺人事件の真相は、「K文書」の正体は、本書のカバー一面を埋め尽くす"dadada"の文字が意味するものとは、いったい……?
"語り″が蠢く超絶技巧ミステリー、8月5日(月)刊行予定です!

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