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「生きづらい」は“今”だけなのか?と思って戦国時代のある人物に思いを馳せてみた

「生きづらさ」を抱える人を「イキヅラー」なんて言いませんよね?失礼、何かのブームを感じさせるみたいにこの言葉を最近よく見かけます。正直、「生きづらい」の定義がよく分からず、昭和のスパルタ的な気風を経験しているものだから、「人生楽ありゃ苦もあるさ」くらいの話と捉えていたのですが、最近生きづらさの正体が「HSP」なる気質が問題であると知り、その特徴を見たとき「まんま自分じゃん」と思って診断してみるとまさにそのHSPだったわけです。物心ついたときから、自分は何となく周囲の人間と違うなと感じていたあの違和感やズレ。それを、診断サイトの解説文は「あなたにはいいところもあるんです」と全肯定してくれて、泣けました。

人間関係にひどく気疲れしたり、社会の規格からはみ出て疎外感に襲われたり、この世のいろいろなものに手こずりながら何とか生きている人は私含め多いのでしょう。ただ、その一方で、「生きづらい」は現代特有の感情ではなく、いつの時代にも存在する、人間の永遠の課題ではないかという気もします。今はただ、生きづらいと発信できる時代になったから、可視化しただけで。

私は歴史が好きでその手の書籍をよく読むのですが、そこでは時代ごとに異なる価値観や社会の仕組みがある事実に触れることができます。現代でもそうですが、多くの人は時代の価値観や社会システムに合うように折り合いをつけながら生きるのでしょう。が、必ずしも大勢を占める価値観についていける人間ばかりとは限らず、そこからはみ出してしまう現実が「生きづらさ」を生み出してしまうのではないか、と愚考します。そして、歴史を細かく見れば、「この時代にそんな性分だとつらいだろうな……」と同情したくなる人物は山ほどいるのだろうなという想像力が働きます。

たとえば、ぼくが最近気になっている戦国時代の人物に、長尾晴景(はるかげ)という人がいます。彼は戦国時代のスーパースター、上杉謙信の実兄です。と聞けばそこそこ優秀な武将のような気がしますが、事実はその正反対で、弟は似ても似つかぬ軟弱体質、しかも「戦が苦手」と公言してはばからなかったと言います。「インターネットが苦手」と現代人が言うのとはまた次元が異なる、この時代では致命的な欠陥を抱えていたわけです。

彼がまだ百姓の息子ならよかったでしょう。戦とは関係ない商人の家の長男なら救われたかもしれません。ところが、彼は越後の有力豪族・長尾家の長男です。しかも、越後ナンバー2の座である守護代の地位に座る立場の人間。越後はこの時戦乱が絶えず、統治するのも難しい状態でした。並みの武将ならいざしらす、晴景にとっては「無理ゲー」というものです。反長尾党や敵対勢力が度々起こす反乱劇にも見舞われるも、自ら先頭に立って鎮めるなんてとてもできないやしない。だから親子ほど年の離れた弟の景虎(のちの謙信)が代わって成敗するわけですが、こんな姿は周囲から見ればどんなふうに映ったか、想像するまでもないでしょう。兄と違って弟は器量抜群、こと軍事に関しては天才的で非の打ちどころがない。次第に晴景を退け景虎を当主にという声が高まるようになります。最終的には、晴景は弟にその座を譲り、隠居することになったわけですが。

名門の家系でありながら、戦嫌いの気質を持って生まれてしまった晴景。無能な自分に対し、弟は常に賞賛と羨望の的。どんなに悔しかったでしょうか。個性が尊重され、生きる選択がたくさんある現代であれば、別の生き方を選ぶことも難しくないでしょう。そんな自由な空気とは縁遠い時代に、晴景はいました。強くあって当たり前、戦に長じて当たり前、どこに行ってもそんな空気に苛まれ、さぞ生きづらかったにちがいありません。

生きづらさを抱えた人間は、いつの時代にも存在していたことに思いを馳せたい。時代の片隅に置いて行かれたため息と悔し涙は、繊細な現代人ならやさしく掬い取れるんじゃないかとの期待も込めつつ、本コラムを書いてみました。



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