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菅原道真へのスキ|神になれたのは怨霊になったからじゃなく高潔な心のほうで

思い通りにいかない現実を人のせいにするな、悔しくても誰かを責めるな。

確かにそうあるべきだが、これが案外むずかしい。

明かな自分の落ち度を脇に置いて「会社が悪い」「上司が悪い」「このルールが間違っている」などと責任転嫁するのは、もちろんみっともない。

それでも、あまりの理不尽に遭遇し、苦しい現実が壁となって進路をふさいだとき、良識は失われ心もやさぐれてしまう。

まして、いわれなき中傷を浴びたり、身に覚えのないことで糾弾されて不名誉を被ったのならば、毅然とした態度で挑むのはもちろん、そのような攻撃をしてきた相手に恨みの感情をもって仕返しを目論むのはある意味仕方がないことのように思う。

それでもなお「人のせいにするな」「人を責めるな」と言うのは、ほとんど人間やめろと言っているに等しい。

聖人君子になれ、と無理な要求をするのと同じだ。

私は今ライターとして生計を立てているが、ある誰かに嫌われて理不尽にもこの世界から追放されたりしたら、その人物を強く恨むだろうし、「俺が今こんなみじめな境遇にいるのはあいつのせいだ」といつまでもネチネチ言うに違いない。

それをしたところで、現実は何も変わらない。でもそうなっちゃうのは、心が楽になるからだろう。楽なほうへ流れることが許されるとき、人はいくらでも楽な道を選ぶだろう。

それでも、「いや、俺は何があっても人のせいにしないし、誰かを責めることだけはしない」となる防波堤を築くには、自分の中で一本太い背骨となる「美学」を持つ。これしかないと思う。

誰がどう考えてもひどい理不尽な目に遭遇したとき、私は誰かのせいにしない自信がない。だから、それを絶対にしない、しなかった人には背筋を伸ばして頭を垂れる。その人の名前を額縁に飾って毎日拝むくらいのことはしてもいい。

その人物を歴史上に求めるなら、太宰府天満宮に祀られる「学問の神様」こと菅原道真になる。

菅原道真は有能な政治家だったにもかかわらず、政争に巻き込まれて九州に左遷される不遇を味わった。この不幸に、彼はたぶん泣いた。が、恨み言は吐かなかったと思う。自分をこんな境遇に追いやった藤原氏に対し、恨みつらみの言葉を得意の詩や歌に刻み込むこともできたとはずなのに、決してそれをしなかったのは、それが道真の「美学」だったと私は理解している。

若いときから有能だった菅原道真は順当に出世を果たし、家柄と血筋は傍流でありながら左大臣という大きなポストに就く。天皇もまた彼の才能を愛した。が、優秀すぎるあまりライバル藤原時平の嫉妬を買い、政略を仕掛けられて失脚した。九州大宰府への左遷となり、愛する家族とも離散した。

彼は大宰府にいる間、ずっと身の潔白を主張し続けた。無実であることを痛切に訴える漢詩や和歌をたくさん残した。それでも無実の証明と都への返り咲きは叶わず、九州に流された二年後にその生涯を閉じた。哀しくて不憫すぎる晩年だった。

菅原道真の歴史はここで終わらなかった。

道真の死後、藤原時平とその親族が次々に流行り病にかかって斃れていった。この薄気味悪く不自然な現象を、当世の人々は「菅原道真の祟りが起きたのだ」と恐れ、その風聞はたちまち都を席巻した。道真の怨念を鎮めるためか、その罪は免ぜられ、右大臣への復権が許された。そればかりでなく太政大臣の追贈となり、しまいには神さまとして祀られるようになった。北野天満宮と太宰府天満宮のご祭神は、今となってはおそろしい怨霊の面影などどこにもなく、受験前の学生にご利益を授けるやさしい学問の神となって鎮座している。

身に覚えのない罪を着せられ、みじめな幽囚の身に甘んじた不遇の生活。血が逆流するほどのくやしさと怒りがあってもおかしくないと思われたからこそ、怨霊伝説がまことしやかにささやかれたりもした。太宰府で独り静かに世を過ごした菅原道真は怨念に取りつかれていたのか。少なくとも下記の詩を見る限りでは、腐らずに清らかな心をつなぎとめるため、どす黒い感情を必死に鎮めようとした姿勢がうかがえる。

去年の今夜、清涼に侍し、秋思の詩編、独り腸を断つ、恩賜の御衣、今此にあり、捧持して毎日、余香を拝す

去年の今夜は、宮中の清涼殿で天皇がお出しした「秋思」という題で詩を作ったことがなつかしく思い出されます、今日はちょうどその一年後の夜ですが、遠く大宰府の地で、ひとり寂しく愁いに沈んでいる身、しかし、天皇から賜った御衣は、今も毎日大切に使わせてもらい、天皇のお恵みに感謝しないわけにはいきません、という意味の詩だ。これを見れば、辛い境遇にありながらも、中央の政権を恨む様子はなく、それどころか天皇に感謝と忠義の心を尽くす清らかな心があったと言えないだろうか。

追い落としてくれた藤原氏に恨み節ひとつ述べたかったに違いない、さらに言うと藤原氏に追随した天皇に含む感情があったとしてもおかしくない。それをせずぐっとこらえ、最後まで美しい歌と詩を遺すことに執心した道真は立派だった。

一般的には、道真の祟りを鎮めるために大宰府と北野に社殿が築かれ、神として祀られるようになったといいわれる。流布された道真の怨霊伝説は現代でも語り継がれ強烈な印象を残してやまない。道真の死後に起こった、因果関係不明の事象は確かにインパクトがあって面白い。が、これをことさら取り上げるよりも、生前に残された詩歌がどんな思いでつくられたか、そこに込められた精神とは何だったのか、もっと注目してもいい。神としての資格でいえば断然、後者のほうがふさわしいと感じるのは私だけだろうか。

抜群の文才と秀でた学問にあやかり、多くの現代人が信仰してやまない菅原道真。私としては、忍の一字で左遷生活を送り、恨み言を漏らさず天皇への美しい忠誠を貫き通した至誠の心にスキしたい。




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