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やがて朝がやってきて、沈んだはずの太陽を今日もまた見ている。

 八月の太陽が輝く、世界はキラキラしている。
 雲一つない空に私は指でなぞるように文字を描いた。もちろん、文字は見えない。それでも私は文字を描き続けた。意味はないけど、この満天の空に私の心はカラフルに踊っている。
 
 私の住んでいる小さな田舎町は、この日大きな夏祭りで賑わっていた。この時期になると各地から人が集まって、普段閑散としているこの町は熱気と喜びに満ちた声が響いている。だからなのか、それともこの空のせいか、私は気分が良い。
 
 夏祭りは街の中心街から少し離れた神社で行われている。なぜこんな田舎町の夏祭りがこんなにも賑わうのかは正直わからないけど、伝統ある神社だからか、だだっ広い敷地だからなのか、花火にしても、テレビ番組の特集で観る東京の花火大会に比べれば寂しくなるほど。こんなお祭りだとしても、私は毎年この日を楽しみにしている。
 そんな夏祭りが何故賑わっているのか? 考えられることは縁結びの神様が祀られていることだと思う。毎年たくさんの恋人たちが幸せそうにお祭りに参加して、絶えることのない笑顔で幸せのお裾分けをしている。
 私はというと、そんな恋人たちを横目に、恋など愛など縁結びなどとは縁もほど遠い。
 今日の待ち合わせも、顔も見飽きた親友だ。場所は表参道の入り口。いくら待っても彼女は来ない。時間に正確な私は、待ち合わせ五分前には指定の場所には着いていた。普段の私なら柳眉を逆立てるのだが、いや違うかな、美人でない私には似つかない表現だ。もしそうなら待ち合わせはカッコいい男性だと思う。怒髪天を衝く、うん。私らしい表現。でも、今日はそんなことはない。なぜなら私は気分が良い。
 
 私が表参道に着いて四十分ようやく彼女がやってきた。
「ごめん待った」
 彼女は腰を屈めて申し訳なさそうに言った。待った、待ちました四十分。
「とりあえず、たこ焼きにりんご飴でしょ。それから...」 
「わかりました。なんでもおしゃってくださいませ」
 彼女は私の言葉を遮って言った。とりあえず行こうかと私に催促する。私は額に滴る汗をジーパンのポケットから紺色のハンカチを取り出して軽く拭うと、ひとまず表参道を進むことにした。
 参道脇、出店の種類はとても豊富だった。フランクフルトに焼きそば、たこ焼きにお好み焼き、ソース、醤油、マヨネーズ、食欲をそそる香ばしさ。甘いポップコーンにみたらし団子。「おなか減ったな」私の小さな呟きを彼女は聞き逃さなかった。「ごめん」ていが悪そうに彼女もまた呟いた。

「何時に待ち合わせなの?」
 私は彼女に訊ねた。
「七時に境内前だよ」
 彼女、麻衣は美人だ。白い肌に栗色の長い真っ直な髪を結い襟元からのぞく項は、女の私でも鼓動が高まる。しかも今日は浴衣。藍地に白い菊の華びらが満開に蕾を開き、彼女が動く度に華びらが風に揺れる。帯留めには、一頭、甘い蜜に誘われた蝶が美しく翼を休めている。この蝶はたぶんオスだ。彼女に身も心も魅了され、それでもその柔らかな肌に触れることのできない。私は彼女の柔らかな頬を指で触れ、私の麻衣だと言わんばかりに蝶を見た。蝶は羨ましそうに私を見ている気がして優越感に浸る。
 私の自己満足に頬を緩めていると、彼女は何やら気持ちが悪そうな目でこっちを見ていた。「どうした」と言われたけど「いや別に」と返す。目と目が合い私たちは思わず笑ってしまった。高校生の私たちには、日常の出来事、一つ一つが面白くて、それでいて過ぎて行く時間に切なさを感じる。だから、なんでもないようなことが楽しく思えて幸せなんだ。
「たこ焼き食べようか?」
 彼女が言うと私は「うん」と言った。
 
 長い参道脇の出店には『たこ焼き』と書かれた店があちらこちらにあった。私たちは少し離れた場所から、たこ焼き屋の観察をした。あっちは大きいけど数が少ないとか、小さいけど数はあるとか、こっちは五十円安いとか高いとか。結局表参道を一往復して、その間にりんご飴を二つ買い、二往復目の復路で十二個入り八百円を二つ、彼女の奢りで買った。
「どこで食べようか?」私が言うと、「隣の公園の芝生で座って食べようよ」と彼女は言った。
 
 神社の隣には大きな公園がある。一面芝生になっていて、週末にピクニックやランニングをしている人をよく見かける。公園に着くと彼女は「あそこがいい」と大きな木の下を指差した。どうにも彼女の綺麗な浴衣が汚れるのが嫌だった私は、その大きな木が見える東屋を指差した。彼女は眉間にしわを寄せて訴えてきたけど、私はそれを見ない振りして東屋を目指した。普段の彼女なら駄々をこねて私を困らせるのだけど、今日はやけに素直に私の言うことを聞き入れてくれた。やっぱり遅刻してきたことを反省しているのだろう。そう思うとなんだか気分がまた良くなってきた。歩幅が自然と広くなり、笑みが溢れる。木目の綺麗な椅子に座る。
「最近先輩とはどうなの?」
「まあ、ぼちぼちかな。夏休みに入って部活のない日は遊びに行ったり、後は家で電話するくらい」
「最近会ってくれないのは先輩のせいね」
 私は少しだけ寂しさを含んだ笑顔をつくる。
「まあね」と彼女は満面の笑みを浮かべ答えた。この笑顔に私は恥ずかしさをおぼえた。
「じゃあ、もうキスしたの?」
 私は自らの恥ずかしさを堪える反面、さらに恥ずかしいことを聞いてしまった。後悔しても、もう遅いけど親友がどこまで進んでいるのか訊いてみたかったことは確かだった。彼女は少しだけ目を泳がせたあと、周りを見渡して大きく深呼吸をした。白い肌が新鮮なリンゴみたいに赤くなっている。
「ーーこの前キスしたんだ。緊張したけど、なんだかよくわからなかった。好きな人とそういうことができて嬉しかったし、でもなんだか、あんなドキドキってもう経験できないんだろうなって思うとなんだか寂しくもなって、でもーーそれでも嬉しかった」
 彼女はそう言うと、恥ずかしさを隠すように一声上げて「それより一美はどうなのよ」と言った。
「私はないない。気になる人もいないしさ、正直好きってなんだかわかならいし、男みたいな性格だし、もう少し大人になればわかるものなのかなって」
 
 彼女を含め、周りの同級生は皆恋愛の話しで盛り上がる。でも私にはまだそれがわからない。親友の彼女が少しずつ大人になっていくのを横目に、変わらない私は、この先も変わらない日々を過ごすのではないのか。過ぎていく時間が怖かった。
 それでも憧れはある。可愛い洋服を着て、恋した男性と一緒にいること。憧れだ。でも私にはまだ夢物語より遥か高みに思える。ただ今は楽しい。大好きな陸上に憧れの先輩を間近で追い掛け、夢に向かって突き進む。くっきりとした二重瞼の真黒な瞳に映る私と目が合う。「これが私よ」彼女の瞳に映る私がそう言うのが聞こえた気がした。そんな私の気持ちを汲み取ったのか、彼女は心持首を傾け私の頭をポンポンとした。なんだか気持ちがすっとした。
 それから私たちは話した。夏休みの出来事や、同級生の悪口に頬を緩めた。
 
 午後六時を廻ったところだった。
「ねえ、おみくじ引きに行こうよ」
 彼女が言うと私は「そうだね」と言った。
 この神社最大の魅力は縁結びだ。そのお蔭で田舎のちっぽけなお祭りがこんなにも賑わっている。私たちは重い腰を上げ、背伸びをした。たこ焼きの空パックと、未だ手つかずのりんご飴を持ち歩き始めた。私は、ゴミ箱を見つけると空パックとりんご飴の袋を取り捨てた。それを見た彼女もまた同じ仕草をした。りんご飴を舐めながら参道に入る。
「あのさ、伝統的ってなんだろね。伝統って昔からずっとってことだよね。何十年も何百年も変わらずにってことだよね?」
「そうだと思うよ。昔からずっと変わらずに受け継がれてきたことでしょ。伝統って」
「じゃあここの神様は昔から毎年この時期になると同じ風景を見てきたんだ。この男女はくっつけてとか、こいつらは駄目だとか」
「そうだねきっと。そして麻衣と先輩のカップルが長い歴史上最高だと神様もうっとりするはずだね、きっと」
 彼女の頬に温かい血色が差した。
「じゃあ縁結びの神様は誰と結ばれるんだろうね? 神様だって男か女のどちらかでしょ。なら自分だって恋愛したいじゃん」
 考えもしなかったが確かに彼女言う通りだと思った。神様はなぜ人の恋ばかり結んいるのだろう。自分の恋愛に興味がないのだろうか。それとも趣味か。そんなことはないだろうと想像して脳内で笑ってしまった。
「きっと神様も探してるんだと思うよ。一組成立させる度に神様の小指から伸びている赤い糸が結ばれて伸びるんだよ。そうして何度も何度もその糸を結んでは伸ばして、まだ見えない愛しい人へその糸を伸ばして。じゃないと可哀想だし」
「そうすると神様はいつ運命の人と巡り会うことが出来るのかな? もうずっと昔から探してるってことでしょ。私達の恋愛の上に神様の恋愛が成り立つのはなんだか恐れ多い気がするな」
 私は「そうだね」と言う。
「でも私の縁結びの神様は一美様だから」
 彼女は私の顔を覗き込み笑顔を見せた。
 
 彼女の言う通り、彼女と先輩を一緒にさせたのは私だ。丁度一年と二ヶ月ほど前だったろうか、この日も先日から続く雨が朝から降っていた。陸上の練習は雨が降っても中止になることはない。それは他の競技と違いどんなに雨が降っても、雨で大会が中止になることはまず無いからだ。雨の日は雨の日で走り方も変わってくる。梅雨はまたとないイメージの時期でもある。とは言え、雨は嫌いだ。一通りの練習を終えると、冷えた身体を熱いシャワーで洗い流した。私は体育館で同級生とストレッチをしている時だったのを覚えている。
「一美ちょっといいか?」
 話しかけてきたのは先輩だった。
「はい。大丈夫ですよ」と私は応えると、先輩は「じゃあ」と体育館の角を指し歩き始めた。私は同級生に「ちょっと」と言い先輩の後をついて行った。
「この前のこと覚えてるか?」
「麻衣のことですよね。今日一緒に帰るのでその時でもどうですか?」
 と私は言った。先輩は少し考え「お願い」とだけ言いその場を後にした。
 
 昨年のことだった。先輩に話しがあると言われ、私は何だろうと少し胸を躍らせながら向かった。話しというのは麻衣を紹介してほしいと言うことだった。私はそれを快く承諾した。実は彼女からも先輩のことを色々と聞かれていたからだった。
 二人は両想いだった。憧れの先輩に大親友の彼女。この二人を祝福できないでいられるだろうか?
 私は彼女にその日の内にそれを伝えると彼女は飛び跳ね喜んだ。今まで見たことの無い顔で笑っていた。そんな顔を見ると、嬉しさの反面少しばかり嫉妬を覚えた。いつものように彼女は笑う。これからは私の知らない顔を、先輩も彼女も二人だけの空間で見せ合うのだから。この気持ちがこの時も、もちろん今も何なのかは分からなかった。
 二人の顔合わせは終始無言だった。私が一通り紹介して、その後、彼女と先輩が自己紹介をした。沈黙、その沈黙に私もどうしていいのか分からずにただ、誰か話さないかなと雨の音だけ聞いていた。どのくらい時間が経ったのか、彼女が「帰りますか」と言うと先輩は「帰ろうか」と微笑んだ。
 
 それから私、彼女と先輩の何とも不思議な関係が始まった。この二人はどれだけ恥ずかしがり屋なのか、それからも全く話そうともしなかった。彼女がなにか言うと、それを私が先輩に伝える。それをまた彼女に伝える。一種の伝言ゲームだ。初めは面倒だなと思っていたけれど、いつの間にか楽しくなってきた。一語一句間違えないように伝えることが、私の使命に思えてきたそんなある日だった。
 その日の彼女はなんだか下を向きいつも以上に緊張していた。
「ねえ、一美またお願いが……」
「今日は何伝えるの?」
「恥ずかしいんだけど……。来週の日曜日映画観に行きませんか? って」
 私は赤面した。まさかデートの誘いを私から伝えに行かなければならないとは、
「麻衣、それは麻衣が……」
 私の言葉を遮る様に彼女が言った。
「これが最後だから」
 ひと時の静寂が流れる。私は溜息混じりに「わかった」と言った。「ごめん」彼女が潤った瞳で私を見ると、可愛いな。ただそう思った。
 私はその日、部活に集中できなかった。走りながら先輩を眼で追っては、伝える言葉が頭に浮かぶ。「来週の日曜日映画観にいきませんか?」ストレッチ中もアップ中もインターバル中も先輩を見つけてはその言葉が頭を過る。どんなシチュエーションで、どんな顔をしてどんな声で伝えればいいのか、わからなかった。ただイメージはした。練習後ストレッチの時か、それとも全部終わってからがいいのか。ただ彼女からの言葉を今まで通りそのまま伝えれば良いだけのことだったのに、なかなかそれが出来なかった。
 練習が終わり、いつ伝えようかともやもやとした気持ちの中、先輩に声をかけられた。
「お前今日どうした? 練習集中してなかったよな?」
 もうここしかないと思った。私はいつもより一声あげて言った。
「先輩! 来週の日曜日映画観にいきませんか?」
 周りの部員にも聞こえるくらいだった。私は言ってしまった。と瞼をぎゅっと閉じ、少しだけ震えていた。
「一美?」
 先輩が言った。そっと瞼を開け先輩を見上げた。先輩はなんだか不思議そうな顔で、「お前とか?」と言った。私は透かさず、両手を身体の前で左右に振ると「違います違います。麻衣からの伝言なんですよ」
 と言うと、先輩は今まで見たことないくらい大笑いした。私の目は今きっと大きなビー玉のように丸まっている気がする。
「いや、あんまり真剣な顔してお前が言うもんだから、お前に誘われてるんだと思ったよ」
 穴があったら入りたいとはこのことだ。人生の失態だ。嫌な汗が全身からこの時出ていたと思う。憧れの先輩が目の前にいるのに。
 私は涙目で大きな溜息をついて、いつの間にか一緒に笑っていた。何故溜息をついたのか、なんで笑っているのか私には分からなかった。
 
 いつの間にか彼女の言葉は私の言葉になっていた。伝える一語一句、彼女の言葉でなく、私の言葉だった。私は——私は少女Aだ。いや、縁結びの一美様だ。そう何度も、何度も、自分に言い聞かせた。
 翌週の映画は、もちろん私も一緒だった。最後だからなんて嘘っぱち、この日も私は仲介役だった。映画の内容は内気な女子校生が、クラス一イケメンの高校生に助けられ、恋をしていくというラブストーリー。なんだか退屈な一時間半が終わり、どうせならアクション映画が見たかった。劇中、横目で二人を見るとしっかりと手を握りしめ鑑賞していた。映画が終わってもその手を離すことなく、今までが嘘だったように二人映画の話しをしていた。私が覗き込むように二人の顔を見ると、お互い顔を合わせ、恥ずかしそうに手を離した。私は二人の右手と左手を取り、また手を握らせた。丁度その日は去年の夏祭りの日だった。

「大吉だ」
 彼女は百円を入れおみくじを振った。そして今年も大吉を当てた。やはり持っている人は持っているのだろうか?
「なになに、恋の短歌は、大空に、二人の星が輝いて、心は熱く、愛を語らう。何、私持ってるんじゃない? 恋愛は、その人以外ないでしょう。だって」
 ねえ一美はどうなのという目でこっちを覗き込んできた。私も百円を入れて振ってみた。もちろん大吉一点狙い。もちろんそう都合の良いようにならないのが人生だったりする。出たのは末吉。なんとも微妙。
「なんて書いてるの?」彼女が目を輝かせ聞いてくる。「まあ待ちな」と私は左の口角だけ上げて言った。
「えっとね。恋の短歌はと、ぼんやりと、恋にのぞいた、月の夜の、見えて懐し、面影恋し。だってよ。愛しい人の面影は現実となってくるか。恋愛はね、その人以外ないでしょう。麻衣と同じだね。待人は、直に現れるでしょう。だって」 
 本当だったらどれほど幸せだろう。愛しい人とは誰のことだろう。恋愛とは、好きとはなんだろう。こんなおみくじ一枚で私は何か変わるのだろうか。そんな想いを巡らせている時だった。
「麻衣、一美。二人一緒か」
 聞き覚えのあるその優しい声。振り返ると先輩が居た。鼓動は早く脈打っている。彼女と先輩が話しをしている。声は聞こえない。蝉の声も子どもの声も、今全ての中心は私の脈打つ心であるかのようにどくん、どくんと、憧れの二文字が全身を駆け巡る。それは、ぼんやりと姿を変えていくような気がした。
「一美」
 二人に呼ばれ私はハッとした。「何ぼけっとしてんのよ」と彼女に言われると、先輩から「お前顔赤いぞ」と言われ顔を伏せた。心の中で平常心平常心と何度も唱え声に出した。「早いですね」それが精一杯の返答だった。先輩は「まあな、麻衣とは違うからな」と笑いながら言った。彼女は「あら、嫌だわ」とお嬢様のように言った。
「どうする、久しぶり三人で遊ぶか?」と先輩は言った。
「このあと家族で用事があるので」
 嘘をついた。今、彼女と先輩と一緒に居ると何かが変わりそうだった。
「少しぶらぶらして家に帰って花火でも見ようと思ってる」私が言うと、彼女が、
「そっか、ぶらぶらしてる途中に運命の出会いがあるかもよ」と言った。
「あったら驚きだよ」
「じゃあ一美、気をつけて帰れよ。一応女の子なんだから」
 先輩が言うと、私は精一杯の笑顔を作った。
「先輩こそ、麻衣に変なことしないで下さいよ」
 先輩は左手で頭を掻きながら笑顔で「わからない」と言った。私達三人は顔を互いに見合い笑った。「また近々連絡するよ」そう言って去って行く二人の後ろ姿に私は何も言えなかった。彼女はまた大人になるだろう。私の知らない世界へこれから足を踏み入れるだろう。憧れの先輩と一緒に。私は一人だ。涙は出なかったが、寂しさはあった。大勢の幸せが溢れる中、私だけ一人のような気がして足早にその場を去った。
 
 すれ違う人波、沢山の幸せと出会った。彼女のように髪を結い浴衣を着た女性はしっかりとその手を男性に預け、小さな子どもは、顔より大きな綿菓子を手に駆け回り、老夫婦は一歩下がってその背中を見つめている。行き交う人すべてが私の瞳には幸せに見えた。そんな時だった。
「お嬢ちゃん一回どうだい?」
 そう声を掛けてきたのは的屋のおじさんだった。私は乗り気ではなかったけど、五発三百円のところを、お嬢ちゃん可愛いから特別に七発でいいよと乗せられてしまった。ただ、久しぶりに可愛いなどと言われたことが嬉しかった。
「真ん中のデカいの倒したら特賞のゲームだよ。さあ狙った狙った!」
 おじさんが言うまでもなく私はそれしか狙ってなかった。一発目、確実に的を得たのだが、ぴくりともしなかった。私は少しムッとして二発目三発目とも狙いを定めた、しかし全く倒れる気配すらない。私は、「全然倒れないんですけど」と顰め面して言うと、「まあ特賞だからね」と笑っていた。このまま何も収穫なしに帰るのも嫌なので私は的を変更した。なんだかよくわからない黒い筒状のモノを狙ったが四、五、六発と立て続けに外した。乗せられて始めたがこのままだと悔しい。最後一発に集中して引き金を引いた。弾は私が思い描く軌道に乗り見事命中地面に落ちた。「よし」私は小さくガッツポーズをしてみせた。的屋のおじさんもうんうんと頷く。「はい」と渡されたモノを私はなんだろうと見た。万華鏡なのだろうか、分からなかった。聞いてみるとそれはおじさん曰くやはり万華鏡だと言う。
「あの万華鏡って覗くいて回すと中のビーズとかが回ってキラキラするやつですよね」
 私がそう言うと、おじさんは「そうだよ」と言った。
 この万華鏡にはビーズが入っていなかった。それどころか、覗き込んだ筒の先は透明で望遠鏡みたいに近くに見えたり遠くに見えたりするだけだった。
「これはちょっと特殊なやつでね。ビーズは入ってない。底は透明で先が見えるけど内部の作りは万華鏡と一緒なんだ。ただ違うのは筒の中のモノを回して見るんじゃなくて外のモノと反射して鏡の中に映し出すんだ」
 そう言うと私は万華鏡を的屋のおじさんに当てて回してみた。ああ確かに、おじさんが気持ち悪く回転している。とんだ無駄なモノを当ててしまった、と後悔して的屋を後にした。「ありがとね」っと太い声だけが後に響いた。 
 
 的屋の一件でなんだか少し気持ちが楽になった。この万華鏡もどきの使い道は検討もつかないが弟への良い土産ができた。弟はガラクタを集める趣味がある。きっと喜ぶなと思い、後で麻衣に報告するネタも出来きた。もうお祭りに思い残すことは無かったので、また足早に家路へ向かった。
 神社近くに停めていた自転車に乗りペダルを漕いだ。後輪がペダルを漕ぐ度カランカラン音を立てるの可笑しかった。夕暮れは静かに次の朝日へと向かおうとしていた。裏路地を抜けると田舎の風景に様変わりする。周りには田んぼがあり、まだ収穫前の稲は早くも頭を垂れている。最後の太陽が懸命に光を放ち辺り一面を黄金色に染める。小さい頃から何度も何度も走った風景だ。小学生の時も、中学生の時も、そして、彼女とはくだらない話しをして帰った道であり、三人で笑い帰った道であり、先輩と一緒に走った道。昨日沈んだ太陽は、また新しい輝きを放って同じように私たちは眺めた。季節は何度繰り返しても、思い出は変わらずに焼き付く大切な道。
 そんな時だった。遠くで大きな音が聞こえた。花火だ。私はペダルを止めた。音の聞こえる方向へ身体を向けた。まだ闇に成りきれない夜空に、太陽を追い出すように一輪の華が開いた。満開だ。続けてどん、どんと聞こえた。光り輝く華の蕾が、夜空へ茎を伸ばす。開いた。華びらはその欠片を星屑のように消し去っていく。ふと今来た道に視線を落とすと、いつかの私がいた。まだ恋を知らない私だ。
 私はポケットの中の万華鏡を手にした。花火が打ち上がる。私は万華鏡を覗き込んでみた。その奥の世界はカラフルに、そしてキラキラと輝いていた。花火とも万華鏡とも違う一瞬の世界が広がる。太陽はもう、沈んでいた。華びらが一輪、その輝きは私の意思で自在に新たな世界を創ることができる。
 満天の星空に私は指でなぞるように文字を描いた。私は気分が良い。

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