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【読書日記】創作で傷を描く意味(『利他・ケア・傷の倫理学』)


 

1:はじめに


 二年前、10円ハゲが五個できたので仕事を辞めた。

(五個から数えるのをやめたのでそれ以上あったと思う。ハゲを繋げば多分ちょっとした星座をつくれるくらいには)

※イメージ「北斗七星」
(なよろ市立天文台 きたすばるHPより引用)

 
 退職するまでの最後の二か月、もう来年度のことは何も考えなくていいので暇になった私は、高校以来ほとんど読まなくなった小説を手にとってみた。

 その小説は、表紙が童話調のイラストで可愛らしく、心が病んでいる私を癒してくれるだろうと、表紙と題名以外の情報なしでさっそく読んでみた。

「……」
「……」
「…………」

「お……、重い……😢」

 私の予想は大はずれで、内容はというと、DV、ネットストーカー、ネグレクト、自殺、ヤングケアラー、毒親について……。

 小説自体は興味深く読めたが、そのときの私は、心のHPを回復させるために読んだはずなのに、HPが削られてしまった思いだった。

 そして私は無謀にも思ったのだ。

「心が少しも傷つかない、そんな物語を書いてみたい」

 そして現在、noteに創作小説をぽつぽつと投稿し続け、あることに気付く。

「あれ、私の小説の登場人物、全員、傷だらけじゃないか……?」

 挫折、いじめ、裏切り、病気、事故……。

 私は気付けば、「癒し」とはほど遠い、色んな意味で「痛々しい小説」を書いていた。
 
「私の創作で、嫌な思いをしたり、傷つく人がいたらどうしよう」

 いつから私は創作を始めた目的を自ら放棄してしまったのだろう?
 私は傷を描きたいと思えるほど心が元気になったのか?
 逆に心がさらに暗い方へ向かっていないか?

 そもそも、創作で傷を描く意味って、なに?


 その答えをくれたのが、近内悠太『利他・ケア・傷の倫理学』(晶文社)だった。

 

2:読書日記『利他・ケア・傷の倫理学』


 本書で取り組む問題は(……)僕らの善意の空転はそもそも防ぐことができるのか? そして防ぐことができるとすればどのようにしてか? というものです。

『利他・ケア・傷の倫理学』p,11

 
『利他・ケア・傷の倫理学』の主題は、

「誰かを助けたい。誰かのために贈り物をしたい。誰かを癒したい」

 そういう善意ある行動全般を「ケア」として、どうすればお互いに納得のいく「ケア」が成立するかを考えていくことにある。

 『利他・ケア・傷の倫理学』では、アンパンマンが「ケア」の例として挙げられている。
 例えば、アンパンマンはお腹が空いているカバオくんに、パンをあげるというエピソード。

 この事例では、二人の間に「ケア」が成立している。
 どうして「ケア」が成立したのか。

 それは、アンパンマンとカバオくんの間には、「お腹がいっぱいになりたい(してあげたい)」という、二人が「大切にしているもの」を、共有できているから。

 『利他・ケア・傷の倫理学』において、キーワードになるのがこの、「大切にしているもの」だ。

 一旦、利他・ケア・傷の関係性を、表にしたので見てほしい。

『利他・ケア・傷の倫理学』より

 『星の王子さま』の名言にある通り、「大切なものって、目には見えない」
 多様性の時代、その傾向はさらに顕著で、私たちは大切なものを共有できない。そしてそれは、人間ならではの悩みなのだと、近内さんは様々な説を提示してくれる。

 だけど、大切なものを失ったとき、誰かに大切にしてもらえなかったとき、そして自分が大切にできなかったとき、人は傷つく。涙を流す。表情を曇らせる。私たちは、その姿を見ること、感じることはできる
 
 その人の「傷」を見て、私たちは初めて、その人の大切なものが分かるのだ。
 
 以上の近内さんの考えがまさに、私の創作への疑問への答えだった。

「私は、傷の向こう側、誰かの『大切なもの』が書きたかったのかもしれない……」
 
 登場人物の大切なもの。家族、友人、尊敬できる人、自分で育てた花、描いた絵、誰かに貰った腕時計……。

 ちなみに「大切」の文字には「切る」という漢字が入っている。
 その由来は、刃物でモノが切れるほどに、自分に近くにあるという意味から来ている。
 「大切」という言葉自体がすでに、どうしようもなく「痛み」の予感がするのは、私だけだろうか。

 さて、近内さんは、「傷」をけしてそのまま放っておいたりはしない。
 「傷」を癒すことこそ、ケアなのだ。
 
 近内さんは、『利他・ケア・傷の倫理学』の後半で、「傷」が「倫理的に生きる」=「利他」のきっかけになるとも言う。そして、自分の「古傷」を癒すきっかけにもなると。

 自らの中にある傷が、他者の傷に呼応する。
 そこにケアがある。
 そして、ある時、そのケアの中から利他が生まれる。
 普段、僕らは自分の傷を見ないようにする(……)精神分析では「抑圧」と呼ばれる(……)抑圧したものは、あるタイミングを持って、回帰する。
 他者の傷に触れることは、その回帰のきっかけとなりうる。他者の傷は、私の傷を開く扉なのです。
 そして、そのとき、利他が起こる。

『利他・ケア・傷の倫理学』p.268

 
 いま思いかえせば、二年前のあの日に読んだ小説も、まさに「利他と傷」の物語だった。
 
 ●主人公が傷ついた他者と出会う。
 ●他者と出会うことで自分の抑圧された傷に気付く(回帰)。
 ●その他者を、主人公はすべてを投げうって助ける(利他)。
 ●誰かを癒すきっかけになったことで、主人公の傷すら癒される

 
 私が当初書きたかった「誰も傷つかない物語」は、アンパンマンのパンのような「ケア」の物語だ。
 だけど、多様化した現代社会では、私たちは大切なものをうまく共有できない。だから他者の大切にしているものが見えない。
 そして、創作するなかで、私自身の「傷」を癒したいとも思っていて……。

 するとおのずと、アンパンマン的ケアの物語から飛び出して、「痛々しい」物語を創っていたのも、なるべくしてそうなったのだと思う。

 この「利他と傷からの回帰」は、多くの創作に通じるのではないかと私は思う。

 ただ、今でも「誰も傷つかないケア」がテーマの優しい物語をつくりたいとも思っている。

 そんなことは可能なのか。大切なものは目に見えないのに、「傷」を描くことなしに「ケア」の物語が創れるのか?

 私は創れると思う。

 登場人物の「傷」は直接的には見せずに、過去の「傷」の予感をさせながら、誰かの「大切なもの」を守る、そんな「ケア」の物語
 
 傷の予感。それは「大切」という言葉に「痛みの予感」があるように。
 そして、そういう物語をきっと「切ない」物語と呼ぶのだと思う。
 いつかきっと創りたい。
  

 結論。
 『利他・ケア・傷の倫理学』は、創作にかかわる方にとって、創作の意味を問い直す良き友となってくれると、私は信じている。

 そしてこの記事では紹介できなかった、近内さんが展開するウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を使った、正しい「利他」のあり方や、さらに深い倫理学的な内容に興味のある方も、ぜひ手にとっていただきたい。めちゃくちゃ面白いです。

(余談:10円ハゲは仕事を辞めて一年で完治しました。当時は辛かったですが、脱毛という痛みの数だけ「利他」の扉が開かれていると思うようにしています。円形脱毛症でお悩みの方がなるべく早く、安息の地で休むことができますよう祈っております)


「心を知る、心が分かるとは、星座を見い出すことに似ている」
『利他・ケア・傷の倫理学』より


おまけ


 『利他・ケア・傷の倫理学』は、晶文社の「犀の教室」シリーズのうちの一冊だ。


 「犀の教室」は、晶文社の本のなかでも、中高生向けのシリーズだと、私は理解している。

 私はそういう中高生向けシリーズ、つまりYA(ヤングアダルト)向けシリーズがとても好きだ。初学者向けの良書が多い。

 ●岩波ジュニア新書(岩波書店)
 ●ちくまプリマ―新書(筑摩書房)
 ●14歳の世渡り術(河出書房新社)
 ●ジュニスタ(岩波書店)…岩波ジュニア新書よりライト層向け。
    
 などなど。

 ちなみに上の四つと犀の教室シリーズを、独断で難易度順に並べると…

(易)ジュニスタ<14歳の世渡り術<岩波ジュニア新書≦ちくまプリマー新書<犀の教室(難)

 すなわち、『利他・ケア・傷の倫理学』は高校生でも読める、かもしれないけど、正直、ちょっと難しいかもしれない(私自身もノートをとりながら読んだ)。大学生向けかもしれないなとも思った。

 最後に、本当のおまけ。
 私は「犀の教室」シリーズ冒頭にある一文が大好きだ。

(だけど『利他・ケア・傷の倫理学』には、この一文がどこにもなかった。最近の「犀の教室」シリーズには無いのでしょうか。少し寂しいです)


おわり


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