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「妥協」は悪なのか

どうもShoSeiです。
今日は月1くらいで来るどれだけ寝ても眠い日でした。

今回は「妥協」について。

人というのは理想と現実というものを抱えていて、そこの差を埋める為に妥協をするものだ。

本当はアホみたいな上司に頭なんて下げたくないが、生活の為に頭を下げたりしている。ぶん殴りたいのが理想で、それを妥協(一種の自分自身への説得)することにより頭を下げる。

妥協は「悪」ではなく「術」だ。

妥協というものが無くなれば、世界の殺人は想像を絶する数になるかもしれない。

しかし同時に「妥協することを妥協し続ける」と理想どころか現実すらも歪めてしまう危険性がある。今回はそういった話をしていく。

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僕達の多くは親から妥協を学ぶ。「お金が無きゃ買えない」「危ないことはしない方がいい」妥協に褒美を与えられ、意思表示に罰を与えられるケースが多い。

そして幼稚園、保育園、小学校、中学校と更なる妥協を強いられる。僕達はつい最近までお腹が空いただけで泣いていたのに、50分程すわらされ続けても泣くことを許されないどころか私語すらも注意対象だ。

よく「ありのままの自分で生きる」というような文言を見ると、僕は不思議な気持ちになる。

「泣きたい時は泣いていい」と言っている人の多くは何故か家で泣いているし、「ありのままで生きている人」は人のありのままなんて考えないでもっと自分に時間を使うと思ってしまう。

ありのままなんて、赤子でもない限り存在しないのだ。


それは「ありのまま」という殻に覆われた「妥協」である場合が非常に多い。

しかし、本人達はそれに気付かない。僕も何か大切なことに気付いていないかもしれない。

それは「妥協を妥協と捉えることを妥協したから」だ。


こうなると本当の自分がなんだったか、自分は何をしたいのか本当に分からなくなる。

「本当はこうしたい」という状況はある意味で恵まれていて、本当に恐ろしい(ある意味幸せな)のは「今していることが本当にしたいことだろう」というものだ。

これを哲学的には「ペルソナ」と言ったりするらしい。これは対人においての妥協で、個人と集団の1人としての自分を成立させる為の仮面だ。

対して好きでもないタピオカを飲みに行く若者が多いのは、その為だろう。コンビニにタピオカが売っているのにあまり売れないのがその証明だ。(味のクオリティが違いすぎるのかもしれないが、それにしても売れていない。)

つまり「タピオカ飲んどかないと!」と焦っているのはまだ健康だが、「私はタピオカが飲みたい!」と心の底から思っているような気になっていることに気付いていないのが危険なのだ。

日本語がおかしくて申し訳ない。

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そして最近考察している「同調圧力」もこれに深い関わりを持っていると考えている。

僕のブログを以前から読んでいる人にとっては繰り返しになるが、僕は同調圧力を言葉として理解はしているが肌で感じたことがない。恐らく、そういったものに対して鈍感なのだろう。

幽霊に関してもそうだが、「見たことがないから怖くない。」僕が人から変わっていると言われやすい体質なのは殆どがコイツのせいかお陰だと思っている。

ただ、よくよく考えると「見えないから怖いのでは?」と思うようになった。そしてなぜ見えないのかも考えてみた。

自分の内側に存在しない同調圧力を作り出すからだ。


ここで今回のテーマの「妥協」との繋がりが見えてくる。

つまり、最初は同調圧力によって作り出された自分(仮面の姿)が妥協というものの魔法にかかり、それをさも「ありのままの自分」かのように感じてしまう。


例えば「優柔不断」というものは、あまり良いイメージを持たれない。これは同調圧力だ。

どう考えても「別にいいだろ」以上の感想が出てこない。

しかし、「優柔不断な人」というのは最初から優柔不断だった訳では無い。泣くか泣かないか迷った挙句に泣いていたはずがないからだ。

人に気を使ったり、決めなきゃいけないと思うほどに決められなくなっていったのだろう。人間はそんなもんだ。

そしてその人が、同調圧力によって作られたイメージや低い自己評価によって「優柔不断を変えよう」としたとする。普段から決断をするトレーニングを始め、遂には「決断力のある人」になったとする。

するとこの人はこう思うだろう。

「僕は最初から決められる人間だったのに、今までは色々な理由で優柔不断になっていただけだ。」と。

僕から言わせればそれがおかしいと言いたい。

元も子もないが、速攻で「自分は優柔不断でも良い、決定力なんていらない!」と決めて、それに合った自分の環境などを整えるのが決断力だと思ってしまう。更にいえば「決断力が上がった」のか「妥協が早くなった」のかは分からない。

大抵の決断力と言われるものは「やるかやらないか」の二択でしかない。決断するだけなら誰だってできる。

大切なのは、「やると決めてどうやるか」と「やらないと決めてどうやらないか」だ。

だから、それを「ありのままの自分」だと思ってしまうとどこか窮屈さを感じる。これが妥協の危険性だ。

今回は決断力を例に出したが、大抵のことはこれに置き換えられる。

妥協することは悪では無いが、妥協を認識しないことは悪に繋がる。


僕もこう考えることで、何かに折り合いをつけているのかもしれないが。

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今日もありがとうございました。

僕のおかしな日本語を理解してくれる貴重な変人の皆さんには、日々感謝してます。

これからも勝手に発信するので、勝手に参考にしてみて下さい。

また次の記事で会いましょう!

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最後に宣伝です。

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