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仕事というのはどうやら集まる習性があるらしい。

「仕事はできる人のところに集まるもんよ。」

なんていう励ましの言葉をかけられたことがある人は多いだろう。
私にも経験がある。

教師としてのキャリアが順調に進んでいて、自分の中でも手ごたえを感じていた3年目頃から、ありがたいことにいろいろなことを任せてもらうようになった。

また、「若いうちの苦労は買ってでもしろ!」という言葉を信じて、
何か仕事を頼まれると、「はい!喜んで!」と引き受けたり
研究授業や学校の代表としての発表者には、自分から進んで立候補した。

今思えば、本当にやってよかったと思うものの、
その当時は、
「今の自分にとって意味があるのか?」
「自分の骨身となるのか?」

ということを疑問に思っていた。

なにせ、普段の授業の準備だけでも時間がかかるのに、
わざわざプラスアルファで、自分にとって意味があるかどうか分からない仕事を引き受けるなんて、
「俺はドMなのかな?」と自問自答することすらあった。(ちなみにどちらかと言えばSだと思っているが。)

そういえば、新任の年の最初の職員会のあいさつで、

「私にできることは限られていると思いますが、できることは何でもします。背が高いので学校中の蛍光灯は私が交換します!」

と言っておばちゃん先生たちのハートを鷲掴みにしたのを覚えている。
(おかげで月に2~3回は放課後のどこかの教室に呼び出されることとなった。ちなみに、何度も呼ばれるうちに、教室からの呼び出しには、脚立と新しい蛍光灯を持って行くのが癖となった。)

そんな感じでキャリアを進めていくと、研究会や研究授業の担当者になることも増え、私の顔と名前を覚えてくれる先生も増えた。
さらに教員生活6年目には中学校へ転勤することになった。部活動を持ったり、”数学科”の教師の集まりに参加することも増えたため、顔はどんどん広くなった。

このことは自分にとってうれしいことであり、誇りでもあった。

ただ顔が広くなり、実力が認められるようになると、
「これはあの先生に任せたらいいだろう。」
「少し大変な子もいるクラスだが、あの先生なら何とかしてくれるだろう。」

と思われることも増えたようで(うれしい悲鳴かな?)、
どんどん仕事が舞い込んできた。

授業中(自分は授業が無く空いている時間)に職員室で宿題のチェックをしていると、教室からインターホン(電話)がかかってくることもある。

「〇〇先生!タブレットをテレビの画面に映したいのに映らないので助けてください!」

こんな連絡は茶飯事で、
「いや、電気屋じゃねーぞ!」と思いながら駆けつけると、
入力切替のミスだったなんてことはしょっちゅうで、
2秒で問題を解決し、歯を食いしばりながら職員室に戻っていた。(俺の時間を返せー!)

こんな生活をしているときに、よく同僚の先生にかけられた言葉が、
冒頭にも記した

「仕事はできる人のところに集まるもんよ。」

という言葉だ。

一応確認ですが、


これは褒めてるんですよね?


頼られているってことですよね?


みんなから認められているということでいいんですよね?


「こうやって(うまいこと)言っときゃ、何でも仕事を押し付けてもいいってもんじゃねーぞ!」
と思いつつも、
頼られたら期待に応えたいのが世の常。

頑張っちゃうんですよね。

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