遠山翔隼/Shojun Toyama

遠山翔隼/Shojun Toyama

最近の記事

不調和の筆で調和の輪郭を描く

僕は曲を書き、歌を歌っている。 何年か前に純正律という概念を知ってから 自分なりに音楽という表現媒体について考察と実験を繰り返している。 僕たちが普段慣れ親しみ、現在世界の音楽の大半で使われているのは平均律という音の並びだが その他にも純正律やピタゴラス音律、ヴェルクマイスター音律など様々な音律が存在する。 歴史上の音楽家や物理学者、哲学者が試行錯誤してきた足跡である。 純正律で鳴らす和音はうねりが無く、完全調和である反面コード進行の選択肢がとても狭く、 転調もできない

    • それでも生きていく僕らで

      3月23日に東京・飯田橋で弾き語りライブ 「それでも生きる君へ」を開催します。 歌を通して僕に何が出来るだろうか、今の想いを言葉にしてみようと思います。 僕は学生の頃、自分がどういう人間で何がしたいのか全く分かりませんでした 特に希望もなく、絶望もなく、何となく言われた道を歩いていたような気がします。 "本当は違う"という違和感を感じながら。 それから慢性的な体調不良になりました どれだけ調べても原因不明でした。 うつ状態や適応障害、過度の対人恐怖なども併発しました

      • 龍の背に乗って

        最近、動いているというよりも 動かされている、と感じることがよくある。 動かされている、と感じる時のほうが大きな充実感と幸せを感じる。 世界よ、“わたし”という器をどうぞ使ってくださいという気持ちになる。 思考や自我がああしたい、こうしたい、という事は上手くいかないことが多い 人間一人の思考では人生や宇宙全体の流れを掴むことは出来ないから。 思考だけで人生の舵を切ろうとする行為は、通信のできないスマートフォンを使っているようなもので 宇宙というデータベース・クラウドから

        • 虚無を乗り越える物語

          ふと、頭の中を巡る思考を残さねば!と思う瞬間がある それが、今来た。 僕らは日々沢山の情報を浴びている 真実の歴史はこれだ!とか 正しい情報とか科学的根拠とか。 そう言う着眼点も時に大事だと思うけれど 本質的にはあまり興味がない。 仮に正しい一つの歴史があるとして 仮にその時代に生きていたとして 観測する人間の数だけ真実があり、歴史がある。 その歴史的事実を体験した座標と それを感じる思考や感性・肉体のフィルターが無数にあるから。 もっと言えば、時間が過去から未来を

        不調和の筆で調和の輪郭を描く

          オリジナルも"自分"も無い

          前回の記事、ごちゃごちゃした頭の中をそのまま出したような感じになった 誰が好き好んで読むんだろうと思いつつ、こういうのもたまには良いよね。 伝えるための文章があるなら、吐き出すため文章があっても良いはずだ。 さて、ちょっと前にAIが描く画像データが 著作権違反なのではないかということが騒ぎになっていた。 無断でネット上のクリエイターの作品を学習しているという主張だ。 違和感を感じた。 今の社会制度上、権利や収益等の観点から 著作権が守られるべきというのは理解できる。

          オリジナルも"自分"も無い

          思考では間に合わない

          思考は過去、直感は今 科学は過去のデータを元に客観的事実を証明する これは人よりAIの方が得意だ。 思考は過去のデータから最適だと思われる答えを導き出す これもAIの方が得意だ。 AIの進化、社会の変化が著しく 明日の世界すら予測できない現代においては 物事を判断するツールとして思考は遅すぎる。 一方で直感はプロセスをすっ飛ばす。 直感として入力されるデータは、宇宙という巨大な量子コンピュータ(縁起)によって演算済みである。 だから途中式が無く、早い。 計算能力や規模

          思考では間に合わない

          僕らは生きちゃう

          弾き語りアルバム「生きちゃう」をクラウドファンディングにて制作しています。 作品について語りすぎるのは野暮だなとも思いつつ 関わってくれるみんなと共に作るアルバムなので、言葉にしてみます。 友達との何気ない会話の中で不意に生まれた「生きちゃう」というワード。 苦しくて死にたくてたまらなかった日々、それでも心臓は動き続けた。 苦しみが増すほどに動悸は強くなり、皮肉にも生きている実感を強烈に感じた。 ああそうか、俺は俺の意思とは関係なく"生きちゃう"んだと気づいてしまった。

          僕らは生きちゃう

          偏ったままで。

          調和を持って生きていたい。 人を傷つけたくない、傷つきたくない。 理想と現実のバランスを取りたい。 両極どちらかに偏ることのないように、中道を目指して生きてきた。 しかし、薄々気づいてはいたが自分はものすごく極端で偏った人間だ。 自分の情熱に従って全力で生きるか、死ぬかの二択で生きている。 誰よりも自分自身をを愛し、誰よりも自分自身を殺そうとしている。 0でなければ100なのだ。 その性質を嫌い、克服するためになんとか50で在ろうとしたが、 叶うことは無かった。 本当の調和

          偏ったままで。

          カラダトノカンケイ

          昨日朝起きてから 首の後ろから背中にかけてが痛くて 首を動かすことができない。 寝ていても痛い。 ひどい寝違いみたいな感じ。 割とよくある。 たぶん、僕は体感覚がとても強い。 マッサージチェアは強さを最弱にしても痛くて使えないし 化学繊維の服がほとんど着られないし コンタクトレンズは疲れて長時間着けられないし ヘアワックスなどの薬品を使うとすぐにかぶれるし 緊張すれば、一瞬で内臓が硬化して消化能力が落ちるのが分かるし 運動をサボっていても何故かちょっと筋肉質だ(

          カラダトノカンケイ

          坊主になりました

          ↓ ↓ ↓ ここ数年は坊主とロン毛の反復横跳びをしている。 この二つの髪型には共通点がある。 ・美容室にほぼ行かなくていい ・髪型について悩む時間が無くなる ・セットや整髪料から解放される 坊主でもロン毛でもない髪型にすると それはそれでこだわりが強く出てしまって 自分が美しと思える造形に仕上げるまで とても時間をかけてしまう。 日中もその造形が崩れないかなどの心配で 心が蝕まれていく。 ただでさえ 生きていると考えること感じることが沢山ある。 創りたいこと、表現し

          坊主になりました

          【歌詞】チャイルド

          詞・曲 翔隼 あんた頑張ったな 精一杯生きたんだな 少し休みなよ あんた頑張ったな あの時ごめんな 傷付けてしまったな あの時ごめんな あの時ごめんな 明日どこかへ行こう 見晴らしの良い場所へ 全部許すよ 今までの自分 あんた頑張ったな あんた頑張ったな

          【歌詞】チャイルド

          【歌詞】魔法

          詞・曲 翔隼 呼んでもないのに朝が来て 魔法が解けた気になって 大人も教科書も入れない 僕たちだけの宇宙だった やわらかな心かばいながら 戦うみんなと遊ぶんだ みんないるけど独りだった 大きな声が耳にのこる まぼろしなのかほんものか 今はどうでもいい 布団の中に潜ったなら  世界と出逢えるんだ このまま何もないところへ 終わらない時を過ごせたなら 何度も何度もそう思った 気づいた時には夢の中 待ちくたびれた夜になって 明るすぎたな僕の目には 誰でもいるし誰もいない

          【歌詞】それでも生きる君へ

          詞・曲 翔隼 何も感じないんだ 感じる事が多すぎて 僕のこと見ないでくれ 誰も見てなんかいない 誰も邪魔できないさ このまま1人で生きれば 何も言わないでいてくれ 全部分かってるから 傷を重ねて生きたんだ 神様、どうか許してください 死にたいほどに 優しい君へ 生きる価値なんて 探さなくていい それでも生きている君を 愛させてくれないか 何も感じないんだ 感じる事が多すぎて カーテンを閉め切ったんだ 何も見なくて済むように 心の傷を塞ぐように 吐くまで飯を流し込む

          【歌詞】それでも生きる君へ

          私はうたうたいである

          昨日、存在自体が詩的ですねと言われた。 なんだか嬉しかった。 確かにうたを書く時はいつでも言葉が先にあるし そこに音楽という着物を纏わせているような感じだ。 これはこういう物だ、あなたはこういう人だ。 と言い切ることが得意ではない。 言葉の外側の余白に、その物や人の性質は無限に広がっているし 一刻一刻変化していくそのエネルギーを固定化したくないという思いが出てくる。 この世界の中で、そんな生き方をしてきたから 曖昧で、決め切れず、形に表すことが苦手な生き物になった。

          私はうたうたいである

          "音楽"が好きな人には敵わない

          自分をミュージシャンと名乗ることに抵抗を感じるのは何故だろう。 小さい頃はピアノを習っていた。 でも今では最後の発表会の曲の数小節しか弾けないし、楽譜もロクに読めない。 音楽理論だってさっぱり分からない。 ギターだって、二十代後半になって始めた。 高校生まではゲームが大好きで その世界観を彩るイラストやBGMに魅了された。 大学に入ってからは洋服にのめり込んだ。 食費を削り、月のバイト代のほぼ全てを洋服に注ぎ込むほどだった。 そのどちらも、今では人生を賭けられるほどの熱量

          "音楽"が好きな人には敵わない

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          頼ることが苦手だ。 どちらかと言うと、自分のケツは自分で拭けと言われて育った。 自分の人生には自分で責任を持ち、自らの力のみで乗り越えるのだと。 確かに、それはそれで素晴らしいことだ。 ただ、そうやって生きていると度々限界を迎える。 自分しか頼れないので、弱い心を守るために理論武装することに疲弊し、 身体は常に悲鳴を上げている。 どこか心の奥では自分の事しか信用していないような、傲慢な人間になってしまった。 自分の人生に責任を持つ事と、自分の力で何でもやるというのは