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虚無を乗り越える物語

ふと、頭の中を巡る思考を残さねば!と思う瞬間がある
それが、今来た。

僕らは日々沢山の情報を浴びている
真実の歴史はこれだ!とか
正しい情報とか科学的根拠とか。

そう言う着眼点も時に大事だと思うけれど
本質的にはあまり興味がない。

仮に正しい一つの歴史があるとして
仮にその時代に生きていたとして
観測する人間の数だけ真実があり、歴史がある。


その歴史的事実を体験した座標と
それを感じる思考や感性・肉体のフィルターが無数にあるから。


もっと言えば、時間が過去から未来を直線上に流れているという前提自体が
一つの捉え方に過ぎないのかもしれない。


"現実"と呼ばれる3次元立方体が"今ここ"に無限の数存在していて
それらがフィルムのように僕らの意識を通過することで"時間"という幻想を体験している、
という捉え方が感覚的にも論理的にもしっくりくる。


だとするなら歴史もパラレルに複数存在するのであって、正しい歴史も存在しない。


科学的に証明された事実と呼ばれるものであっても
僕らが現時点で観測可能な物理世界で証明された内容に過ぎず
前提となる法則が全く異なる宇宙や次元ではその正しさは全く通用しないだろう。


という具合に本質を遡り過ぎると
“全ては幻想であり意味も無い”
という虚無感、ニヒリズムに陥ってしまう。


その状態で生きていけるほど僕は強い人間ではない。


人類は架空の物語を共有することで文明を発展させてきた。
神話や信仰が主な例だ。
それらは、人間が虚無感やニヒリズムに陥らないための楔のようなものなのではないだろうか。

意味も正しさも無いこの世界では、物語という楔がなければ僕たちは容易に崩れ落ちてしまう
背骨なしに立っている事が出来ないように。


逆に言えば、自分にとっての意味や正解は自分で描けると言うこと。


個人的には、神話やスピリチュアルな物語が大好きだ
それらが正しくて真実だから、という訳ではない。

真実や正しさなんて存在しない世界の中で
どんな物語を人生に採用したら美しいだろうか、ただそれだけである。


自分が美しいと思える物語と共に生きるためには
まず自分自身が書き手になる事であり


僕にとって、曲や詩を書くというのはそういう営みなんだ。




・弾き語りアルバム「生きちゃう」


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