龍の背に乗って
最近、動いているというよりも
動かされている、と感じることがよくある。
動かされている、と感じる時のほうが大きな充実感と幸せを感じる。
世界よ、“わたし”という器をどうぞ使ってくださいという気持ちになる。
思考や自我がああしたい、こうしたい、という事は上手くいかないことが多い
人間一人の思考では人生や宇宙全体の流れを掴むことは出来ないから。
思考だけで人生の舵を切ろうとする行為は、通信のできないスマートフォンを使っているようなもので
宇宙というデータベース・クラウドからダウンロードする情報があってこそ、
肉体というデバイスによるアウトプットが最大限に活きてくる。
GPSも通信も繋がっていないのに、どうやってGoogleマップを使うのか、ということである(笑)
本当に必要なものは少なく、それは往々にして予想外の角度からやってくる
それを見逃さないように自分という器を空っぽにしておきたい。
さて、これは昔誰かから聞いてものすごく納得感があった話。
龍(りゅう)という言霊には水流・電流のように流れるという意味合いがあるという。
音というのは振動であり、万物に通底する基礎なので
“発音が同じ”ということには単なる偶然以上の何かがある。
僕も昔から言葉遊びとか駄洒落が大好きで、駄洒落は神聖な遊びだと思う(笑)
歌を歌うのもこの遊びの一環だ。
水流は地理的な高低差によって流れ、
電流は電圧の高低差によって起こる。
つまり龍というのは高低差のあるエネルギーポイント同士を繋ぐエネルギーだという。
だから龍は水神であり、龍神が味方すると人生のステージがグイッと上昇するというような話を良く聞くんだと思う。
それはつまり、今自分がいる周波数帯からまだ見ぬ世界の周波数帯まで
龍というエネルギーが引き上げてくれるということだろう。
これはスピリチュアルというよりも未科学であり、純然たる宇宙の物理学だと思う。
まだ見ぬ世界というのは自分も含めて人間にとっては怖いもので
多くの人は龍の背中から降りてしまうのかもしれない。
でも、まだ見ぬ世界=怖いと感じる向こう側にしか新たな発見や成長はないと思う。
自分に厳しく、鞭を打って挑戦し続けたいというわけではない。
むしろ自分を日頃から愛でていなければ、怖いと思うようなところに挑戦する力は出ないと思う。
実際、自分を否定し、鞭を打ち続けていた頃は
どんなに頑張ろうとしても挑戦するエネルギーが枯渇した。
僕自身、超が付くほど怖がりで、なんでもかんでも怖い世界に突っ込んで行けるわけではない
それでも、"ワクワクするけど怖い"という感覚を掴みその方向へ向かいたい。
だから僕は本当の意味で自分を愛でる
そしてそこに留まり続けようとする自分を捨て、また新しい冒険に出る。
冒険と発見が大好きな少年のままで、人生を終えたい。
今日も龍の背に乗って。
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