オリジナルも"自分"も無い
前回の記事、ごちゃごちゃした頭の中をそのまま出したような感じになった
誰が好き好んで読むんだろうと思いつつ、こういうのもたまには良いよね。
伝えるための文章があるなら、吐き出すため文章があっても良いはずだ。
さて、ちょっと前にAIが描く画像データが
著作権違反なのではないかということが騒ぎになっていた。
無断でネット上のクリエイターの作品を学習しているという主張だ。
違和感を感じた。
今の社会制度上、権利や収益等の観点から
著作権が守られるべきというのは理解できる。
でも、本質的に考えると著作権や所有という概念がどうもしっくりこない。
何か作品を創った事のある人なら分かると思うが
僕たちは必ず誰かの作品や世界に存在する何かに影響を受ける
何からも影響を受けず
インスピレーション源も一切ない作品を創ることは不可能だ。
著名な映画やゲームなども
既に存在する物語や神話などがベースになっているものも多い。
僕たちは意識的にも無意識的にも、自分が触れた作品群から学習し
それらのエッセンスを混ぜ合わせ、編集して作品にしている。
それがAIであろうが、人間であろうが同じではないか?と思った。
例えば、人生で2曲しか聴いたことのない人が作曲をしたとする。
その2曲を半分にちぎって、くっつけただけの作品を
オリジナル曲ですと言ったら間違いなく盗作だと言われるだろう。
一方で10000曲を分解・編集し、一曲の作品として仕上げたら
それはオリジナルと言われるだろう。
オリジナルかオリジナルじゃないかということよりも
影響を受けた作品や体験に対してリスペクトがあれば、
単にくっつけただけの作品にはならないと思う。
作品を創るということは、本質的には"編集"なのだ。
では、もう少し話を広げてみよう
地球上の土地は細かく区切られ、誰かが所有しているということになっている
たまたま最初に見つけた人が、ここは俺の土地だ!と言ってみたり
武力で土地を奪い合ってみたり
お金という力で土地を所有してみたりしている。
宇宙に浮遊する塵等が長い年月をかけて地球という星になり
更に長い年月をかけて生物が生まれ、人間が生まれ、文明が生まれた。
このように想いを馳せると
当たり前に感じている"所有"という概念が溶けていく。
"私"とか"自分"というものさえも概念に過ぎないのかもしれない。
僕たちの身体は無数の細胞出来ていて、そこには数えきれないほどの微生物が住んでいる。
それぞれの細胞や微生物は自立して動き、心臓すら自分の意思で動かせない
それなのに、この体をゆび指さして"私"とか"自分"と呼んでいる
なんて不思議な現象だろう。
素粒子や波動の単位で見れば、身体と外気の境界線も無い。
同じ素粒子やエネルギーが連続しているだけだ。
人間は新しい概念を創り出せる生き物だ。
それは素晴らしい事だし、とてもクリエイティブなことだ。
しかし時に、一度作った概念に囚われ、縛られてしまう事もある。
"所有"や、"私"という概念でさえも一度壊し、溶かしてみることによって
また新しい概念を生み出し
より良い世界を創ることが出来るのではないかと思うのである。
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