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【連載小説】アウトボールを追いかけて 第1話 「フェンスを越えて」 #2

「よし。練習始めよぅぜ」
 晃二がグローブを叩きながらせっつくと、ウメッチはぶつぶつ文句を言いながら重い腰を上げた。
「まぁ、しょうがねぇよ」と言いつつ、晃二もちょっと心残りではあった。
ボールを軽く投げ合いながら後ろ歩きでだんだんと距離を開けていく。
それなりの間隔になると、山なりのボールから徐々に力を入れてスピードを増していく。
単純な肩ならしのキャッチボールでも楽しく、いつもなら声を出しながら盛り上げていくのだが、どこか三人は集中力を欠いたような動きだった。

 ひと通りウォーミングアップして、ノックしながらの守備練習に移った頃、近所の渡瀬努と森田進がやって来た。
渡瀬はどこのクラスにも一人はいる、何をやらせても鈍くさくて、いつも味噌っかす扱いされる奴だった。
デブな上、一直線の前髪と分厚い眼鏡がより一層ダサさを際だたせている。クラス中の奴にからかわれていたが、その天然ボケの性格からか嫌われることはなかった。一年中、それこそ雪の日でも履いている半ズボンは、いつ弾けてもおかしくないくらいパンパンだった。
いつの間にかついたあだ名がブースケ。まさに彼の風貌にぴったりであった。

 片や森田はその名前からモレタになり、今ではモレと呼ばれている。
背が低く、ちょこまかしているモレは、機動力あふれる情報屋でもあった。どこで仕入れたか分からない噂や裏情報を頼んでもいないのにみんなに伝えるのだ。声が甲高い上、話を必要以上に誇張するので、時々鬱陶しがられることもある。
フライパンの大きさほどあるニコニコマークの描かれたTシャツを今日も着ていたが、生地が伸びきっていて情けない笑顔に見える。
ざんばら髪で前歯が出ている容姿は小型版ネズミ男といったところか。
この二人はよく連んでいるわりにしょっちゅう口喧嘩をする。
しかしほとんどが目クソ鼻クソ的なくだらない内容だったので、言い争いが始まってもみんな取り合わなかった。

 二人の肩慣らしも終わり、そろそろ全体の守備練習でもしようかというときである。
「ちょっと休むか」
荒ケンが珍しく自分から休憩を取ろうと言った。
「もうバテたのかよ」
モレがからかうが、気にも止めずにミットを外す。
「ちょいと喉が渇いちまってな」
そう言い残して、広場前の橋本米店に向かって歩き出す。
「ちっ、しゃあねぇな」
顔を見合わせ、みんなも後に続く。
言いだしっぺに従うのはやぶさかでない。ただ、賛同しても一応文句を口にするのが常である。
橋本は米屋ではあるが近所のよろず屋でもあったので、お菓子やパンも取り揃えている。
とは言っても駄菓子屋と違い、煎餅などの袋菓子ばかりなので、買うのはもっぱらアイスかジュースばかりである。

 しばらくして五人はミリンダをラッパ飲みしながら店から出てきた。
「カァーッ。やっぱ練習の後のジュースはうめぇな」
ウメッチはオレンジ色の口元を拭って高笑いした。
「ほんと、ほんと」
一気に半分ほど飲んだブースケが調子良く頷くと、
「このタコ。お前、まだ肩慣らししかやってないじゃんか」
モレのつっこみで、さっそく言い合いが始まりそうになる。
それを察したのか、別の理由か、荒ケンは木陰でちょいと小休止やな、と誰にともなく呟いて歩き出した。

 太陽は真上近くにまで達していた。初夏のような暑さでシャツも汗ばんでいる。
しかし荒ケンが休もうと言ったのは、暑かったり喉が渇いたりしたからではないと晃二は察していた。
広場の端にある植え込みに行き、ちょうど日陰になった花壇の柵に五人は腰掛ける。
相変わらず、時折強い風が木々を揺らしていたが、そんなことは一向に気にせず荒ケンは話を切り出した。

「さっきの話だけど、やってみるか」
― やはり、思っていた通りだ ―
荒ケンは自分同様に気になっているに違いない。あとはいつ口に出すか、だけだと思っていた。
二人は黙って肯いたが、「何、さっきの話って?」と話が解らず、いぶかしむ二人組に、
「オレの提案なんだけどさ、実は前々から考えていたんだけど…」
ウメッチはまたいつもの勝ち誇った顔つきで、もったい振るように説明をし始めた。

 荒ケンは大きく息を吐くと、柵を背にして座り込み、頭の後ろで手を組んで目を閉じた。
熱弁が終わるまで待つしかなさそうである。晃二は改めてそびえ立つ要塞の隅々に視線を這わせた。
蔦の絡まった窓、シミが浮き上がった壁面、錆びたシャッター、壊れた雨樋。
手がかり、足がかりとなりそうな物は何ひとつ見当たらない。
割れている窓は数多いが、高さは背丈の3倍以上ありそうだ。
― 果たして侵入することなんかできるのあろうか ―
晃二はいくら視線を這わせても〔かなりの難題である〕という答えにしかたどり着けなかった。

「おもしれぇじゃん。やろーぜ」
内容を聞き終え、二人は同時に立ち上がり目を輝かせた。
モレは飲み終えた瓶を叩きながら奇声を上げ、ブースケは「オレも取り返すぞ」と、興奮したときにでる、オレのオの方にアクセントがくる喋り方で身を乗り出した。
「そうだろ、取り返してやろうぜ」
ウメッチは二人の反応を見て、ニンマリとしている。
荒ケンは徐に上半身を起こし、晃二を見て眉間に皺を寄せた。
― この二人が加わったとして、戦力として期待できるのであろうか ―
彼の表情からは、どうやら同じ疑問であることが読み取れた。

「でもさぁ、……おっかなくねぇか」
今盛り上がっていたはずのブースケが急に弱々しい声を出す。
「なんだよ、またビビリ病かよ。しらけるなぁ」
突然水を差され、モレは吐き捨てるようなため息をついた。
「だってさぁ、戦争中の亡霊がいるかもしんないじゃん。それにさ、今じゃアメリカのもんだろぅ。見つかったら牢屋行きかもよ」
「牢屋って…おまえなぁ…」
ウメッチはうんざりした顔でぼやく。
「亡霊なんかいるわけねぇだろ。それに、ちゃんと計画すりゃ捕まんねぇよ。な、晃二」

「誰も入ったことないし、確かに捕まったら大変かもしんないけど…。まぁ、計画してみるだけの価値はあると思うよ」
確かに戦時中の妙な噂話を聞いたことがあったし、米軍施設への不法侵入になるので危ない行動でもある。
だが常にマイナス思考のブースケに関わっていても仕方ない。
荒ケンは「誰もお前さんに一緒に来いなんて言ってねぇよ」とあきれ顔で言った。
実際、ブースケがいない方が上手くことが運びそうである。
「そんなぁ。仲間はずれにしないでよ」
「だったら、文句言うな!」
 みんなハモるように一喝した。

 子供たちに通称をおばけ観覧席と呼ばれているその古びた建物は、1866年(慶応2年)に建てられた日本初の洋式競馬場の1等スタンドに併設された2等スタンドであった。
子供たちの目にはオカルトチックに映っていた建造物ではあるが、年配者には、当時は東洋一の規模を誇る日本屈指の近代建築物であったと知られている。

Photo:Jordy Meow

 1860年代、開港後の文明開化の波と共に押し寄せた西洋文化の一つとして、洋式競馬はここ横浜の根岸競馬場を拠点に始まった。
元々、居留外国人の娯楽だった競馬は、やがて日本人も加わり、社交場として賑わうようになっていったのである。
1880年(明治13年)に結成された日本レースクラブの正会員には伊藤博文・井上馨といった明治新政府の重鎮も名を連ていたほどだった。
その後、関東大震災でスタンドに亀裂が生じ、観客席が火事で焼けるという被害を被ったものの昭和に入って改築され、1930年(昭和5年)完成した新しい馬見所(スタンド)は、東京の丸ビルやホテルニューグランドの設計で有名なJHモーガンの手によって、鉄骨鉄筋コンクリートの重厚な意匠の近代建築として生まれ変わったのだった。

 当時の写真を見る限りでは、貴賓室などの3つの塔や、張り出た薄い屋根構造、支柱が少ないオープンな空間など、緻密な設計力を集結しつつ、美にこだわったデザインであることが伺える。
しかし現在の観覧席が醸し出す雰囲気からはかつての栄光は見る影もない。
よほど多くの歴史的苦難や変貌せざるを得ない理由があったに違いないと想像させられる。
昭和6年の満州事変、12年の日中戦争では賑わいを見せていたものの、昭和17年、太平洋戦争が始まると、それまで76年間行われていた洋式競馬は幕を下ろし、付属施設には敵国捕虜収容所が設けられ、翌年、横須賀沖が見渡せるという立地条件から旧帝国海軍が接収し、印刷や通信の施設として利用されるに至ったのである。
西側には横浜の中心地を、東側には東京湾の海を一望できる丘の上に優々と鎮座していた建物は、戦争を機に本来の役割を奪われ、その姿を変えていくようになる。
特にこの併設された2等建物(馬見所)、厩舎、倉庫、払戻金交付所などは、艦艇用の暗号書を印刷するための工場や、海軍監督室、軍司令部分室などに使用されていた。

 やがて戦禍がおとずれた昭和20年5月、横浜は大空襲に襲れた。
市内の中心地はもちろん、周辺一帯は焼き野原となるが、戦後の占領地として敢えて残したのか、ここだけは僅かな焼夷弾だけの被害で済んだのだった。
終戦後、案の定、伊勢佐木町や本牧と同様、連合軍に占領され、米国第8軍の管理下に入りアメリカ陸軍の地図や資料を印刷する工場となって再出発する。
そしてやがては国内の印刷も請け負うようになり、一時的には戦後の活字ブームの流れにも乗って栄華を極めるものの、旧日本軍関係の物資を隠匿していることが摘発されて窮地に追い込まれ、それまでの全てを失ったのだった。

 その後、競馬場跡地は軍用トラックの駐車場やゴルフ場として、建物はエリアXと呼ばれる横須賀海軍の住宅用施設として利用されるなど、最後まで本来の姿に戻ることはなかった。
かつては天皇も観覧したことがあるという由緒ある建物は、華やかだった頃の残像がわずかにこびり付いただけの姿に変貌し、返還後には、市による公園化の計画で取り壊されることも決まり、その長い歴史に終止符が打たれるのをじっと待つだけだった。
そんな激動の時代をくぐり抜け翻弄され続けたこの建物は、今はただ老いて疲れ果てた身体を沈黙の中に横たえて眠るだけであった。

 晃二達の通っている小学校は横浜の中心地に近い、昔ながらの下町らしさが残っている界隈にあった。
生徒達は商店街地区と住宅地区に分かれて住んでおり、この五人はみな住宅地区に住んでいた。
そしてその観覧席も住宅地区にあり、晃二の家からは通学路のほぼ中間に位置していた。
一応、米軍に接収された施設ではあったが、米軍住宅地域からは外れて日本の民家に隣接していたため子供達には普段から馴染みがあり、外観を恐がる反面、どこか惹かれる魅力のある建物でもあった。

 六年生の晃二が下級生を引き連れて集団登校する際は、安全のために裏道を通るが、友達と一緒の帰り道は観覧席の前を通ることが多かった。
それは広場の空き状況を知るためと言うよりは、古びた建物の外観を眺めることによって起こる何とも言い難い、身体の奥をくすぐられるような感覚が気に入っていたからである。
その重厚な古びた外観は、中世ヨーロッパの城に似て見えたし、割れた窓の枠を伝わるように一面に伸びている蔦が、映画や物語に出てくる建造物のような威厳さをかもし出していた。
そのためか、夜に見ると、窓の闇の向こうから得体の知れない何かに見つめられているような畏怖を感じた。
実際、子供達の間ではある種の聖域のような所でもあったし、暗くなると本当に幽霊がでるらしいと噂されていたので、夕方以降はあまり長居しない方がいいと皆思っていた。
しかし晃二達には、その近寄りがたい危なさが逆に魅力となって映っていたのである。

「捕まったってへっちゃらだよ、なっ」
モレの軽々しい台詞に、荒ケンは一瞬険しい表情をした。
どうやら迷っているようだ。
その証拠に、すぐさま問いかけるような視線を晃二に送っていた。
いつも彼は何かの判断に迷うと必ず、晃二の顔を窺うように上目遣いで見るのである。
「まぁ、確かに大変そうだけど…。なぁ、荒ケン」
「表はゲートや駐在所があるし、こっち側はこれやで」
 荒ケンはしかめっ面で高いフェンスを顎指し、脚もとに唾を吐いた。

確かに表側の正面口からの突入は完全に無理であろう。
そこは日本の中にあってもアメリカの領土なのだ。
ゲートはMP(ミリタリーポリス)が常駐しているし、建物の目の前は管理事務局なのだから無茶である。
捕まれば子供であっても不法侵入で罰せられるだろう。
「でもさ、あのさ、あのルートを使えばゲートの近くまでならたどり着け―」
「いや、無理だな」晃二は間髪入れず制した。
「問題はその後だよ。侵入してからどうすんだよ」
仮に自分たちで開拓した秘密の抜け道を通って入口まで行けたとしても、建物内部の構造を知らないのだ。
2階に辿りつく前に全員捕まってしまうのがオチだろう。
「たとえ中の地図があったとしても、すぐに見つかっちまうさ」
「でもさ、そしたら逃げりゃいいじゃん」
「アホ、逃げ道すら分かんないだから、すぐ囲まれちまうさ」

 正面からの可能性はゼロに近いだろう。それでも決行しようと考える奴は、要塞からの捕虜奪還話や、脱獄不可能な刑務所からの脱走物やらの映画の見過ぎか、単なる無謀なだけの馬鹿者である。
「よし。じゃあモデルガンとかヌンチャク持っていくか」
モレは真顔で提案した。
やれやれ。晃二は彼が前後者両方に当てはまる、無鉄砲な奴だったことを忘れていた。
「このタコ。軍の施設ってのは機密情報やらで、すんげぇ警備が厳しんだぞ。無理に決まってるだろ、無理に」
「さすがMPの息子やな。説得力あるわ」
一瞬おだてにのって顔を崩しそうになったが、さも当たり前という態度でウメッチは凄んだ。
「ヤンキーを舐めると痛い目に遭うぞ、ボケ」
「それに子供だからって容赦ないから、撃たれるかもしれんぞ」
荒ケンは指を銃に見立ててモレの胸に突きつけた。
「まぁまぁ、じゃあさ、他の手を考えようぜ」
晃二は手で制して続ける。

 残る手はただひとつ、こちら側からの侵入路を見つけだすしか方法はない。
「じゃあさ、シャッターの割れ目をこじ開けたら?」
ブースケはライト側の錆び付いてボロボロになったシャッターを指さした。
「すぐにばれるような跡を残したら駄目に決まってんだろうが」
ウメッチは殴るポーズをして吐き捨てた。「ボケ!」
「もっと目立たないで入れるような場所があればいいんだけどなぁ」
晃二は高い所から建物全体を見下ろしたらどのように見えるかを想像した。

 そもそも観覧席と言っても、その建物はスタンド裏側に建っている、3階建ての別の建物で、当時は下見場(パドック)として建てられたものだった。
建物は丘を切り崩して建ててあるため、1階の正面口のあるフロアは、低いこちら側から見ると3階にあたる。
そのため建物の両サイドは2階辺りまで小高い丘に接してていた。

「変な建て方だよな。丘に埋もれているなんてさ」
モレの呟きを聞いた瞬間、ふと何かが頭を過ぎった。
― 丘? 埋もれている? ―
再度周囲の状況を見回した晃二の視線が一カ所で止まり、
「あっ」と声を上げた。
「あそこなら可能かも…」
 みんなの注目が晃二の閃き顔に一旦集まり、すぐさま彼の視線の先を追った。

〈#3へ続く〉
https://note.com/shoji_kasahara/n/nbb9f0c5f3f8a

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