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断ることで未来は開ける

相手が誰だろうとノーを言う勇気を持とう

まだ建築設計のけの字もわかっていないころ。建築専門学校を卒業し、とりあえず入ったハウスメーカーを二年半でやめた私は、設計事務所に就職したくてたまらなかった。ポートフォリオを作って手当たり次第に就職活動をしたが、どこの馬の骨ともわからない、図面もろくに描けない若造を受け入れてくれる設計事務所などあるはずもなかった。

そんなある日、仲のいい先輩が、ある設計事務所を紹介して下さった。その事務所の所長と連絡を取ると「ポートフォリオ(自作の設計案)を送って下さい」ということだった。その時のありったけの知恵を絞った、出来る限りを尽くしたポートフォリオを丁寧に梱包し、拝むようにして郵送した。

後日、一度会って話がしたいと連絡が来た。私は指定された場所に着き、所長が来るのを待っていた。しかし、なかなか来ない。結局30分ほど遅れて、えらくかわいい丸っこい赤のフォルクスワーゲンで乗り付けて登場した。

しかし、謝りの言葉ひとつない。それどころか、私の目も見ない。なにやらえらく不機嫌な表情で、私が拝むようにして送ったポートフォリオをバックから取り出した。クッション材入りの封筒で、A3サイズのポートフォリオがギリギリ入る大きさだった。取り出すのに苦労していたので「あ、取り出しましょうか?」と言ったが無視された。

その後はポートフォリオをダメ出しされた。悔しくてたまらなかった。はいはいと返事して聞いていたが、はらわたは煮え繰り返っていた。心の中では「正直、あなたが設計している建築たいしたことナイデスケドネ」と叫んでいた。

ダメ出しをし尽くした所長は帰って行った。「来るなら来ていいよ。入って欲しいと思った場合は給料を払います。」という感じで帰って行った。給料はいくらなんて話は一言もなかった。

私は家路につきながら、悶々としていた。「この設計事務所に入っていいのだろうか。本当に入りたいのか。」

建築設計のけの字もわかっていない若造は、そんなことを考える身分ではないのか。入れるだけありがたいと思うのが常識なのか。しかも仲のいい先輩が紹介して下さった事務所だ。なかなか断るわけにはいかない。それに今後入れるような事務所はきっとないのではないだろうか。決断の時だった。

「嫌だ!!」

そう強く思った。「こんな事務所で働くのはイヤだ。」単純にそう思った。本能的にそう思ったのだ。「俺はイヤイヤ働くために生まれて来たのではない。」その事務所に入った後を想像してみたが、その像は黒くどんよりとして重く、どんどん気が滅入ってきた。

私は、断ることに決めた。建築のど素人がそれなりにやっている建築家と言われる人を断るのだ。なんだかワクワクした。断りの手紙を書いて速達で送った。その瞬間、なぜか未来がパッと明るくなって開いた気がした。なんだか嬉しくてたまらなかった。「それでいいんだ」と心の声が聞こえた。

この話を読んで、あなたは「思い上がった生意気な奴だ」と思われるだろうか。「雇う側の方が雇われる側より強いのだから、雇われる側は従わなければならない。それが理性的な判断だ」と思われるだろうか。

しかし、よく考えて頂きたい。仕事は妥協してイヤイヤやるものではない。イヤイヤやるか、楽しんでやるか、それを決めているのは他でもないあなたなのだ。あなたの存在の価値を決めているのはあなただ。あなたの未来を決めるのも、もちろんあなただ。

断ってばかりもいられないだろう。食べていくお金が必要だ。しかし、断ることでしか開かない未来がある。断ることは後退ではなく前進なのだ。イヤでたまらないなら、一度思い切り断ってみてはいかがだろう。断ることは実はかなり気持ちがいい。

その後、私は就職活動を黙々と続け、希望する設計事務所に就職することが出来た。その事務所はいわゆる「試用期間」など設けていないとても寛大な事務所だった。

もしも私が赤いフォルクスワーゲンの所長の事務所に入っていたら。きっと全く違う未来を歩んでいたのかも知れない。あの時、断ることで今につながる設計事務所に就職できたのだと感じている。断ることで未来が開けたのだと思う。

「断る」ということに、身分が上も下もない。「断る」という行為は、万人に与えられた、そして決して誰にも侵すことのできない権利なのだ。

昨今は「理性」が支配した時代がとうとう限界を迎え、ますます「本能」に従うのをよしとする時代になっていると感じる。こんな時代なのだから、あなたが本能で「イヤだ!!」と感じる感性にどんどん従ってみてはいかがだろうか。

その方がきっと楽しい未来になると私は信じている。

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