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あなたは本当に音楽を聴いていますか?

やっとレコードプレーヤーを購入した。ずっとずっと欲しいと思っていたが先送りにしていたのだ。きっかけは突然に。私のひらめきで妻とずっと行きたいと話していた近所のドライフラワー屋さんに行ったところ、店主がたまたまレコード好きで一押しのレコードを聴かせてくれたのだ。私と妻のレコード欲はかつてない程に高まりついに購入に至った。私のひらめきがきっかけということもあり何か少し運命的なものを感じた。

プレーヤー、アンプ、スピーカーをセットし、レコードに針を落とすと、なんとも艶のある豊かな音が流れ出した。今まで聴いていたパソコンスピーカーから流れる音が、スカスカの音の抜け殻のように感じた。

昨今はサブスク音楽が隆盛を極めている。CD、カセットテープ、レコードはもはや過去の遺産となりつつある。しかし現代人は本当に音楽を聴いているのか。音楽を聴くという行為についてちょっと考えてみようと思う。

サブスク音楽はこうだ。パソコンを開き月額課金制サイトを開いて自動的にログインし、人差し指をポチポチと上下に何回か動かせばお気に入りの「音」は流れ始める。しかもAIが好みの音楽を選んでくれる。便利だし、好きな音楽だから心は満たされとても徳をしたように感じる。みんなやっているし、それで豊かだと思い込んでいるように見える。

しかし、ほんの20年くらい前はこうだった。

レコードやCDショップに行く日の朝は少しテンションが高かった。お気に入りの服に着替え、ドキドキワクワクしながらバスに揺られショップに向かった。店主の目を気にしながら膨大な量のジャケットの前で脳みそをフル回転させ、限られた予算の中でどれを購入するか決断を下さなくてはならなかった。悩みに悩み、脳みそが疲れ果てた時、想定外にも直感的に手に取ったジャケットの美しさに魅了され「ジャケ買い」に落ち着いてしまう。なんかお洒落なジャケットだし、レジのお姉さんには格好がつくかと堂々とレジを通す。しかし本当にこれで良かったのかという若干の後悔とともに家路につき、帰りのバスの中で我慢できずに封を開けてしまう。中身を覗きながらどんな音楽なんだろうとどんどん想像は膨らんでいく。もちろん包装のビニールはシワがよらないように綺麗に残してある。ようやく家に到着し、お湯を沸かし濃いめのコーヒーをいれてチョコレートの袋を開いて一個口にほうりこみ、CDコンポの電源を入れCDを挿入し、ちょっと曇っているけれど味のある音がスピーカーから流れる。「おお、なかなかいいじゃん!こんな音楽もあるよな」とまた新しい世界を知り見地が広がる。チョコレートの味とともに、その瞬間は脳裏に焼きついている。「音楽を聴くという行為」とはこのようによく言うとハラハラドキドキ、悪く言うととっても面倒臭い行為であった。

サブスクは悪く言ってしまうと音という情報が聴覚を刺激しているだけだ。誠に受動的であり、運動と言えば指先をわずかに動かしているだけ。しかしCDやレコードは「一つの体験」だ。直立二足歩行で店までたどり着いた上
、棚の中から一枚一枚手に取り、悩み苦しみながら一枚を選び出さなくてはならない。しかしその体験は血に流し込まれ脳裏に刻まれる。

結局どちらが豊かなのか答えははっきりしているだろう。私は物を作る仕事をしているが、物作りにはインプットによる栄養が不可欠だ。創造のための栄養素が豊富に含まれるのは間違いなく後者だ。

これはもちろん音楽コンテンツに限らず、本や映画などあらゆるコンテンツに言えることだ。デジタル書籍と紙の書籍だと、やはり後者の方が血に流れ込んでくる感覚があるし、映画はパソコン画面より映画館の大スクリーンで観る方が脳裏に深く刻まれる感覚がある。

これは誠に感覚的なものだが、感覚や感性を豊かにするものが本来の「コンテンツ」であるはずだ。もちろんこれは好き嫌いの話でもあるから自分が好きな方を選べば良い。しかし、昨今の「コンテンツ」については一度おおいに疑ってかかった方がよいのではないだろうか。

私は令和生まれの我が子が音楽を聴きたいと言ったら「とりあえず3000円あげるから好きなレコードかCDを買ってきなさい」と言って送り出そうと本気で考えている。



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