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地球建築家vol.5 ルイス・カーン I

ルイス・カーンは危険なコピーライター

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ルイスカーン中毒になった時期がある。

彼の言葉に魅了され、反芻し、その意味を掴み取ろうと必死にもがいた。本にはグリグリと何色にも線が引かれて、もはや何色かわからなくなっている。

しかし、もがけばもがく程、その言葉は遠くへと離れていき、「私はそんな意味ではない」とそっぽを向かれた。

カーンの言葉は危険だ。

その魅力に取り憑かれると、抜け出せなくなる。建築実務からは程遠い、宗教家が発するような、神秘的で美しいが、抽象的で曖昧模糊とした言葉である。

しかし、その危険な言葉達がまさにカーンの思想を形成し、カーンにしか生み出せないプロポーションの建築が生まれるのである。

「私は元初を愛する」

「あらゆるものの本性を知ることです」

「私は建築をセンスとして、永遠性の表現として考えます」

一読しただけでは、意味不明である。

しかし、何とも心惹かれてしまう言葉達だ。その言葉からは数々の連想が止めどなく溢れてくる。

「私は元初を愛する」

まさにカーンの建築哲学の根幹を作る言葉であると思う。

カーンはとにかく「元初」に執着した。

私の解釈だが、この「元初」とは「始まり」のことであり、建築の本性のことである。すなわち、「建築の本来あるべき姿」と言える。

谷尻誠さんも「レストランを設計するときは、一歩引いて考えて、レストランとは本来どうあるべきかと言うことを考える」というようなことをおっしゃっていた。

今、99%の建築は人々の欲望の対象として生み出されている。資本主義の荒波の中で、その本性などは忘れ去られ、どこもかしこも建築モドキで溢れている。

カーンが思う「建築」は、現代にはほぼ存在しない。カーンが今の時代に生きていて、その建築モドキ達を観たら何というだろうか。「アンビリバボー」か、「クレイジー」か。

いや、きっと悲痛な叫びをあげながらも、資本主義と真っ向から戦い、ボロボロになりながらも、あのえもいわれぬエレベーションを立ち上げたに違いない。

宗教家のような言葉を発しながらも、カーンはいつも現実主義者であった。

カーンが生きた時代(1900年〜)だって今と対して変わらなかった。カーンはいつだって戦っていた。自分の理想を追い求め、必死に抵抗していた。

カーンは晩年、確固とした地位を得ながらも、決して安息の地にとどまることはしなかった。常に自分を壊し続けた。自分の建築だって設計しては壊し続けた。

そして、ニューヨークのペンシルバニア駅のトイレで劇的な死を遂げた。心臓発作であった。



ルイス・カーンは建築を心から愛していた。

今、私達がルイス・カーンに学ぶとしたら、それは「建築の原点に帰る」ということに尽きると思う。

建築の元初、建築の本性にまで思考を深めて、一つ一つ丁寧に、慈しむように、建築を設計をしていくこと。実は、今、一番求めらていることなのではないだろうか。



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