【短編小説】失われた残暑を求めて

「ここが『残暑』のエリア……? 本当か?」
 ドームの中に一歩足を踏み入れて、オカダはつぶやいた。人工太陽の陽射しが強く、思わず手をかざして顔をしかめる。なんとなく肌にまとわりつくようなじめじめとした感覚もあり、出来損ないのサウナに放り込まれたような気分であった。
「すごく暑いぞ……。真夏エリアじゃないのか?」
「間違いなく残暑のエリアです。かつては日本の9月はこのような気候だったらしく」
 係員の男が、ニコニコ笑ってそう説明してくれた。オカダは片手でネクタイを緩め、首元のボタンをはずす。
 
(残暑というのは、秋になっても残っている暑さ、と聞いたんだが……半袖でくればよかったか)
 オカダは心の中でぼやき、あたりを見回した。まず目に入ったのは提灯の並んだ石畳の通りであり、壁に貼られた「夏祭り」のポスターが、半ば破れて人工風にはためいていた。片づけられずに残った屋台の骨組みがちらほらと見える。足元には蝉が仰向けになって沈黙しており、アリに群がられて解体されようとしていた。
 
「ここは、すべてが終わったあとの夏祭り会場です。お客様に『エモい』写真を撮影していただこうと用意したスポットでございます。夏の残滓。思い出だけを置いて、美しい夏は終わっていくのです」
「『エモい』、か……。古典の授業で聞いたことがあるな。『をかし』とかと似た意味だったか」
 夏祭りの痕跡を眺めながら、オカダは言った。
「昔の祭りは『エモい』のか?」
「諸説あるところですが……近年の言語学の研究で判明したところでは、どちらかというと祭りが“終わったあと”に『エモさ』を感じた人が多かったようで」
「そうなのか。ちょっとよく分からないな」
 オカダは首をひねった。係員の男はニコニコ笑っているだけで、それ以上の補足説明はしない。オカダが理解しようがしまいが、彼は自分の仕事をこなすだけである。
 
 かつて――人類が気候をコントロールできなかった頃――地球上の気候は1年を通してゆっくりと移り変わっていたらしい。暖かい春、暑い夏、涼しい秋、寒い冬。しかも季節の変化は連続的であるため、いくつもの中間的気候も存在していた。梅雨や残暑などがその例である。
 
「屋台ではどんなものを売っていたんだ?」
「りんご飴やわたがし、焼きそばなどです」
「焼きそばくらいしか聞いたことがないな。現代の夏祭りとはずいぶん違う」
「当時の人間は味覚のコントロールができませんでしたから。多種多様な味を楽しむには、多種多様な食べ物を摂取する必要があったようです」
「なるほど」
 オカダは祭りの名残りを見物しながら、石畳の道を歩いた。そうしている間にも暴力的な太陽は肌を攻めたて、全身がじっとりと汗ばんでくる。吹き抜ける風も温風と呼ぶべきものであり、爽快感はまるでなかった。
 
 オカダは屋台の骨組みが並んだ道を抜け、やがて瓦屋根の住宅が目立つ地区に辿り着いた。夏祭り会場とは違って、人の気配がする。
「施設内だろう? 誰か住んでいるのか?」
「ここは疑似的な“実家”です。夏休みの“帰省”を再現したスポットとなっております」
「帰省か……。たしかに昔はそういう文化があったみたいだな。しかし残暑ということは、夏休みはとっくに終わっているだろう?」
「その通りです。ですからこのエリアで体験できるのは、親戚の集まりのあとの寂寥感。みなが生活に帰っていったのに、自分だけが取り残されたような……そんな感覚です」
「子どもの側じゃなくて、親の側を体験するのか」
 なかなかにマニアックだと、オカダは思った。彼は係員の男と並んで、ゆっくりと住宅街を抜けていく。
 
「いかがですか? 空いている“実家”もございますので、体験していかれては」
「いや、やめておこう。俺の目的とは少し違う」
「では、お客様はなぜこの残暑スポットに?」
「不快な気分になりにきたんだ」
「不快な気分に?」
「そうさ」
 オカダは自嘲気味に笑った。係員は顔に笑みを貼りつけたまま、それ以上は尋ねてこない。
 
 太陽にじりじりと焼かれながら、2人は住宅街を抜けていく。やがてかすかに磯の匂いがしてきたと思ったら……目の前に白い砂浜が姿をあらわした。
 人工海岸である。
 
 住宅街は人の気配がするだけだったが、こちらでは何人かの男女の姿を実際に見ることができた。シャツにジーンズといったラフな恰好で、裸足になって波打ち際で遊んでいる。
「あれは客か?」
「いいえ、ロボットです。私と同じように」
「風景の一部ってことか。どういう設定なんだ?」
「夏を忘れられない者たちです」
 係員は端的に答えた。意味は……よく分からない。
「世間ではとっくに夏休みが終わっているというのに、その現実を認めたくない……そうした人々を再現したものです」
「ふぅん」
 オカダは相槌を打った。しかし相変わらず、意味はよく分からない。
 
 オカダはその後、「海の家」というところで売れ残りの線香花火を購入した。といっても、このエリアはいつ来ても残暑の季節なので、「売れ残りの花火」は常備されているようだ。
「少し湿気ているな」
「売れ残りですから。砂浜ならどこでも花火をお楽しみいただけます。ゴミは放置していただいてかまいません。昔は、海にゴミを捨てていく習慣があったようなので」
「ありがとう」
 オカダは礼を言うと、係員と別れて人気のない場所に移動した。別の客が残していったらしい花火の残骸が、ところどころで砂にまみれている。オカダは白い砂の上にしゃがみ込み、細く頼りない線香花火を袋から出した。
 
 最初、どちらの先端に火をつければいいのか迷ったが、最終的にはなんとかなった。一緒に買ったライターで着火すると、パチパチと火花が空中に散りはじめた。
 火花は四方八方に散り、すぐに消える。消えては散り、散っては消える。
 しかしあたりが明るいせいか、大して美しくなかった。火を使っているという事実だけで暑さが増したように感じられ、風情も何もない。
 
「……なるほど、こういう感覚か」
 オカダは納得してつぶやいた。彼は今、金を払って残暑エリアを訪れ、とびきりの不快感を体験している。しかし、料金の返却を求めようという気は毫もなかった。こうした感覚が得たくて、彼はわざわざこの施設を訪れたのだから。
 
 こんなにクソ暑いのに明日は仕事。しかも夏らしい楽しさはもうどこかへ去ったあと。自らが流した汗も乾かない劣悪な環境には、右を向いても左を向いても、思い出の残りカスしかない。残暑は不快だ。しかし、それがいい。
 
「不快」とか「憂鬱」とかいう気持ちは、頭に埋め込まれた“ハピネス”によって、普段は完全に排除されている。ここは、入館の際に“ハピネス”をオフにすることが許された数少ない施設だ。オカダは明日からまた、社会の歯車として働くこととなる。寂しさも辛さも感じることなく、ただ「楽しい」「嬉しい」という感情のみを胸に抱いて働くこととなる。
 
 幸せに戻る前に。
 この不快な蒸し暑さの中で、オカダはしゃがみ込み、大して美しくもない線香花火を見つめている。

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