香山の41「カーネル・パニックⅩⅤ」(59)

「ならば……俺はどうすればいい。俺は、こんなにまで穢れた俺を許すことができない。お前のように自分を呪う生き方だってできそうにない。どうにもできなくて足掻いて足掻いて、死にたくなって、モルヒネに手を出したんだよ、俺は」
 平安は言葉を進めるに連れて色を変え、悲痛へと転化した。初めて彼の前で薬品名を宣言して、呼応するように筋肉痛で足がこわばった。
「そのときは自分を呪えぬ自分ごと呪詛をかけるまでだよ。俺がお前に罪悪を感じるのはお前への愛情があるからだ。それならばお前は周囲の人間に愛情を振りまいているのではないのかね? お前だけが穢れているのではない。人間は必ず何かに対して愛情を持つんだ。そしてそれを知らないと、愛情は罪悪の根拠となって人間を苦しめる。そうか、気づいたぞ。俺達は相変わらず罪悪の不能に陥ることができるんだ。俺に足りなかったのは、狂気の構造の分析だったのだ。俺が優越を感じる根拠である罪悪への不能の能力は、かくて低次にとどまっていたのだと気づいていなかった。
 狂気というのは、文化や風俗から逸脱した者を追放するためにその内部の者が作る烙印だ。誰にでもこれが当てはまるとは思わない。実際、お宮と貫一のようにタッグで仕事をする狂人達も存在する。かくて俺は己の抱える狂気の分析を為したが、手ですくった水の形の不変性を保証できる人間はいない。人の成長というのは、自分の置かれた状況や抱える心理を俯瞰して観察することからはじまる。そしてこの機構は、もちろん俺に対しても適用される。
 俺は今まで、生来から自分の中に愛情が備わっていたにもかかわらず、ありもしない自己への凱歌を奏でようとそれを無視して自分の狂気を実現してきた。仮象への期待こそ狂気を象る粘土だったのだ。世界を否定しながら世界を是認し、自分もその中へ投棄された瑣末な存在であることを認めようじゃないか。単に俺は、愛情の働きにくい、エラー的なからくりを持つ人間だっただけなのだ。
 全ての冬は畢竟にして終わる。俺の中の稲穂は寒夜を超え、栄養を蓄え、今か今かと春の真昼を待っている。俺は冬が来ることを知りながら、それでもまた種をまくのだろうね。
 ……自由、とも口にしたかねお前は。どんな人間にも自由なんぞありはしない。改めて振り返るがね、自由だと? 何にも分かっていないらしいね。あれこそが、本物の仮構だよ。例えば、好きな女を抱いた。これでお前は自由であることを証明できるのかね? 違うさ。単純に遺伝子を残すための本能からなる欲望に束縛された末の行動なのだ。では、激しい物欲に打ち勝って、陳列された商品を盗まずに金を払って買った。これならどうだい? 無念だがこれも違う。これが照らし出すのは法律の算術に踊らさる人の姿だ。どれもこれも、生命が生きるためだったり、他人から押し付けられたりしたプログラムが人を動かしている事象さ。『自由』などはね、勝手な希望を叶えるためにこさえられた、あいまいな狂言だよ」
 彼の語りは肉迫で私の信条を粉砕した。そう、自分の信じるものがすべて崩れ去った。諦観に包まれていると錯覚しながら作った料理をテーブルクロスごと無茶苦茶にひっくり返されたような所感を得た。ベルリンの壁が崩壊した瞬間にエーリッヒ・ホーネッカーが見たのと同じ景色であった。

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