香山の18「ここでキスして。Ⅲ」(36)

「私は田舎で生まれてね。田舎って、セックスぐらいしか楽しみがなくてさ。中学校でもう勉強とか、通うのとか嫌になっちゃって、高校へは行かなかった。でも、どうにかして高卒の資格は欲しかったから、通信制の学校を選んで都会に来た。一年に何回かしか学校に行かなくていいし、誰だって卒業できるしね。すると、色々楽しいものね。大体クラブに行けばその日の終電が無くなってもホテル代を出してくれる男が現れる。たった一晩、一緒に寝るだけでだよ、おいしいじゃない。私だって人間だからむらむらとするし、性欲の実現と経済性を考えれば、そんな道に走るのは、おかしくないことだよね?」
「君は、もう少し自分を大切にしたらどうなんだ」
「え? どうして、自分の色欲を大切にすることが、自分を大切にしないことと同義なのかしら? 確かに、一人の、一回やったぐらいで彼氏面する怖ろしいメンヘラ野郎とやったのは計算ミスだったかもしれないわ。けれど、同じ種類のメンヘラに私は報われそうね」
「それは、……傲慢だ」
「どこが?」
 私は不意に口をついた言葉の根拠を知らなかった。答えに窮して黙ってしまった。
「すぐに答えが出ないのであれば、特段考えもなかったってことよね。人のことをそうやって、あいまいな表現で非難しようとするあなたの方が傲慢にふさわしい人じゃなくって?
 今まで、失恋だってたくさんしてきたわ。最初はこの世界のどこかに自分と心を通じ合わせられる人がいると思って、そんな人を求めて数多の男と交際したの。私、結構美貌には自負があるから、男に不自由はなかったわ。でも、何回やっても、結果は同じね。あ、セックスのことじゃあないわよ。まあそれもそうだけど。離縁しては、プリクラを破り捨てて、LINEをブロックしての繰り返し。もうたくさんよ。ようやく十八のとき、この世の中に自分の完璧な味方は自分しかいない、と悟ったわ。
 すると今度私を苦しめたものが喪失感だった。そうして生まれた孤独の夜は明けない。病的なしじまが四六時中私を囲んでいたのよ。私一人を残して、なんのうしろめたさもなしに世界が消え去れば孤独が消えるっていうやつ、誰が発明したのかしらね。私はそうやって自慢げに渡される処方箋を憎むたちだわ。いくらなんでも、人の煩悶が仮象で癒すことができるだなんて、それは実証されていない思いつきの特効薬じゃない。
 今まで、職場に行きたくない日なんてたくさんあったのよ。女だから仕方ないよね、と仕事の成果を甘く見られたり、仕事の相談と言うから話をきいてみれば体目当てだったり、結局は男の論理についていけなければいいポジションなんて得られなかったわ。飲み会に行けば、必ずといっていいほど嘔吐するし、翌日の気分なんて最悪よ。生理休暇をとって家にいたら、人の悪口がどこからか聞こえてきて、それ以降は申請をやめてしまった、なんてこともあったわね。自分の拵えた、見えない他人の悪口って、聞いていてとっても辛かったわ。この都会には地元の女友達もいないの。私は、一人で生きて行かないといけなかった。それでも、私に癒しがあってはいけない、というの? これだけ毎日苦行に耐えて生活していたのに、精神的均衡の根拠を官能に求めてはいけないの?
 理解に苦しむのは、それだけ罪悪感を感じる心を持ちながら、どうして私を殺す決断を下したときにその心が不能に陥ったのか、よね。それも、利益を得るための合理的な解だったとしてかたをつけるのかしら。あなたはあのとき、何を考えていたの?」
「何も考えなかった、意識をそらしていた」
「この」彼女は私に顔を向けて、「卑怯者、人でなし」
 すると彼女はまた続けた。
「あいまいな表現は、こういうときに使うのよ。あなたの心にしっかりと傷はついたかしら」―彼女はサンシェードを上げた。
「……一つ聞いていい?」
「なんだ」
「どうして、その拳銃を頭に向けて発砲しないのかな。生きていて、自己矛盾や罪悪感で苦しいんだよね? 私、首を絞められながら、何度も懇願したわ。『やめて』って。明はやめてくれなかった。もう、自分の未来が喪われるという気持ちは、あなたも十分味わったでしょう? それに、あなたが死んでも誰も寂しいなんて思ってはくれない。誰もね。だったら、善は急げだよ、死ねばいいじゃない。死に遅れているのよ、あなた」
「何を言うんだ」
 再びサンシェードを下げた彼女は、おもむろに私に顔を近づけた。キスをされる、と思った時にはもう、目を閉じた彼女の顔が目の前にあり、キスをされていた。死霊のキスは、私の体温を奪っていくような、霰のキスだった。顔色をたいそう悪くし、青白くなった彼女が顔を遠ざけて言った。

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