香山の21「君が思い出になる前に」(39)

「……間抜けみたいな、空のペットボトルをぶっ叩いたみたいな喋り方をしなさんな。お前は狂気を持っていない。社会から外れてそれでも笑うのは、狂気の沙汰なのだ。すなわち、あんたはここにいることが可能でない人間だ。しかし俺も馬鹿ではない。俺の次の質問に納得する受け答えができたなら俺の過誤を認めよう。なんの間違いで請負殺人をはじめようなんて大それた計画を企てた」
「効率がいい」
「それは、本の、音かね」
「そうだ」
 自分でも決着のついた話ではなかったが、虚勢を張ってやろうと聞こえのいい答えをはじき出した。
「俺の抱く疑問は一体解消されんね。狂気の毒が全身に回っていなければ、経済は罪悪をかき消さないからだ。つまりはそう、お前さんは嘘をついている。そこから導出される俺の推論を述べようか。
 お前さんは足を踏み入れるときにはさぞかし残酷だった。人の命なんぞ顧みない脳みその構造だったんだろう。それが、どういうわけか急に変わっちまったんだ。俺にはそんな気がしてならない、ああ情けない、蛆虫野郎だこと」
 視界が真っ赤に染まった私は握った拳を振り上げた。すると拳がそのまま動かない。赤色が薄くなっていった。自分が今何をしようとしたのか、それを考えると怖ろしくなり、踏みとどまった自分を称えた。
「自分を守ったつもりか? そうやって非暴力にへこへこするようでは正気の証明が再び為されたぞ」
 明がお宮に蹴りを入れた。お宮はそれでも挑発をやめなかった。
「これが俺達の世界なんだ。あんたは腰抜けの、かわいそうな善人なんだ……」明が再び足を出した。「あんたはもうだめだよ、退職しなよ。これ以上はもう、かわいそうだ」
 言葉と裏腹に、彼の顔には煤まみれの汚い笑みが浮かんでいた。煤の正体は、侮蔑だった。私は煙草をポケットからつかみ出して、火をつけた。先ほどと打って変わって、煙草を喫んでいる心地をよくかみしめることができた。お宮がひらめいたように目を輝かせた。彼の目は排水溝を覗き込んだような暗さも持っていた。
「そうだ、いいことを思いついたぞ」
「何だ」
「嘱託殺人をしてくれんかね」
「なぜ」私は咽喉元を詰まらせ、もう一度言い直した。「なぜそんなことを言うんだ」
「いいじゃないか。携帯を渡してくれれば、俺はすぐにお前の口座に振り込める。お宅らはそういう商売をやっているんだろうに」
「おちょくるのもその辺にしたまえ。そんなことをしてみろ、トランザクションが残るだろうが」
「ならば、俺が現金や貴金属で保有する財産のありかを教えたっていい。世の中、解決できぬ問題は存外少ないんだ」
「なぜそんなことを……命が惜しくはないのか」
「はっはっは、下品な質問をするもんじゃないよ」
 私は一体何と返したものか、圧倒されてしまった。椅子に座り、身の自由が利かず、そしてどういたぶられるかもしれぬはずの人間が、どういうわけでこのように自分に言葉の剣山を投げ続けることができるのかが分からなかった。
「その拳銃を額に当ててドカン、もしくは肺に穴を開けてくれてもいいんだぜ。人は肺に穴が開くと、血が肺に溜まってゆき、おもむろに溺れ死んでゆくんだ。ナイフで頸動脈をプチン、でもいいだろうな」
 撃つことができないことは分かっていたのに、私はデニムから引き抜いた拳銃を彼の額に向けた。しかし彼は表情に変化を催さなかった。一点の曇りもない冷笑だった。
 引き金を引けば、彼は死ぬ。私は自分が彼から与えられた苦しみを思い出した。ハチロクの中で彼が首を絞めるときの苦しみだ。しかし、それを打ち消すように私は、初めて人を殺す決断を下した日に戻っていた。

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