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【小説】つまらない◯◯◯◯ 28

 いつでも、ただなんとなく気にかかるものを気にしているだけなのだ。だから、その人とのあいだで気になっていることや悩んでいることがあれば、ひとりのときに、気になっていることとしてその人のことを考えたりするのだろう。けれど、そうでもなければ、目の前にいない人のことは気にならないのだ。
 そういう感覚は、男では珍しくもない感じ方なのだろうと思う。一緒にいるときしか一緒にいなくて、目の前にいないのなら存在していないのと同じなのだ。どれだけ好きだろうと、どれだけ一緒にいることが当たり前になっても、自分とは別のものとしか感じていない。自分の一部のようにも、自分の生活の一部のようにも思っていない。自分が気まぐれに気にかけたときにしか、その人のことは考えなくて、ほとんどいつも目の前にいない人のことは忘れているのだ。
 他の男がどうなのかはわからないけれど、俺からすると、一緒にいるときしか一緒にはいないだけではなくて、一緒にいるときだって、一緒にいるというよりは、その人と会っているという言い方のほうがしっくりくるような感覚だったのだと思う。相手としては、自分の時間が寂しいから、俺と一緒に過ごすことで自分の時間が寂しくなくなってうれしいというような感覚だったのだろうけれど、俺にとっては、相手と一緒にいる時間は自分の時間ではなかった。一緒にいる時間は相手と会うことに使っている時間で、相手にあげている時間というような感覚だった。付き合っている相手にしてほしいことがなかったりするのも、一緒にいる時間は自分の時間ではなくて相手にあげている時間だから、相手が楽しそうにしてくれていればそれでよくて、そこで自分のしたいことをしようと思っていないからなのだろう。そして、自分の時間だと思っていないから、相手と一緒に楽しく過ごせたとしても、自分の時間が寂しくなくなるわけではなかったりする。恋人との寂しくない時間を過ごして、そのぶん自分の時間が減るという感じ方になってしまう。恋人と一緒にいる時間が充実するというだけで、自分のことをしたり考えたりする自分の時間は別にあるから、今までも、恋人と頻繁に会ってあまりに長く一緒にいると、自分の時間がないままに時間が過ぎていって、自分があまり自分のことを考えたり自分の気持ちを感じていないような、窮屈な気分になったりしていた。
 そういう感じ方の違いによるすれ違いというのは、とてもありふれたものだったりするのだろう。そして、それは男が何もかもその場限りのものでしかないかのような殺伐とした感じ方をしているせいでそうなっているという面もあるだろうけれど、かといって、女の人たちのほうでも、誰かのことを自分の特別な人だと思い込んで、その人とのつながりを思い返したりその人の幸福を願うことで自分の精神の安定を図るような依存的な行動パターンを身につけている人が多すぎるというのもあるのだと思う。女の人らしくない女の人もそれほど珍しくないとはいえ、男と女の違いというのはどうしたってあるのだし、男に対して、自分が気にかけているくらいに、自分のことを常に気にかけてほしいと望んでも、望みが叶わずに悲しくなるか、男に嘘をつかせることになるだけなのになと思う。
 そもそも、いつも相手のことを気にかけようとしていないからといって、相手に対しての気持ちが弱いということにはならないはずなのだ。聡美とはこの二ヶ月ことあるごとにメッセージのやりとりをしていたから、メッセージが返ってきているかなと、いつもなんとなく気にかけているような感じだった。けれど、昼休みに席を立って、メッセージが来ていないのを確認すると、そのあとは、メッセージが来たりでもしなければ、聡美のことを考えることはめったになかったように思う。だから、それは携帯電話を気にしているというだけで、聡美のことを気にかけていたのとは違っていたのかもしれない。けれど、メッセージに気が付いて、それに返事をしようとしているときは、聡美の反応をイメージしながら、喜んでもらいたくて一生懸命メッセージを打ち込んでいた。メッセージを打ち込んでいるときも、飲みながら聡美と向き合っているときも、俺はそれなりに一生懸命だった。聡美の今の気持ちを感じようとしていたし、聡美がどんな人なのかわかっていきたいと思っていた。メッセージのやり取りにしても、相手からメッセージが来てからの返信はたいてい俺のほうが早かっただろうし、俺からのメッセージのほうが時間をかけて書いていただろうと思う。返事が来るからこちらも返事を送っていた感じだったとしても、送ったあとは気にしなくなってしまっていたにしても、携帯電話の画面に向かっているあいだは、聡美への気持ちに集中して、できるだけ楽しんでもらえるように頑張っていたのだ。
 そして、聡美のほうは、そうやってメッセージがずっと続いていたことをとても大切に思っていたようだった。昨日、セックスして寝て起きて、ベッドの中でくっつき合っているとき、キスしたあとに「好きよ」と言って、「好きになったんだよ」と繰り返してから、メッセージのやり取りがずっと続いていたときのことを話してくれた。
「最初はね、なんかメッセージが延々と返ってくるなぁって感じだったんだけど」
「面白かった。いつもいろいろたくさん書いてくれてたし、私の書いたことにもちゃんと反応してくれて。変な人。面白い人だなって」
「自分が送ると、しばらくして、なんか来てるなって思ったら、返事来てる感じで」
「起きたらね、メッセージが来てるの。まずそれを読んでから、準備してたの」
「起きてね、携帯取りながら、来てるかなって思うの。携帯見たらね、来てるの。毎日そうなの。ずっとそうだった」
「いつもで、ずっとはね、すごくうれしいの」
 聡美はそう言っていた。そういう人だったのだ。ひとりじゃないと感じることを、目をうるませるほどにうれしく感じる人だった。ずっと自分を気にかけてくれていて、自分のほうもだんだんいつも気にかけてしまうようになっても、やっぱり今日もメッセージが来ている。そういうことが、どうしようもなくうれしい人だったのだ。
 手を伸ばしてグラスをとって、横になったまま、少しだけ頭を上げて、ビールを飲んだ。
 聡美が小さく笑って「器用だね」と言った。
 俺は息をついて、グラスをテーブルに戻した。また耳を聡美の腿に押しあてて、テレビの画面を見詰めた。
 俺は思い違いをしていたのだ。聡美はもっと殺伐とした人なのだろうと思っていた。だから近付いてみようかなと思った。今こうして俺の部屋でふたりで過ごしていても、ふとしたときの目付きだとか、発言だとかに、殺伐としたものを感じることはある。けれど、それが素の状態だとしても、そういう自分の中の殺伐とした気持ちのまま、その場その場でエネルギーの出し惜しみをせずに充実したいい時間を過ごせればそれでいいと思っている人ではなかったのだ。自分の生活の中に、恋人との幸せな時間という、殺伐としていない時間を欲しがっている人だった。
 聡美の素の状態での殺伐とした部分というのは、幼少期の頃からのものだったのだろうと思う。田舎育ちで、女の子らしい遊びが物足りなくて、友達と走り回って度を越したくらいにいたずら放題しながらがむしゃらに遊んでいたらしい。そして、真面目な教師についてピアノをやり続けていたみたいで、その中で何かにストイックに没頭して上達していく自己肯定感のようなものも深く身についていったのだろう。けれど、それは幼少期に周囲から充分に構ってもらえて安心に育っていく中で、自分がやろうとしたことが思うようにできて、他の人よりもできて、みんなが自分のやったことを喜んでくれて、だから自分は自分の気持ちのいいことを好き勝手にやっていればいいのだと思っていられたことによる殺伐とした感覚だったのだろう。
 そして、そこからの聡美の日々は、のんびり安心していられるものではなかったのだ。いろんな嫌な出来事に傷付く中で、もともと殺伐としているものに、また違った殺伐としたものが加わっていった。そして、安心できる相手が欲しいと思っていたのに、思うようにならなかった。むしろ、傷付けられることの多い、報われない相手と過ごす時間が続いて、寂しさがいつまでも終わらなくて苦しかった。早くその苦しさから楽になりたいと、ずっとそれを願ってきたのだろう。
 誰かと一緒に生活して、いつも気にかけあって、優しくしあって、幸せになりたい。聡美にしたって、そういう気持ちは多くの女の人と同じなのだろう。むしろ、苦しくて殺伐とした気持ちの中でも、幸せにしてもらいたいのではなく、自分が誰かを幸せにしたいという気持ちをずっと手放さないできたのだし、誰よりも幸せにしてあげられるというような大きなことが言えるくらい、強くそう願ってきたのだ。
 聡美の手が、俺の頭に触れてくる。髪の中に指を入れるようにして、顔のほうから後ろに流すようにして撫でてくれる。耳にゆっくり指が触れてくると、はっきりとした触れられた感触がじわっと広がる。
 聡美は頑張ってきたのだろうなと思う。俺が見ていたこの数ヶ月にしても、聡美は仕事も遊びもずっと頑張ってきた。ただ寂しいから、誰かにそばにいてほしいとないものねだりをしていたのではない。もちろん、頑張ったから報われるわけでもないし、いくら頑張ってきたといっても、聡美よりも頑張ってきた人はたくさんいるのだろうし、今以上に苦痛の多い状況になっていた可能性だって充分にあったのだろうし、今の状態でもましだったりするのかもしれない。
 けれど、聡美としては、何事も思うようにはいかないことばかりで、安心できないまま、だんだんと年をとってしまったと感じているのだろう。仕事も頑張って、周囲からも認められているし、それなりの給料をもらって、それなりの職歴を積んでいけている。あとは生活の寂しささえどうにかできれば自分は大丈夫だと思っていたのだと思う。思ったようにいかない日々が続いたからといって、閉じこもっておとなしくしていたら何もかも終わってしまうと思って頑張り続けて、けれど、報われない結果に終わることが、何年ものあいだ繰り返されたのだ。疲れるほど頑張ったのに、それがいつまでも報われないと思って、だったら疲れることなんてやめてしまいたかったのだろうし、少なくても男のことで疲れるのはもう嫌だったのだろう。そして、報われているふうに見える女の人たちは、いわゆる女の幸せをつかんだ人たちだったりもしたのだろう。聡美は仕事にすべてを注いで仕事で心底充実できるようなコースには乗らなかった。仕事を頑張ることをそれほど求められない毎日の中で、自分のまわりを見渡したときに、女の幸せをつかんだ人たちが目立って幸せそうに見えてくる。自分が傷付けられない場所があるというだけで、充分すぎるほどに安らぎを感じられるように思ったのだろう。だから、聡美はこのままじゃいけないと思って、自分の好きになった人ではなく、好きになってくれた人を好きになろうと思ったのかもしれない。そうすれば女の幸せが自分のものになると思ったのかもしれない。
 自分が好きになった人に愛してもらうことを諦めて、自分を好きになってくれた人から愛する人を選ぼうとできるほど、聡美の中の傷付きたくないという気持ちは大きなものになっていたのだ。
 俺にはまったく想像もつかないことだなと思う。けれど、それはつまり、俺には想像もつかないくらいに、聡美がこれまでに傷付いてきたということなのだろう。


(続き)


(全話リンク)


この作品よりあとに書いたものなので、こちらのほうが面白いです

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