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【小説】つまらない◯◯◯◯ 27

 聡美が台所からビールを持って戻ってくる。ちゃぶ台の上のグラスに注いで、グラスを渡してくれる。
「ありがと」
 聡美も自分のグラスに注いで、それに口をつけた。ふた口飲んで、音を立てずにため息を吐いた。
「おいし」
「うん」
「他は?」
 俺は何のことかわからなくて「ん?」と返した。
「何かある?」
「なに?」
「何かない?」
「って?」
「何でも言って」
 聡美はそう言って、俺を見ている。
「何でもしてあげるね」
 俺は少し喉が詰まったけれど、「うん」と答えた。
 聡美が俺を見ていた。
「私はね、好きな人と一緒にいられたら、その人を誰よりも幸せにしてあげられるって思ってるの」
「そっか」
 幸せか、と思った。幸せが欲しいわけじゃないんだけどなと思った。別に幸せにしてくれてもいいけれど、かといって幸せはどっちでもいいなと思った。
 聡美はまだ俺を見詰めていて、俺もその目を見返していた。
「それは、私に任せてといてくれたら、そうしてあげるから」
 聡美は穏やかな顔をしていて、目の中が少しぼんやりしていた。
「うん」
 俺は何を言われているのかよくわからなくて、微笑んだまま返事だけ返した。聡美はまだぼんやりした目をこちらに向けていた。
 俺が「そうだね」とうれしそうに答えなかったことに、聡美はどう思っているのだろう。さっき、俺はただまともに聞いているだけだった。「幸せにしてあげる」と言われて「そっか」とだけ答えたけれど、俺の声の中にはありがとうというニュアンスがなかった。そのことに聡美はどう思っているのだろう。
 聡美がベッドの上に手をついて、尻をこちらに移動させてくる。頭が近付いてきて、こちらからも唇を向けると、目がわずかに笑って、唇をゆるく押し付けてくる。
 唇はすぐに離れて、聡美は顔を前に戻してテレビに視線を向けた。顔が少し微笑んだままになっていた。
「じゃあ、とりあえず膝枕してもらう」
 俺はそう言って、聡美の腿に頭を置いた。
 してあげたくて、そして、自分は相手を幸せにしてあげられるのか、と思った。
 付き合っている人を幸せにしてあげられるなんて、本当にそんなことを思っているんだろうか。彼氏ができたばかりで、気持ちが盛り上がっていて、なるべく大げさなことを言って、自分で気持ちよくなろうとしている感じなんだろうか。自分の気持ちに振りまわされる度合いというのは、人によってかなり違っている。今のところ、聡美の中にそこまでヒステリックなものは感じていないけれど、気分次第でかなり大げさな言葉や態度を取る人なのかもしれない。
 聡美が俺の頭に手を置いて、髪を撫でてくる。髪の毛が目の横の肌に当たるのが鬱陶しくて、聡美の手をつかんでゆっくりと首のほうに引いた。首の横に聡美の手が添えられて、しっとりとしたぬるい感触が伝わってくる。手を離して聡美の膝に置くと、聡美が首をゆるくつかんで、首から肩へと揉みほぐすようにしてくれる。ぬるい手のひらと指先が気持ちよかった。
 そもそも、誰かが誰かを幸せになんてすることができると思っているんだろうか。スーパーでパック詰めされているような、広いケージとこだわりの配合飼料で、幸せに育った美味しい鶏肉です、というような幸せをくれるんだろうか。たとえば、犬が相手なら、その犬を幸せにしてあげられたりもするのだろう。欲求が満たされるたびに幸せそうにしてくれる相手であれば、相手が満足するまでかまってあげられれば、相手に幸せを与えられるのかもしれない。同じように、家に帰ったらご飯ができているとか、布団が干してあってふかふかになっているとか、家がいつも清潔に片付いているとか、そういうことだけで幸せを感じるような人がいるのなら、そういう欲求に応えるほど幸せにしてあげたりもできるのだろう。けれど、飢えているわけでもなく、常に生命の危機に晒されているわけでもない、自分のことばかりを考えている人間同士なのだ。そんなに単純に幸せにしてあげられると言えるものではないだろう。人間を幸せにしてあげるのが難しいから犬を飼っている人もたくさんいるのだ。
 誰だって他の誰かを喜ばせてあげて、自分もそれに喜びたいと思っているのだ。そう思っている同士のはずなのに、関係はこじれていくのだし、それはふたりのあいだでこじれていくだけではなく、ふたりの外側の問題も含めて、ふたりの関係がこじれていったりするわけで、してあげたい気持ちがあれば幸せにしてあげられるというようなものではないのは明らかだろう。
 もちろん、聡美はもっと単純な意味で言っているのだろう。聡美がどんなことを俺と一緒にしたいのかはわからないけれど、他の幸せそうに見える人たちと同じようなことをしたいのだろう。そして、それができたら幸せだと思っているから、俺だって同じように、そういうことができれば幸せだろうと思っているのかもしれない。そういう幸せっぽいことをいっぱい一緒にしながら、生活のこまごましたことも何でもいっぱいやってあげるし、楽しく時間が過ぎるように一生懸命お喋りするし、辛いときにもそばに寄り添って、元気が出ないときは励まして、不満があればそれに全力で応えてあげるとか、そんなふうに思っているのだろう。
 私に任せてといてくれたらと言っていたけれど、結婚して、家のことは全部私に任せて、というのと似たような響きだなと思う。どうであれ、そんなこと任せるわけがないのになと思う。俺の幸せは俺が勝手に感じるものなのだ。寄りかかるつもりはまったくないし、何をしてほしいわけでもない。少なくても、一番多く時間を過ごす相手ではあるし、そこでの時間はいい時間にできればなとは思う。けれど、一緒にいない時間も長いし、そこでもいろんなことを思うのだ。俺は勝手に幸せになるし、聡美も勝手に幸せになればいい。そして、幸せな人同士で楽しくやればいいだろうと思う。
 けれど、聡美からすれば、そういう俺の考えは見当外れなものなのだろう。付き合うというのは、相手のことを自分のことのように大切に思いながら一緒に生活していくことだと思っているのだろうし、ふたりで幸せになるのが付き合うことなのに、それぞれに幸せになるだなんて、この人は何をわけのわからないことを言っているんだろうと思うのだろう。
 その人がそばにいてくれたら、自分が何かをするときに、喜びや悲しみをわかちあうことができる。何を感じてもひとりきりではなく、何かを感じたときに顔を向ける相手がいる。相手がそれを受け止めてくれて、微笑みかけてくれたり、言葉をかけてくれたり、抱きしめてくれたり、その全部をくれたりする。そんなふうに、ずっとそばで見守っていてほしくて、そんなふうにずっとそばで見守ってあげたい。そばにいないときでも、相手のことを気にかけて、相手に辛いことがなければいいなと思っている。相手とお互いの人生を分かち合って、自分の気持ちを相手と確かめ合って、相手の気持ちにも自分のことのように気持ちを動かされて、そうやって自分の人生を充実したものにしたい。そういうような、好きな人と一緒に生活していくうえでの、一般に正しいとされているあり方のようなものは、俺だってわかっている。
 けれど、俺は今まで、付き合っている人と一緒に生活しているような気持ちになったことがなかったのだ。一緒にいるときには相手との時間を楽しもうとしているつもりだったし、相手がそばにいることを煩わしく思うこともなかった。何でも相手を優先して、相手をちゃんと感じようとしていたつもりだった。それでも、一緒にいないときは、相手のことを考えることはほとんどなかった。生活習慣に組み込まれてくるから、明日会うのだろうなとか、そういうことは考えるけれど、たとえば、自分が昼飯を食べているときに、相手もそろそろご飯かな、何を食べているのかな、というようなことを思い浮かべることはなかった。
 聡美の前に付き合った人は、離れていても自分の中に相手がいるような感覚があると言っていた。そして、いつも俺のことを思い出すと言っていた。仕事が始まる前、俺はせっせと働いているかなとか、自分がご飯を食べるとき、俺はもう食べ終わっているだろうけれど、今日は何を食べたのかなとか、今日もおかわりをしたのかなとか、そういうことを、外にいても家にいてもいつも考えていると言っていた。「俺は、一緒にいないときは、あんまり思い出さないかな」と答えたけれど、「ショウちゃんはそうなんだろうね」と軽く悲しそうにしていた。「メールが来れば、思い浮かべるし、駅について、デパ地下歩きながら、こういうの好きだろうな、買っておこうかなとか、そんなことは思うけれど」と言うと、さほどがっかりしたふうでもなく「そうだね。買って用意しておいてくれてるもんね。今週は何があるよって、下調べしといてくれたりね。ありがとね」と言っていた。
 実際、その人と付き合っていたとき、昼休みに歩いていたり、タバコを吸っているときにその人のことを思い浮かべたりすることは、ほとんどなかったように思う。気にかけるものは間に合っているというのもあるのだろう。仕事の続きのことを考えていたり、さっきあったことを振り返っていたり、景色や行き交う人をぼんやり眺めているだけだったり、ひとりの時間はあっという間に過ぎていく。目の前のことと、自分のことばかりに気がいっていて、一緒にいないときには付き合っている人のことは考えたりしなかった。
 その人のことだって、むしろ頻繁に思い浮かべていたのは別れてからだった。とはいえ、今何をしているのかなというふうに、その人を気にかけていたわけではなかった。その人と別れてしまったあとで、自分の中にずっしりと残ってしまった後悔や嫌悪感が、ひとりになるとふとしたときにぶり返してくるから、その自分の感情に浸っていたというだけだった。



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