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【小説】つまらない◯◯◯◯ 33

 今までずっと、疲れている人と関わるはしんどいなと思ってきた。疲れてしまっている人は、自分は疲れたくなかったのに疲れさせられていると被害者意識を溜めこんでいて、それ以上に疲れることを要求されるたびに怒り始める。聡美はどうなのだろうか。俺で休まりたくて、俺には疲れたくないのだろう。少なくても俺に傷付きたくはないのだろう。俺で安心したくて、俺で寂しくなりたくなくて、そして、俺に何でもしてあげたいのだろう。いろいろしてあげるうえでも傷付きたくないし、安心したかったりもするのかもしれない。自分のやっていることはどこまでも無条件的に肯定してほしいと望んでいたりするんだろうか。いつでも徹底的に自分の味方をしてほしいと思っているんだろうか。それとも、思うことは何でも言ってほしいと思っているんだろうか。
 とにかく何であれ自分を否定されたくないという人はたくさんいる。自分の落ち度や能力不足や考えたらずについて指摘されると、なぜ自分が攻撃されないといけないのかとヒステリーを起こすような人が、男でも女でもたくさんいる。自分が何もかも完璧にできていないことを苦痛に思わないでいられるようにしてほしいのだろう。けれど、相手が求めているのは完璧ではないのだ。それなのに、完璧じゃないからといって否定されたと被害妄想が始まってしまう。自分が完璧ではないことを残念に思っているからといって、相手もそんなふうに思っているわけではないのに、被害者になってしまっている人にはそれもわからない。
 そういう人たちにしても、疲れすぎているからそうなってしまうのだろう。自分に対して肯定的ではないことを言われていちいち心を波立たされるには疲れすぎているのだ。ストレスがすでに溜まってしまっていて、自分の気に入らないことを言われるだけで過敏に反応してしまう。相手が伝えたいことを感じようとする余裕もなく、ただ自分を防御しようとして、攻撃するつもりなんてなかった人を攻撃してしまう。そうなってしまう人たちにしても、そうしたくてそうしているわけではなかったりするのだろうし、どうしようもないことなのかなと思う。けれど、それがどうしようもないとしても、どうしようもないからそっとしておこうというような気遣いは、病人に対しての気遣いと同じなのだろう。被害妄想とそれに起因するヒステリーにうんざりしながら、ただそこから回復してくれるように見守っていることしかできないのだ。けれど、それは自分のヒステリーで相手を脅迫して、無条件的な肯定を引き出しているようなものだろう。
 疲れてしまう人はかわいそうだなといつも思ってきた。疲れたと思ってしまうと、その疲れたという思いを自分の中でどうにかしないといけなくなる。それは、自分で勝手に疲れたあとで、その自分の疲れたという気持ちをなだめるという何にもならないことにまた多くの時間を費やすということなのだ。もちろん、身体も頭も何かをすればそのぶん消耗する。けれど、消耗したことに対して疲れたなと思う必要はないのだ。休めばよくて、休まったらまたしたいようにすればいい。疲れたことを不満に思っていても、周囲の疲れていない人や、疲れたことを仕方ないことだと思っている人たちにうんざりされてしまうだけなのだ。
 自分は疲れている人に対して冷ややかすぎるのだろうなとは思う。けれど、あまり疲れたと感じない俺からすると、疲れている人はどうしても単純につまらないのだ。俺は身体的な消耗以外の意味で「疲れてしまったな」と思ったことがあったんだろうかと思う。いつも、ただ眠って、そしてまた続きをやろうとするばかりだった。だから、できれば自分の関わる人は疲れていない状態であってほしいなと思ってしまう。もしくは、何をどうしたところで疲れるものだし、疲れてでもやるべきことがあるのだと諦めがついている人と一緒にいたいなと思う。
 もちろん、そんなことを本当に思っているわけではない。俺はただ巡り合わせがあったから近くにいることになった人たちと一緒にやってきただけだし、関わるのが面倒だからと疲れてしまっている類の人を排除しようとしたこともなかったはずだと思う。けれど、誰だって疲れている人と接するのは好きではないというのも本当のところなのだろうと思うのだ。もし人間が疲労しなくて、消耗はするけれど、うとうとして気持ちよくなってくるだけだったなら、世の中も人類の歴史ももっとましなものになっていたのだろうと思う。肉体的なり精神的なり、疲労に包まれてそこから抜け出せるほどの余裕も与えられないままで過ごすことが、自分の境遇への憎しみを生み出す最大の要因なのだ。そして、自分の境遇を憎むことにどれだけ正当性があったとしても、自分の境遇を憎んでいる人と関わるのは面倒だし不愉快なことなのだ。人間が疲労することがなければというのが意味のない仮定の話だとしても、アントニオ猪木が言うように、元気があれば何でもできてしまう。疲れたから何もできなくなってしまって、何もできなくてもできることで気をまぎらわせることになる。疲れるのは仕方ないけれど、疲れるのが元凶だとわかっているのだから、とにかく疲労を軽くするためにできること何でもやればいいのにと思ってしまうのだ。
 けれど、それにしたって、聡美からすれば見当外れな思い方だったりするのだろうと思う。気楽にしていることで自分の気持ちを感じないようにしているのは、感じることが疲れるからという以上に、自分の気持ちを感じることで嫌な気持ちになりたくないからだったりもするのだろう。俺はただ空っぽにぼんやりしているだけだから、自分のことを感じていてもぼんやりしているだけですむけれど、寂しくて苦しいのが自分なら、それを感じれば感じるだけ苦しかったりもするのだ。しかも、聡美はそれをどうにかしようと頑張ってきた。そして、ひとりきりで疲れてきたのだ。誰も自分の気持ちをわかってくれないと思ってきたのだろう。周囲が結婚していく中、自分はそういう相手と出会えないまま時間が過ぎていく。毎日のように、自分と同世代の女の人がどんなふうに過ごしているのかが目に入ってくる。そして、テレビから流れてくる言葉や、他人とのやりとりの中の何気ない一言が、はっきりと自分が普通の女に当てはまっていないことを教えてくる。目に映ること、聞こえてくる言葉の、そのひとつひとつが、自分をみんなよりも劣っているもののように感じさせてくる。自分だってそういう普通の女の幸せを望んで頑張ってきたのだ。こんなにも頑張っているのに、誰も自分の気持ちに応えてくれないし、それを認めてもくれない。自分が頑張っていることに気付いてもくれない。むしろ、よくある空回りしている行き遅れとして目の奥でバカにしながら、当り障りのない言葉をかけて素通りしていくだけだったりする。頑張っても報われないのは、何かその人に人間的に問題があるってことなんじゃないのかという目で見てきたりもする。世の中全体が、自分をたいしたことのない、取るに足らないものとして軽視してくるように感じていたりもするのかもしれない。その軽視される感覚だって、俺はわかっていないのだと思う。俺は他人から軽視されてこなかったのだ。だから、生活していて不快な思いをすることも少なかったし、他人の自分への扱いや自分の置かれている状況についてぐだぐだと考えていても、嫌な気持ちにならずにいられた。けれど、聡美の場合はそうもいかなかったのだ。
 聡美だけでなく、女の人はみんなそうなのだろう。どうしたところで、女として軽く扱われることになるのだ。男から軽く扱われ、女同士で軽く扱い合い、昔は若い女として、今は年をとった女として軽く扱われる。そういう軽視という攻撃に長いあいだ一日中晒されて続けて、擦り切れてしまったのだ。その軽視から自分を守ってほしいと思っていて、だから、恋人や身内からは、軽く扱われたくないし、自分のことを劣ったものや、足りていないもののようには扱ってほしくないし、実際の自分がどうであれ、絶対に自分を守ってほしいと思うのだろう。
 俺は付き合っている人の話をたいしたことを言っていないかのように軽く受け流したりはしないし、相手の思っていることも、その人にとってそう思うことの重みに同調できるようにと思って聞いているつもりではある。かといって、それは俺が相手の人格を軽視していないというだけなのだろう。世の中からの軽視に傷付いた相手が、もう傷付きたくないと疲れてぐったりしている姿には、あまり近付きたくないと思っていたりするのだ。
 聡美の膝に置いた手と反対の手で、聡美の脚に触れた。ふくらはぎをゆるくつかんで、聡美の肉の冷たさを感じようとする。
 この人は、俺には想像もつかないくらい強いストレスの中で生きてきたんだろうなと思う。聡美をよく見てない人からは、気楽そうな人だなと思われているのかもしれない。ずっとしんどかっただろうに、どうしてそんなに自分の善意を信じて、無邪気なふうに騒がしく振る舞えていたのだろうと思う。えらい人だなと思う。


(続き)


(全話リンク)


この作品よりあとに書いたものなので、こちらのほうが面白いです

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