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セックスの一行目


セックスの一行目

あっというまのことなのに
いったいなにがめんどうなの
うっかりしてるまに終わっちゃう
えっちなんて呼び名がお似合いの単なる遊戯
おっぴろげればあとはやってあげるっていうのに

今さら何を恥ずかしがれるんだい
布切れ二三枚じゃ飾り立てるだけ
脱がす前からわかりきってるだろ
隠すだけのものなんてないんだから
隠せないものだけが隠されていくんだから

胸をかばう腕にこめられた力
意識のいっていない両脚は
その隙間をあっさりと割られ
膝頭のねばつきに歪む表情がインスタント

ああ と君が言い
いい とふたりで言い合って
うう と俺が漏らせば
ええ それで終わりってこと
おお なんと簡単な交わり

こんなにも君に言いたいことがないことの
なんという果てしない
果てるまでのはかない安心


(終)


詩のような形式ものを昔少しだけ書いていた。
二十代の前半くらいの頃に、ブログみたいなものをやっていて、短いものなら何か書けるかなと思って書いてみた感じだったのだろう。
上の詩のようなものも、そこに載せていたものだった。

今だったらこういう言葉の使い方はしないなと思うところだらけだけれど、むしろ、その後俺の書き方が回りくどくなっただけで、今だって恥を気にせずに、より自己満足できるように書こうとすれば、こんな語り方になるのかもしれない。

けれど、どうして俺は詩のようなものを書こうと思ったのだろう。
俺は大学生の頃から、考え事をしていて、もやもやするからそれを書いてみたりして、それがチラシの裏に書けばいいようなことというか、ポエム的だったりはしたのだろうけれど、ポエムを書こうとしたことはなかったのだと思う。

そもそも詩に馴染みがあったわけでもなかった。
詩集を持っているのは谷川俊太郎が数冊だけで、最初に買ったのは大学生になるくらいの頃だし、最後に買ったのも「夜のミッキー・マウス」とかで、それこそ二十代の中頃くらいだったんじゃないかと思う。

谷川俊太郎だったのは、教科書で読んで面白く感じたのを覚えていたうえで、ピーナッツを何冊か読んでいて面白かったからだったのだろう。
他の詩人には、読んでいて興味を持ったことがなかった。

きっと、詩の内容とか、人間観みたいなものにひかれたのではなく、言葉をどんなふうに吐き出すのかという、肉体性に近いようなところで、谷川俊太郎の言葉は俺の肉体を通過するときに気持ちのいいものだったのだと思う。

そして、自分から詩を読もうとしないのもあって、そんなふうに感じたのは谷川俊太郎だけになった。

上の昔書いた詩は、面白くないし、当時だってさほど面白いとも思っていなかったのだろうけれど、多少の自己満足はできたりしたんだろうなと思う。

今読んでも、どういうリズムや音で吐き出された言葉なのか、すんなりと思い浮かぶし、ちゃんと俺の言葉の感覚そのままに書けてはいるのだろう。

面白くなくたって、自分らしいままで、自己満足できるくらいのところまでいければ、それで充分なのだ。

日常の中では、言うとよさそうなこととか、そう言っておくしかないことしか言っていなかったりするのだし、自分の言った言葉の響き方に多少でも自己満足が発生したのなら、それは自分の感じ方を自分が楽しんであげたということで、充分に自分を喜ばせていることになるのだろう。

面白いことが言えないからって、ちゃんと自己満足が残るような言葉が吐き出せる可能性のある向き合い方で、何かをしている時間を過ごしたいものだなと思う。

そして、他人の自己満足に微笑み返してあげられるような余裕を持って他人に顔を向けられていないとなと思う。

面白いかどうかなんて、とりあえずはどうでもいいことのはずなのだ。




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