【小説】つまらない◯◯◯◯ 53
満ち足りた感じでいる人と向かい合っているとき、俺はその姿を見守っているのをいつも退屈に感じていたのだと思う。俺に満足している姿ということではなく、その人が自分とか自分が置かれている状況に満足している姿ということなのだろうけれど、そういう姿に向き合っていると息苦しくなってくることがあった。俺がどう感じているかということには興味がなさそうで、相手の顔が、俺が儀礼的に自分の満足を追認してくれるのを待っているような雰囲気を発しているように感じられてくるとか、そういう感じなのだろうと思う。けれど、自分でもそれは間違った感じ方なのだろうと思っている。
もちろん、他人の中に幸せな気持ちの感触を感じるのが嫌だというわけではないのだ。街を歩いていて、道行く人が一緒に歩いている人と肩を寄せ合いながら、リラックスして楽しそうにしている姿を見ると、いいものだなと思ってしばらく眺めていたりする。けれど、目の前にいる人が自分に顔を向けて満ち足りたふうにしている姿には、そんなふうに感じられないことが多かった。その人にいいことがあっただけならば、一緒にああだこうだと喜んでいられるのだ。その人が他の誰かと一緒に満足気な顔で話しているのを俺が少し離れて見ている場合でも、よかったねと思いながら気分よく眺めていられた。けれど、自分と面と向かって満ち足りたふうにされていると、よかったねとは思いながら、よかったねという話を膨らませているだけになって、そのうちに他に何を思えばいいのだろうかと息苦しくなってきた。その人が喜びや満足感にいっぱいになっていて、自分の中のいい気分しか感じていないようなときに、相手に対してではなく、自分がただそれを見守っていることしかできないことに、おぼつかない気持ちになってしまうという感じなのだろう。
俺は自分がそんなふうに感じていることにずっと無自覚なままだった。居心地の悪さは感じていたのだろうけれど、それを自分で意識していなかった。相手はその場に俺がいることを喜んでくれているし、自分にもよかったねという気持ちはあるのだからと思って、テンションの違いが大きいと居心地が悪いのかなとか、そんなふうに思って、自分の息苦しさがどういうものなのか自分でちゃんと感じようとしないままだった。
俺が他人の幸せに対して、それを心底喜ぼうという気持ちに欠けているのに気付いたのは、何年か前に好きなバンドのライブに行ったときだった。そのバンドのライブには、都内でライブがあるたびに行っていた。そのバンドのヴォーカルは、プロフェッショナリズムを拒否するかのように、その場で自然と乗ってくる感情だけを声に乗せて歌う人だった。昔作った歌は、昔の話をするようにしか歌えない人だったから、ライブで初めて聞く新曲と、もう何年も何百回も人前でやっている曲とでは、その人の気持ちの乗り方があまりにも違っていて、俺はライブに行くときには、自分が何度もCDで聞いてきて大好きになっている曲が演奏されるよりも、未発表の新曲をやってくれるのを楽しみにしていた。新曲が演奏されて、本人たちがその曲への反応に対して緊張感を持ってやっているとき、そのヴォーカルの気持ちと昂揚感が自分の中に注がれて、俺が日常では自分の中には感じられないような、清くて温かい感情に自分の中が満たされてしまうようになって、いつも呆然としてしまっていた。その感覚をまた感じたくて、毎回ライブに行っていたのだと思う。
もちろん、客が求めているから、みんなの好きな曲も演奏してあげていたし、多くの客は初めて聞く新曲ではたいして盛り上がらずに、自分の好きな曲で盛り上がっていた。けれど、俺は好きな曲で盛り上がるためにライブに来ているというより、そのバンドの今を感じたくてライブに来ていたから、いつも新曲が楽しみだった。俺が気に入ることをやってくれたら満足なわけではなく、その人が気持ちを乗せてやれるような、その人のやりたいことをやってくれればよかった。俺はその人たちのやりたいことを感じたくて、その人たちの気持ちに触れたかった。こちらの好きなものをやれば喜んでくれるだろうと、サービスとして何かをやってほしいわけではなくて、その人の好きにしてくれるのがいい。好きにしてくれているのを見せてもらえるのが一番気持ちに触れられる。そんなふうに思っていた。
俺がそのバンドのライブに行き始めた頃、そのバンドは自分たちの活動にも、自分たちを取り巻く状況にも、かなり鬱屈した状態だったのだと思う。バンドの中で緊張感があったり、バンドとファンとのあいだで緊張感があったりすると、バンドは自分たちがやっていることがしっかりとしたものになるのか、しっかりと伝わっているのかということに、悲壮とも言えるほどに張り詰めていたりする。演奏をよいものとして成立させられるかという緊張感や、伝わってほしいという気持ちが、音が鳴り始めて、実際にいい演奏をできていることへの達成感や昂揚感と混ざり合って昇華されていくのが見ているこちら側に伝わってきて、そうでなくても素晴らしいはずの曲と演奏が、張り詰めているからこそのテンションとその解放みたいなものできらめいていて、それにとんでもなく胸をいっぱいにさせられていたのだと思う。
そんなふうにライブに通っているうちに、そのバンドはメンバーが一人脱退して活動が続けられるか危ぶまれる状況になった。けれど、しばらくして新しいメンバーも加わり、新しくリリースされたアルバムも充実した内容になっていた。そのアルバムのツアーもチケットをとって、俺は楽しみにしてライブに行った。始まって、メンバーが出てきたときに、今までと雰囲気が違うなと感じた。演奏が始まって、昔の曲が今までよりも気持ちを込めて歌われているなと感じた。客席も盛り上がっていて、メンバーも楽しそうで、よかったなと思っていた。そして、新しいアルバムの曲の演奏が始まって、俺は昔の曲を演奏しているときと伝わってくる感情の大きさがそれほど変わらないままなことに呆然としていた。今までのライブで感じたような圧倒的な充実がないままに、何曲もの新曲がいい演奏だと思うのに充分なくらいの熱量を俺に伝えながら終わっていった。
それはあまりにも大きな違いだった。気持ちに触れられる量ということでは、本人が幸せそうにしているのか、不安や不信をかき消せるだけの演奏をしなくてはと張り詰めているのかで、まったく違っていたのだ。
そのときのライブは、バンドが苦境を乗り越えて、たくさんの客の前で演奏できることに深く満足しているようなライブだったのだと思う。きっと、バンドのメンバーの中には、これまでのことや、今こうしていられることへの感謝や、よかったなという気持ちが、あふれるばかりにあったのだろうと思う。だから、感情の熱量が小さかったということでもないのかもしれない。むしろ、その熱がこちらに対しての呼びかけとして込められた熱なのかどうかというところで、俺の感じ方が大きく変わってしまったということなのだろう。
幸せというのは、自分の中の時間を止めることによって感じられるような感覚なのだろう。今何ができるのかという強迫ではなく、今こんな状態でいられていることへの満足が幸せなのだと思う。そして、俺は張り詰めたものを感じたがっていたのだ。人が何か伝えようとしているのに触れたがっていて、その人が幸せそうに、気持ちよさそうに何かをしてくれているのを見ていても、物足りなさを感じてしまったのだ。
幸せそうなライブも、演奏自体がよくなかったわけではなかった。ただ、演奏に込められている感情に反応するうえで、その人の幸福を見守ってよかったねと思ってあげることしかできないよりも、相手が必死に成立させようとしているものを感じて、そこに込められた力やいろんな思いを感じることに没頭できているほうが、俺にとっては充実できる時間になっていたのだろう。
楽しさを共有しようとしているようなライブが物足りないのはどうしてなんだろうなと思った。幸せそうにしながら、演奏していることをリラックスして楽しんでいるのを、どうして物足りなく感じるのだろう。その幸せをこちらに向けて振りまいてくれているのだ。切実さとか、何か伝えようとしているとか、そういう自分に向けられた問いかけやメッセージのようなものを感じ取ろうとするのに固執するばかりで、幸せというその人を満たしている大きな力がこちらに向けて漏れ出ていることには、うまく共感してそれを祝福してあげられないのはどうしてなのだろうと思った。
ライブのあと、それはよくない感じ方なのだなと思ったのだ。いつも何かを目指して、そのための何かをしているわけではないのだ。どこかにたどり着いたり、できあがったものに一息ついたり、できあがったものの素晴らしさをみんなで喜んで、みんなが自分のやったことに喜んでくれていることに安らいだりすることもあるし、それは素晴らしいことだろう。その日のライブだって、そういう喜びをみんなで分かち合えていることが大きなエネルギーを生みだしているような空間を作り出していたのだ。俺はどうしてその安らいだ幸せな場の一員として過ごせていることを楽しめないのだろうと思った。
そして、俺のそういう感じ方は、音楽とか映画とか、そういう作品とか表現のようなものに対してだけのものではなかったのだ。恋人と過ごしているときだって同じで、満足されていると退屈していたのだ。いろんなことがありながらも、いい時間を積み重ねて、俺といることが心から安らげることになって、幸せな気持ちで俺に微笑んでくれているのに、相手が発する幸せそうな雰囲気に俺は居心地の悪さを感じてしまっていた。相手は幸せの中で時間を止めて、今までのことや、今までの続きとしての今や未来のことをよかったなと思いながら、よかったねと確かめるようにして俺を眺めている。それなのに、安心に幸せを感じている人を目の前にしていても、俺は自分の時間を止めようとしないのだ。時間を止めてしまっている相手を見ながら、相手の中に今の俺への気持ちの動きをたどれないことに、居心地が悪くなっていた。安心できるようになったというひとつのゴールにたどり着いたと思って相手が心安らかに休んでいるのに、俺はそれを途中にしか感じていなくて、相手に足止めを食らっている気になってうんざりしていたのだ。
それは、今という時間の中にすべてがあるというような、自分の時間感覚みたいなものが間違っているということなのだろう。今という時間の中にすべてが含まれていると思っていて、いつであっても、自分は目の前の状況に何かしら明確な続きを見出さないといけないような気になっているのだと思う。けれど、そうではなく、何ということのない時間をしばらく過ごして、そのしばらくの時間を振り返ったりしたときに、ゆっくりとした時間の中で、何かがずれていたり、変化しているのを感じて、それに何かを思えばいいというのが、まっとうで穏当な今という時間の捉え方なのだろう。それはわかっているのだ。今はただのいつもどおりでも、そのいつもどおりを繰り返しているうちに、何かがゆっくりと発酵していくように、いつもどおりとは違うものが浮かび上がってくる。それを待つでもなく、ただ目の前の過不足ないいつもどおりを楽しんでいればいいはずで、そして、何かが始まってからそれに思うことを思えばいいはずなのだ。
それなのに、俺はいつも目の前に何かしら問題があって、それに対してできることをしなくてはいけないかのように思っているのだ。だから、関係性が落ち着いてお互いのあいだの緊張感が凪いでしまうと、何をすればいいのかわからなくて苦しくなってしまう。けれど、それは間違っていて、俺は何もしなくていいと思うべきなのだ。何もしなくても、いつもどおりにしていればいいことに安心するべきで、実際に何かがあってから、そうじゃないほうがいいことを、そうじゃなくなるようにすればよかったのだろう。それなのに、俺は何もないうちから何かを探したがって、目の前にあるものに何か反応しなくてはいけないと、ひとりで空回ってきたのだ。
(続き)
(全話リンク)
この作品よりあとに書いたものなので、こちらのほうが面白いです
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