「手段と目的のパラドクス」
情報の溢れた世界を私たちは生きている。情報のシャワーを浴び、情報が全てだという勘違いを無意識レベルで潜在的に頭の中にインストールされている。
この世界は情報だけの社会だ。
たくさんの情報を私たちは手に入れることができ、どうなったか。賢くなれたのだろうか。幸せになれたのだろうか。より良くなったのだろうか。いや、情報量に私達は苦しめられている。
SNSやインターネットなどのテクノロジーの進化で、私対の生活は間違いなく便利になった。
便利にはなったが、幸せにはなれていない。
語弊があるが、私の感覚としては情報量の多さに苦しめられている人が多い気がする。SNSによって、幸せそうな人をすぐに見つけることができた。日常生活のほんの一部分である幸せの瞬間が切り取られている。
その瞬間がその人の日常生活のすべてだと脳内で勝手にすり替えられ、自分の日常生活と比較し、ネガティブな感情が生み出される。
SNSを見ることで、ネガティブな感情が生み出されることもあるのに見てしまう。人間の本能的な部分が影響しているのかもしれない。
きっと、見なければ周りの人の話についていけないという恐れからそんな行動になっているのだろう。
情報を得ることは手段であり、幸せになることが目的。
私たちは目的をいつの間にか忘れ、手段を目的にしてしまうことが多くある。情報を浴びることが目的と錯覚し、結局何をしたかったのかわからなくなる。
Twitter、Instagram、そしてTiktokなどから得た情報は果たしてどれくらいの情報を覚えているだろうか。正直に話すと私は全く覚えていない。ほとんどの人が覚えていないと私は感じる。
コスパからタイパといった言葉が生まれ、私たちは「簡単に、すぐに、」知れる情報を求めている。簡単に得られるものやすぐに見つけられるものは、簡単に忘れ、すぐに忘れる。
あなたが求める過ごし方のその先には、果たして何があるのだろうか?
この問いを自問自答し、本来の目的を追求する過ごし方を自戒を込めて問い続けたい。
本日も最後まで読んでくださりありがとうございました!!!
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