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神だのみ

 先日、第一子が誕生した。この子どもの誕生が機会となり、今まで接する機会が少なかった方々と関わる機会が増えた。具体的にいえば、子どもをもつ同年代の親たちである。
 同じ子どもをもつ親との会話の内容は、出産に関してのことや育児に関してのことが多い。
 私たちよりも先に出産や育児をしている方々には、自分たちが導入に迷っているモノ(例えば、電動搾乳器や使っているミルクやオムツの種類など)について尋ねる場合が多く、その意見をもとに夫婦で相談して、我が家への導入を検討している。
 このような話題の中で、妊娠についての話題が出るケースがある。要するに「結婚して、X年経過してやっと妊娠した」という内容の話である。私たち夫婦は、子どもが誕生してみると、たいして苦労なくというか、順調に妊娠して、出産となった。
 ただ、妊娠前は、私たち夫婦は30代のため、同居して、3ヶ月経過して、妊娠の兆候がない場合は、夫婦のどちらかに不妊因子を持ち合わせていないかをチェックしようと私の方から提案をしていた。
 35歳を超えてからの出産は、高齢出産と言われる。この話をすると、「今の35歳は若いし、綺麗だよ」ということを言われる方もいる。しかし、美容年齢は伸びたかもしれないが、出産年齢は伸びてはいない。年齢が高くなるほど生まれてくるこどもに様々なリスクが高くなることは、昔から変わっていない。
 このような理由で、私としては、3ヶ月でダメなら医療のお世話になることを視野にいれたわけである。
 
 親となり、同じ子どもをもつ親との会話の中で、出産に関しての話題になった時に、なかなか妊娠しなくて悩んだ人たちが以外と多く、苦労話を聞く機会も多かった。長い方では10年ほど不妊で悩んだ方もいた。私が話した中で6割以上は、そういう不妊の悩みを持ちながら、不妊因子のチェックや不妊治療といった医療に向かうのではなく、子宝のご利益があると言われる神社や寺院にお参りにいっていた。不思議なことにお参りに行った日が誕生日(出産日)になったという夫婦が数組いた。
 ある意味、彼らは、「医療よりもお参り」にいったわけである。神社や寺院にお参りという非科学的・非合理的なことをするよりも、科学的・合理的な医療によって、不妊を解消しようとしたほうがいいのではないか、と私は思ってしまう。
 お参りに行った大多数は、夫婦で行ったのではなく、夫か妻の片方だけでお参りにいっていた。こういう悩みを夫婦で共有できないのは残念な気もするが、既存の関係が悪くなる可能性を持っているため、言い出せないのかもしれないと想像する。
 又、不妊因子のチェックに行った際に、不妊因子が発見された場合、夫婦の関係を解消する人たちもいる。そのようなことを避けるために、医療方面にいかないのかもしれない。
 いろいろと想像は膨らむが、神社や寺院にお参りに行くというのは、面白い感じがする。当然、本人たちは真剣に悩んでいるわけだから、「面白い感じがする」というのは、失礼かもしれないが、そのように思ってしまう。
 先程、書いたように人知の延長線上にある「医療」の方に行くほうが、科学的・合理的な感じがする。しかし、そうではない神社や寺院にお参りに行くというのは、どういうことなのだろうか。今後、考えていく大事なこととして、ここでは結論は出さないし、今の私の能力では出すこともできない。
 ただ、私が彼らのやりとりで大事だと思ったことは、不妊に悩んだ彼らは「お参り」という選択肢を選んだことを馬鹿にできないということだ。私は、もしもの時に「医療」を考えた。「科学的・合理的」という観点からすると「お参り」よりも「医療」であろう。しかし、彼らは真剣に悩み「お参り」を選択した、その苦労は馬鹿にすることはできないだろう。私とは、考え方が異なっても、その苦労を馬鹿にするような態度であれば、人間関係の構築や維持は難しいものとなるだろう。
 会話の内容だけでなく、なぜ、そのような会話をするのか、そのような会話をすることはどのような意味を持つのか、そういうことを大事にしていけたらと思っている。

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