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青春について、反射的に、書き連ねたもの

 あの毎日は、本当に輝いていたのだろうか。


 『青春』に触れる機会があった。

 それはとても輝かしくて、楽しさも、悲しみも、悔しさも、喜びも。すべてをそのうちに宿して、嘘みたいに、きらめいている。外側から見ても、わからない、だけど、それが強く、確かにそこにあることを、主張している。だとすれば、内側には、どれほどの可能性を秘めているのだろう。

 といえば、とてもきれいで、かけがえのないものに聞こえるのだけれど。本当に、青春は、まぶしくて、見えないような、そんなものなのだろうか。

 昔のことで思い出すのは、どちらかといえば、つらいこと、苦しいこと、恥ずかしいことが多い。楽しいことももちろんあった、けれど同時に、楽しいことでさえも、その中に、苦しくて恥ずかしい思いも含んでいた。

 そのことすらも、あるいは青春であるのかもしれない。

 ぱっと思いつく、私のイメージ。青は未熟。春は始まり。青春の真っただ中にいる私たちは、未熟であるからこそ、未熟であることを知れない。そしてその中で、新しい出来ことがあって、これからの人生を共にする、友人と、あるいは、恋人と、出会っていく。社会へ出ていく、広がっていく、世界。未来へ進むために、酸いも甘いも、知っていく。

 青春なんてなかったという人だって中にはいるだろうと思う。幸いにして、私には、その経験をさせてもらうことができた。それが幸せだったのかどうかは、今もわからずにいるけれど。

 だけど確かに、今も思い出すのだ。勢いあまってやってしまったこと。漫画に影響を受けた末の行動。今は反省しかない、当時選んだ正解。それぞれは輝かしさなど何もない、ただの嫌な思い出でしかない。それでも、全部固めて、握りしめてしまえば、それは、『青春』という名の、かけがえのない経験になる。

 あの頃の私は、今より考えていたかもしれない。いや、微妙かもしれない。なんだかんだ、頭に思い浮かんだことを、割とそのままやるタイプだったような気がする。果てしなく変わっていない。当時のほうが、考えているつもりでいた分、質が悪いような気もする。

 今も昔も、全く考えていないわけではないのだけれど。何のあてもなくこのnoteを書いている時点で、成長は見られないような気はしている。


 今を過ごす学生たちは、青春のただなかと言って差し支えないと思う。だけど、「今が青春だ」とはあまり言わない。渦中の人たちは、今を生きることに必死なのだから。青春は大人から見る過去のことで。過ごしたからこそ、今起こりえるそれを、観測することができるのだ。

 その大人から見た青春とは、果たしていつのことなのか。中学生なのか、高校生なのか。10代なのか、20代なのか。

 たぶん、答えなどないのではないかなと、思う。年を重ねるにつれ、青春も、変わっていく。それは色も形も、輝きも、年月さえも。20代は10台を青春というかもしれない。だけど30代は20代も青春に含むのだ。それ以上は、今の私には知れないけれど、40代になれば、30代すらも青春と呼ぶのではないかと思っている。

 それは果たして正解なのか、はたまた私がいつまでも未熟なままでいるせいか。どちらにせよ、この文章を、10年後に読んだら、若いなぁとか言いそうで、今の自分の頭の中も、未来の自分の精神的安定も心配である。

 

 こんな当たり前のようなことを、だらだらと書き連ねてしまった理由は、ただ、目の当たりにした、青春の物語に影響されてしまったからで。たとえ作り物だとしても、むしろ作り物だからこそ、あこがれて、求めてしまうのだろう。もう戻れない、戻りたくない、だけど、かけがえのない過去が、欲しくなる。


 そんなことを考えながら、また、物語の続きへ、沈み込むのでした。





 文筆乱れてお目汚し。失礼いたしました。

 本城 雫


いつも見ていてくださって、ありがとうございます。 役に立つようなものは何もありませんが、自分の言葉が、響いてくれたらいいなと、これからも書いていきます。 生きていけるかな。