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特別編:死体掃除屋、「脊」。

 目を覚ます度、灰色の現実に悲観する。とは言っても、バトル漫画の主人公が敵に味方を殺され勝つ手段もなく握った拳を地に叩き付けて思わず泣き叫んでしまうようなものではなく、部屋の窓から見える灰色の空を眺めて、「いつまでこの日常が続くんだ。このまま何の生き甲斐もなく呼吸を続けて何の意味がある。早く消えてしまいたい」という軽い希死念慮に抱き締められる程度の無価値なものに過ぎない。
 鉄製のベッドに質の低いマットレスを敷いただけの瓦落多から降りると、俺は簡素な机の上に置かれた飲みかけの缶コーヒーに手を伸ばした。無色でどぶの臭いがする現実に意識を戻すことだけを取り柄とする苦く温(ぬる)いだけの液体を、痰混じりの唾液と共に喉の奥へと流し込む。
 せめてもの嗜みに、ぐじゃぐしゃになった煙草箱から、湿気って猫背気味になった煙草を1本取り出した。かさかさの唇で咥え、オイル切れ寸前のライターで火を点ける。「オーガンズ」という動物の臓器のフレーバーが楽しめる、この街でしか販売されていない銘柄が俺のお気に入りだ。もわもわと自分の口から吐き出される、身体を蝕んだ後の達成感に満たされた煙を眺める。「喫煙は惰性的な日常から逃避する、自殺よりも遥かに楽で気持ちのいい方法である」と、脳内で簡潔な論文を書いた。特に寝起きの一服が、どの喫煙時間よりも一番の快感を得られる。寝たことによって綺麗になった(つもりの)体内に、人の心臓のフレーバーが心地よく広がる。
 缶コーヒーを左手に、煙草を右手に持ちながら、掃除の行き届いていない窓の外を眺めた。相変わらず、空は分厚い雲に覆われていて、午前中であろうと異様な暗さが街を覆っている。だが、それは「湿気の街」にいる限り逃れることは出来ない中途半端な負の感情が織り成す、憂鬱エンターテイメントだ。
 湿気の街。都内で唯一、年中湿度の高い街。雨が降るわけではないのに、空は常に黒みかかった雲に覆われている。心を踊らすような青空がこの街で爽やかな笑みを見せたことなんて、俺が知る限り1度もない。重い湿気が街中を包み、路地裏からはどぶの臭いが漂っている。どこもかしこも泥濘んだ地面の上を、湿気が生み出した憂鬱に押し潰された街の住人が俯き歩いている。
 窓から見下ろす街は、今日も色を失っている。ラブホに挟まれた道をふらふらと歩く小便臭そうな中年男、ラブホの前に立つ売れるわけのない小汚い街娼、煙草を吸いながら空き缶を集めるホームレス、電柱に背中を預けて注射針を前腕に刺すジャンキー、コンドームを売り歩く頭の捻子が数本抜けていそうな少年。この部屋から見下ろす湿気の街のラブホ区域は、起床する度に「消えてしまいたい」と曇り空に願う俺の不安定でか弱い心を安心させる。
 最底辺は底辺をぎりぎりで生かす薬であり、お世辞ではなく救世主だ。上には上がいるが、下には下がいる。顎を上げ続けるのは疲れるが、頭を下げ続けるのは安心を生む。最底辺には最底辺なりの価値がある。中途半端に下の方にいる底辺の俺は、彼等に生かされていると言っても過言ではない。まだ、あいつ等のようにはなっていない。そう自分に視覚的に言い聞かせることで、体内を蠢く黒くて醜い憎むべき粘液の動きを弱めることが出来る。
 最底辺を肴に、短くなった煙草を最後に一気に吸い込もうとした時、至るところにヒビの入った木製のドアを3回叩く音が聞こえた。俺は小さく舌打ちをしながら、灰皿に死にかけの煙草を押し付けた。じゅっ、という火が消える音が1つの小さな生命を終わらせたような背徳感を与えてくれる。円柱型のドアノブを回し、ドアを開けた。部屋の前に、ブルーアッシュ色に髪を染めた1人の老人が、黒ずんだ釘バットを杖代わりにして立っていた。ちん毛のようにちりちりの髪が申し訳程度に頭に乗った、皺と垂れた肉に支配された怪物のような顔の老耄だった。見た人を不快にさせるぐらい醜怪な外見をしているのに、どうして平気な顔をして生き続けることが出来るのだろう。冗談かと思うぐらい背筋の曲がった彼を見る度、そんな失礼で理不尽な質問を投げかけたくなる。そうして、じゅっ、と間接的に彼の命を絶たせたくなる。
「『脊』ちゃま、仕事のお時間ですぞい」
「……あぁ」
 戯けた口調で微笑む老人に苛立ちと殺意を覚えながら、彼から差し出されたぼろぼろのメモ用紙を受け取った。
 俺は、脊。汚物と憂鬱に塗れたこの街で、死体掃除屋をやっている。俺が最底辺ではなく、底辺として生きることが出来る唯一の理由だ。
「現場はラブホ区域内ですぞい。『啄』から近いから、面倒臭がり屋の脊ちゃまには丁度いい現場ですぞい」
 この5階建ての建物は啄という名前のラブホだが、死体掃除屋の管理も行っている。会員の死体掃除屋は、啄から仕事を引き受けることが出来る。客から支払われた依頼料から仲介手数料を差し引いた金額が、会員の給料となる。1〜3階はラブホとして営業し、4,5階は会員の中で希望する者が部屋に住んでいる(ただし、給料から部屋代、食事代を天引きされる)。
 メモ用紙には死体が転がっている現場の住所、死体の特徴が記載されていた。
「はいよ、どうも」
 ぶっきら棒に礼を言うと、壊れかけのドアを閉じた。見るに耐えない老人の顔は、視界から消える最後の最後までふざけたように微笑んでいた。
 糞と同等の見た目をした老人を見下せない、老人に酷い言葉を浴びせることが出来ないのは、彼がラブホと死体掃除屋管理組織の管理人、「処理爺」であることも理由の1つだ。だが、それだけではない。瞳の奥に、醜いだけではない何かを宿している。思わず、敬ってしまうような得体の知れない圧倒的な勝者を。不愉快な見た目と口調で、本当の処理爺を隠しているような気がする。理由は分からないが、本能が逆らってはいけないと訴えかけてくる。全てにおいて底辺で、何も隠すことがない、まごうことなき埃以下の俺ごときが。
 処理爺に会う度、そんな敗北感を味わう。だが、それでも啄に住み、啄から仕事を貰い続けるのは、生きる為の必需品を揃えるのが面倒臭いから。俺を形成する殆どが「面倒臭い」で出来ている。
 腹減った。1階の食堂で飯を食ってから、現場へ向かおう。

*

 湿気の街の路地裏は、いつだってどぶ臭い。この臭いからは諦めを感じて、親近感が湧く。きっとどんな努力をしたって、臭いままなんだ。臭くならない可能性に賭けて頑張るより、諦めて楽に生きたい。他者の目は、いつの間にか気にならなくなる。
 死体掃除用の特殊な箒、「躯」を右肩にかけて、ラブホに挟まれた路地裏に入る。室外機の無機質な嘆き声と、紫色の蛙の憂鬱をテーマにした合唱が、街を漂う湿気でしなしなになった煙草をB級グルメにする。ちかちかと点滅する街路灯の光に照らされた、少年の死体を見付けた。首に五本分の爪の引っ掻き傷がある。啄の管理人、処理爺に掃除の依頼をされた死体だった。短くなった煙草を捨て、右足で踏み消す。面倒臭いけど、仕事開始だ。
 愛用の箒、躯は、死体を処理することに特化した掃除道具だ。啄に入会し、死体掃除屋を始めることになった日、処理爺から勧められた死体掃除専用の清掃用品を販売・修理する掃除道具屋、「髄」へ向かった。
「死体掃除屋やるから、道具を買いたい」
 俺が店主の髄に言うと、彼女は客である俺に向かって面倒臭そうな顔をしながら、この箒を持ってきた。接客中に煙草を吸いながら俺を睨む、物を売る側として最悪な態度。さらさらのボブヘアーと可愛らしい顔のお陰で、どんなに醜悪な対応をしても許されてきたのだろうか。だが、バニラ味のアイスクリームに蜂蜜と黒糖と液状のホワイトチョコレートをぶっかけたような甘ったるい考え、俺には通用しなかった。「お前は私より下の人間だ」と見下ろされている気分になった。正しいからこそ、言い返せないからこそ、言葉にならない感情が不快な温度を持って、心の中に広がった。他者の目は、気にならない。底辺は底辺らしく、見栄を張らずに生きる。他者に見下された瞬間に、そのスタンスがよく揺らぐ。格好を付けたいだけの自分がいるかもしれないという現実に、自己嫌悪を覚えて死にたくなる。どぶ臭い路地裏に対しての親近感は、憧れを無理矢理変換していただけなのかもしれない。きっと、この気付きは初めてではないだろう。
 処理爺と同様に、髄に対して文句や罵倒を浴びせられない理由は、彼女も俺より上の存在に感じるから。髄が勧めてきた箒、躯は、確かに俺にとって最高の掃除道具だった。柄竹の部分は人骨で作られており、穂先の部分は台形の刃が取り付けられている。手触りや重量、死体処理方法が全て自分にマッチしていた。面倒臭がりだがプロの仕事振りを見せる可愛らしい見た目の髄と、面倒臭がりで雑に仕事をするがりがりで病的な見た目の俺。どちらも底辺に属していたとしても、明らかに髄は俺よりも上にいる底辺だった。
 ざぐっ、ざぐっ、ざぐっ……。
 ブルーシートの上に置いた首に引っ掻き傷のある死体に、躯の先端に取り付けられた台形の刃を振り下ろす。
 ざぐっ、ざぐっ、ざぐっ……。
 首、手首、前腕、二の腕、と依頼対象の死体を持ち運び易いサイズに切断していく。死体掃除屋に処理される程のしょうもない人生だったということは、未成年の彼は最底辺の部類だったのだろう。きっと成人して俺と同い年になっても、この街の泥水と蛙の死体を養分にして生きていたに違いない。つまり、俺より下の存在。最下層。最底辺の中でも最底辺の生塵。気持ちがいい。自分より下の存在を前にすると、余裕が生まれる。骨のように細い身体が大きくなったような感覚になる。こいつから見たら、俺は羨ましいと思う対象だ。生きてる彼に会って、まるで勝ち組みたいに彼を見下ろしてやりたかった。今まで俺がそうされてきたように、生物としてどちらが上かを見せつけてやりたかった。そうして、自分が立っている場所が、誰かにとって手を伸ばしても届かない場所だと実感したかった。
 ざぐっ……。
 少年の死体を程よく切断し終えた。ブルーシートの四隅を左手で持ち、左肩にかけた。右手で持った躯は右肩にかける。部屋に戻ったらいい気分で煙草を吸えそうだなんて思っていたら、背後から誰かに「あの!」と元気よく声をかけられた。振り向くと、見覚えのある少年がいた。
「コンドームを売ります!」
 自室の窓から見下ろした、コンドームを販売する頭の捻子が数本抜けていそうな少年だった。
「コンドームを売ります!」
 まだ10代前半ぐらいの無邪気そうな奴だった。白髪混じりの黒髪と泥塗れの半袖Tシャツを見て、「あぁ、こいつは正真正銘の最底辺だな」と再度興奮した。
「コンドームを売ります!」
 大きなリュックサックのショルダーハーネスを両手で握りながら、真っ黒な瞳で何度も同じ言葉を繰り返す。
 可哀想な存在を目の前にすると、より可哀想な思いをさせたくなる。「少し意地悪をしてやろうぜ」と、加虐に飢えた悪魔が囁いた。
「いくら?」
 俺は死体を包んだブルーシートと躯を地面に置きながら、コンドーム売りの少年に尋ねた。
「1箱1000円で、コンドームを売ります! バラなら、1個100円で、コンドームを売ります!」
「そうか」
 俺はズボンのポケットから財布を取り出すと、死体掃除で稼いだ数枚の1000円札を数える振りをした。視界の隅で、コンドーム売りの少年が馬鹿みたいに口を開けているのを捉えた。緑色に濁った水槽の中で、餌を待つ金魚のようだ。1000円札を2枚取り出すと、空腹の小魚はぱくぱくと口を開閉させて、泥濘んだ地面の上をぴちゃぴちゃと跳ねた。最底辺は、底辺の心を豊かにする。自分の一挙一動で、相手の感情を動かすことが出来る。人間玩具だ。
「綺麗な1000円札が2枚もあるな。ラッキー」
 そう言うと、俺は手に取った2枚の1000円札を丁寧に財布に戻した。
「ん? 何見てんだよ。いらねーよ」
 俺はぽかんと口を開けたコンドーム売りの少年を睨み付けながら、彼に見せ付けるように財布をゆっくりとポケットへ仕舞った。初めから「あげない」と断られるより、貰えると思っていた物が手に入らない方が何倍も心に来る。悔しいか? 悲しいか? 憎いか? 殺したいか? 辛いか? さぁ、どんな顔を見させてくれる? 俺がお前に与えた負の感情はどれだ?
「コンドーム、1箱貰える?」
 コンドーム売りの少年の隣に、さらさらの髪をグレーアッシュ色に染めた男がいた。明らかに女受けしそうな甘い顔立ちの、高身長で底辺以上の胸糞最悪人間だった。
「1箱1000円で、コンドームを売ります!」
 コンドーム売りの少年はグレーアッシュの胸糞最悪人間を見上げると、真っ黒な瞳のまま微笑んだ。
 その笑顔を見て、俺は両胸の間を強く押されたような感覚になった。
 コンドーム売りの少年は、リュックサックからぼこぼこに凹んだ黒色の箱を1箱取り出した。グレーアッシュの胸糞最悪人間が彼に2000円札を渡すと、コンドーム売りの少年はラブホに挟まれた路地裏を駆け回った。その姿を見て、グレーアッシュの胸糞最悪人間は笑窪を浮かべて甘い笑みを見せた。
「ちょうど欲しかったからさ、感謝代でプラス1000円」
 一通りはしゃぐとコンドーム売りの少年は、グレーアッシュの胸糞最悪人間にコンドームの入った箱を手渡した。
「1箱2000円でコンドームを売らせてくれて、ありがとうございます!」
 上手く呼吸が出来なくて苦しい。視界が狭くて前が見え辛い。この感覚を知っている。何度も体験してきた。だけど、数日経つと忘るやつだ。嫉妬と自己嫌悪。目の前の光景は、欲しいけど、手に入らないからと諦めて拒絶していたものだ。あれを目にする度、害悪な感情に押し潰されそうになる。
「じゃあ、また」
「また、コンドームを売ります!」
 グレーアッシュの胸糞最悪人間とコンドーム売りの少年の背中が、遠ざかっていく。
「……あぁ……糞……」
 自己嫌悪の最骨頂は、現状の地位があまりにも低い理由が自分にあると自覚する時だ。面倒臭いから、適当に生きてきた。面倒臭いから、湿気の街で暮らしてきた。面倒臭いから、啄で死体掃除屋として働いた。面倒臭いと言って全ての大切なことを捨てて、底辺でいいやと自分を納得させた。その代償が劣等感を弱点にした。自分でこの道を選んだのに、格上に反吐が出るような嫉妬をして、現状に絶望をする。だから、最底辺を見下して、何とか絶望を誤魔化した。目覚める度に体内を侵す希死念慮は、溶かし切れなかった絶望の残り香だ。何とか呼吸を整え、溜まった唾を飲み込んだ。
 薄汚い路地裏には、もう俺しかいなかった。
 どぶの臭いを、不快に感じた。心の中で、誰かが抗っている。欲しいけど、手に入らないからと諦めて拒絶していたもの。それは他者に与えないと、他者から貰えない。自分から何かを成し遂げようと努力しないと、自分から貰えない。生きる上で面倒臭いを中心に置いていては、誰からも貰えない。
 死体入りのブルーシートと躯を持ち直し、俺はラブホに挟まれた路地裏を歩き出した。
 処理爺でもいい。髄でも、コンドーム売りの少年でも、グレーアッシュの胸糞最悪人間でもいい。どうか、どうか……。
「置いてかないでくれ」
 絶望する度、この台詞をよく知る塵屑が呟くのを聞いてきた。それはきっとこれからも、性懲りなく聞き続けるだろう。
 

【登場した湿気の街の住人】

・死体掃除屋、「脊」
・コンドーム売りの少年
・処理爺
・掃除道具屋、「髄」
・グレーアッシュの悪魔

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