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教育哲学者苫野さんの鋭い考察を基に、我が教育哲学を構築! [本・レビュー] 『教育の力』

 

2014年3月第一刷発行
話題の教育哲学者苫野さんが底の底から考えた教育哲学
ほんとうの意味での<よい>教育とは?
苫野さんの考察を基に、私自身の教育哲学を構築!

 苫野さんは1980年生まれで、早稲田大学大学院教育学研究科博士課程を修了され、教育学で博士を取得されています。早稲田大学教育・総合科学学術員助手などを経て、熊本大学教育学部准教授。NHK「ニッポンのジレンマ」の「教育」の回に出演し、「よい」教育とは何かを論じるなど、若手の教育学者として注目されているそうです。

 本書を使用した読書会に参加させていただく機会があり、そのきっかけで本書を読んでみました(スケジュールの関係で読書会はなくなりそうですが、本書と出会えて色々考えられてよかったです)。

 強く同意するところもあれば、私の考えとは真っ向から対立する部分もありましたが、苫野さんの深く鋭い思考があってこそ、私の教育論もよりまとめることができました。

 読んで納得するにしろ、反論するにしろ、一読の価値は十分あると考えます。

それにしても、読書のポテンシャルを実感しました。

 読書を始める前の私であれば、
「教育の第一人者がおっしゃられているのは、こういうことなのか。そうなんだ」
と鵜呑み、あるいはそれをベースにモノゴトを考えていたと思われます。

 しかしながら、私の教育論をみて第三者がどのように評価されるかは別として(妥当性はあるのか、説得力はあるのか)、どなたかの発言かは置いておき、まず内容の理解に努めた後、自分なりの意見の構築を試みることができるようになりました。

 まず、苫野さんの本書でのポイントをいくつかピックアップさせていただきます。

p.20 "わたしたちは、自分が<自由>になるためには、他者の<自由>もまた、つまり他者もまた<自由>を求めているのだということを、ひとまずお互いに承認し合う必要がある。そうでなければ、わたしたちは互いに自分の<自由>をただナイーヴに主張し合い続けるほかなくなって、いつまでたっても「自由をめぐる闘争」を終わらせることはできないだろう。ヘーゲルはそう主張したのです。
これを<自由の相互承認>の原理といいます。"

 p.22 "<自由の相互承認>の原理が理解されてはじめて、わたしたちは、公教育がいったい何のために発明されたのか、理解することができるようになります。
 社会を<自由の相互承認>の原理に基づいてつくっていくこと。これだけが、「普遍闘争状態」を終わらせ、わたしたち一人ひとりの<自由>をできるだけ十分に達成させることができる根本条件でした。”

p.24 "公教育とは何か。以上からわたしはその答えを次のように定式化しています。すなわち、「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の、<教養=力能>を通した実質化」。つまり公教育は、すべての子どもに、<自由>に生きるための”力”を育むことを保障するものであると同時に、社会における<自由の相互承認>の土台となるべきものなのです。"

 苫野さんの教育論に対して、私個人としては、そもそもこの『原理』が最もしっくりこないものでした。

何故なら、現代社会は決して『自由』ではないと考えるからです。

 しかも、この原理に則れば、『自由のない社会』では教育が成り立たないことになってしまいます。

 苫野さんは順風満帆な人生をエリートとして歩まれたという印象です。また、学校教育に携わってらっしゃることから、『教育』の視点が『学校教育』重視となってしまっている印象を持ちました。

 それでも、現代の日本社会は、一般大衆にとってかつてないほどの『自由』が存在するのは私も異論はありません。

 私の中では、『自由』というのは、必然として生まれて来たものでもなく、偶然の中で、啓蒙された大衆が勝ち取って来たものという認識です。

 かつては宗教的リーダーや国王によって国々は統治されていました。エリートのみが、特定の言語を読み書きすることができ、知識や情報も特別な言語によって独占・管理が可能でした。

 それが、大航海時代によって新世界が発見されたこと(各宗教における創造を中心とした価値観のゆらぎ)、科学技術の発展および科学的思考(仮説→実験→検証)の確立、活版印刷技術の進化(市場拡大の目的として読者を増やすために、平易な大衆言語で書かれた書物の出現)などによって、一般大衆の啓蒙化が起こりました。

民衆の啓蒙→民衆の教育水準の向上→一部の特権階級への反発→自由化運動

 この辺りはベネディクト・アンダーソン著『想像の共同体』から受け売りですが、ナショナリズムの出現はアメリカ独立、フランス革命に端を発すると考えますが、日本の『国民主義(ナショナリズム)』については、公定ナショナリズムと呼ばれるものという印象です。

人類の歴史を振り返り
為政者は
『民衆は生産性を高め、国を豊かにする点においては優秀であってほしいが、政治に興味を持ち、為政者に意見する程、賢い存在になっては困る』
と考えがちというのが私の印象です。

最近の日本政府を見てても感じますが、『日本国民の総意』と『日本政府の見解』の間に乖離がみられます。これは『日本政府=日本国民の代表』であることは確かですが、『日本政府の利益や関心=日本国民の利益や関心』ではなく『日本政府の利益や関心=為政者の利益や関心』となっているためと考えます。つまり、その権威や立場を維持する上で、国民の総意は必要ですが、一たび政権を担ってしまえば、その関心事は国民全体の総意には向いていないわけです。

 本書でも、国のためか、子どものためかという二項対立についての言及がありますが、そもそも『国のため』とするなら『国とは何か』という問いも重要課題となってきます。

 とはいえ、自由の相互承認が必要というのは私も同意です。ただし、自由の相互承認は、自分や他人の自由を約束するものではありません。一人だけでなく複数の人間が暮らす社会において、誰もが好き勝手にやってしまうと、争いや犯罪が横行し、誰もが安心して暮らすことができません。そのため必要最低限のルールをつくることで、『不自由ながらも、無法状態より安心な世の中』を形成するわけです。

 ここで問題が生じます。『自由の度合い』についてです。

ドラえもんにでてくる、ジャイアン、スネ夫、のび太。社会の縮図として非常によくできたキャラクター設定だと思います。

ジャイアン:すきあらば暴力も使い自分の利益を最大化
のび太:基本的には争いを好まず、抵抗も乏しい
すねお:長いものには巻かれる。同調圧力に弱い。いじめの最大要因とも考えられる。

同じルールを決めるにしても
ジャイアンとスネ夫
のび太とスネ夫
の間で取り交わされる内容は異なる可能性が非常に大きいと考えられます。

例えば、一つの部屋を二人で共有するとして
ジャイアンとスネ夫だと2:1
ジャイアンとのび太だと3:1
スネ夫とのび太だと1.5:1と、力関係によってその割合が変わっても特に驚かないでしょう。

つまり『自由度』について公平性がない以上、各人の自由を原理とすることは危険と考えます。

私としては、より多くの人間が『平等かつ公平に自由を謳歌出来る』よう、相互に努力・改善に努める。そんな社会を作ろうとする人達を育てる教育内容であってほしいと考えます。

さて、では私にとっての教育の原理とは何かと問われれば

『巨人の肩に乗る』です。

へまい部屋で、スーパーボールを投げつけると、あちこちとんでも結局遠くには飛びません。与えられたエネルギーが消費されたら、結局へまい部屋で止まったままとなります。

ここで広いところに出て、方向をつけてあげることで、ボールは大きく飛んでいきます。

方向が正しいとは限りません。間違った方向付けを行ってしまうかもしれません。

よくも悪くも、方向付けるのが『教育』だと考えるのが私の『原理』です。

『原理』としてもう一つ大切な要素と考えるのが、リチャード・ドーキンス博士が提唱するミームという考え方です。

ジーニアス大和英インデックスによるとミームとは『模倣を通じて人間の脳から脳へ伝達・増殖する仮想の遺伝子』と記載されています。『もう一つ』と述べましたが、実は『ミーム』と『巨人の肩に乗る』は同じことだと考えます。

ドーキンス博士の『利己的な遺伝子』の中でタカ・ハトゲームとよばれる概念が紹介されています。ここではタカをジャイアン、ハトをのび太と置き換えてみましょう。
ジャイアンはいつも攻撃によって、相手から奪う利益を最大化させようと試みます。ジャイアンとジャイアンが出会えば、お互いがお互いを攻撃しあいます。うまくいけば利益総取りですが、負けると大けがあるいは命を落としてしまうかもしれません。

かたやのび太は争いをさけようとします。このままだと利益を得られるようには思えません。しかしながら、ジャイアン同士がつぶしあえば、生き残ったのびたが、結果として利益を得られる可能性が存在します。

このような観点からみれば、優しさや正義の心、道徳心というものも、絶対的なものではなく、生存競争における戦略の一つと考えることができます。

「バカなことをいうな!優しさや正義の心、道徳心は絶対的なもので、そんな打算的であいまいなものではありえない!」と思われるかもしれません。

おっしゃられる通りかもしれません。私には他人の気持ちを完全に知る事は出来ず、私の心や、精神活動から推測するしかありません。

しかしながら、それでも歴史や社会を見渡すと『正義や道徳心=絶対的なものではなく、生存競争における戦略の一つ』と考える方が矛盾が少ないのです。

『正当防衛』という概念が存在します。相手に自分の命が脅かされた場合、防衛のために相手の命を奪うことになっても、その罪は自分から危害を加えて場合とは明らかに異なると考える方が自然です。

船が転覆し、助かるには救命ボートに乗り込むしかないとします。現時点で生存者は11人いますが、ボートには10人しか乗れません。どのような方法をとるにせよ、生存者の10人が1人の犠牲の上に生存したとして、その状況を責めることは難しいでしょう。

仮に正義や道徳心が絶対的なものであれば、結果がどうこう考える前に、人を傷つけてはいけない、人を殺めてはいけないという絶対的な条件が存在することになります。

遺伝子情報の観点からすれば、自分の命を犠牲にしてまで他人を救うことを優先する人の遺伝子は、次世代に残りづらくなりやすくなります。

一方、他人を犠牲にしてでも、自分の利益を最大限にしようとする人間は、結果的に子どもを残すことで、遺伝子情報を次世代に残しやすくなります。

ではジャイアンばかりで、のび太は残れないのでしょうか?ここで生存戦略としての『信頼』や『ルール』という概念が出てきます。

誰もが好き勝手に暮らしていれば、安心して生活することができません。ルールを作り、お互いがお互いの安全かつそれなりに自由な生活を保障することで、『不自由だけど、ルールが全くない状況よりは安心かつそれなりに自由』な状況が生まれます。ルールをやぶって好き勝手にしようとするジャイアンよりも、いつもルールを守るのび太が『信頼』を勝ち取ることで、のび太もより暮らしやすくなると考えられます。

ジャイアンもルールに従って自分の行動を律することを覚える、あるいはルールを守れないジャイアンにとって社会の居場所がなくなってしまうかもしれません。

かといって『信頼や道徳心は絶対的なものではない生存戦略の一つに過ぎないのだから、そんなものは幻であり、価値がない』というわけではありません。

本来絶対的なものではないと認識した上で、『信頼や道徳心は、誰もが過ごしやすい社会を形成する上で絶対的に必要だ』と考えることも可能です。

私の考え方はまさにここにあります。『信頼や道徳心は、自然に備わった絶対的なものではないという前提のもとに、それでも社会で確固たる信頼を得るために、道徳心を身につけ絶えず向上させる努力が必要』と考えるわけです。

私たちの知識や経験は次世代に遺伝子情報として伝えることはできません(ただし、臓器移植に伴い、記憶も伝達されるという報告もあり、実際には完全にないとは言い切れないかもしれません)。ところが、書物や教育を通じて、経験や知識を次世代に伝えることが可能です。ドーキンスはこの思考・思想的情報伝播をミームという概念により説明しました。

つまり、教育を通じて、私たちの経験や知識を次の世代に伝えるという側面が存在するわけです。

国民性、歴史、宗教感、価値観など、意識する・しないに関わらず、教育を受ける側にとって、教育する側の影響は強く現れます。

ゼロにすることは困難ですが、極力ゼロにすることを目指すことも可能です。あるいは影響力を最大限に発揮させようとすることもできます。

私個人に限っていうと、儒教的教え(全てを取り入れるわけではありません。親が罪をおかした時には、社会より親を優先しろという教えまで取り入れようとは思いません。いいとこどりします)、母国語の大切さ(=思考力の養成)、学問の楽しさなどを取り入れ、それなりの個人色を出しながらの教育を意識します。

本書では、公教育としての制約がいたるところで透けて見えてきました。教育を変えるといっても、国家のシステムの一つでもあり、教育改革といっても容易ではないことが感じられました。

私教育だからこそ目指せる教育というものも存在すると考えられます。

やばいですね。終わらないな。論文でも書くか。

とりあえず私の自論はここまでとして、残ったポイントを引用しておきます。

p.57 "今の小学生は、社会に出る頃、その六、七割が今はまだない職業に就くだろうといわれています。その意味でも、これからの子どもたちは、もはや決められたコースをただいわれるがままに進んでいけばいいというわけではなく、まさに「自ら学び続ける」力が求められるようになっているのです。"

p.58 "現代の公教育がその育成を保障すべき「学力」の本質、それはとどのつまり、「学ぶ―力」のことである。と。教育は、子どもたちに「学ぶ力」を育むことで、その後の長い人生において「自ら学び続ける」ことを可能にする、その土台を築く必要があるのです。先述したように、それは必要な時に必要な知識・情報を的確に”学び取る”、そしてそれをもって自らの課題に立ち向かっていける、そのような”力”のことです。"

p.72 ”「学ぶ力」としての学力を、わたしたちはどうすれば、できるだけすべての子どもたちに十分に育んでいくことができるでしょうか?

 以下、三つのキーワードを軸に論じていきたいと思います。一つは、「学びの個別化」、二つめは「学びの協同化」(協同的な学び)、そして三つめは「学びのプロジェクト化」(プロジェクト型の学び)です。”

p.193 "信頼されなければされないほど、子どもたちは反抗心を強め、大人への信頼を失っていくものです。そして何より、自分への信頼を失っていく・・・。

 しかし不思議なことに、親や教師に信頼されたなら、子どもたちは多くの場合、その信頼を裏切りたくないと思うものなのです。その信頼に、応えたい、応えうる人間になりたいと、自らを成長させていくものなのです。子どもたち、特に幼い子どもたちにまず必要なもの、それは何をおいても、まずは「信頼・承認」の空間なのです。"

p.200 "教育の使命は、むしろ子どもたちのさまざまな”失敗”を容認し、やり直しの機会をサポートし、そのことによって、より<自由>に、つまり生きたいように生きられるための力能を、長い時間をかけて育むことにあるはずです。

 月並みですが、わたしたちは”失敗”から学ぶのです。教育はこの”失敗”を思う存分に経験できる現場であるべきです。”失敗”から学ぶことを、奨励しまた支えることのできる場であるべきです。そして先述したように、そのような忍耐を持って子どもたちの成長を信頼できる教師を支え育てるためにこそ、「忍耐強い信頼」は、保護者や地域の人たち、そしてまた教育行政に携わる人たちなど、周囲の人たちにとっても重要な資質であるはずなのです。"

p.229 ”わたしたちの社会には、絶対的な正解のない、きわめて複雑な問題が山積しています。それゆえこれからの世代の若者たちにますます必要になってくるのは、それぞれの意見を考え合わせた上で、できるだけ皆が納得できる建設的な「第三のアイデア」を見出せる力です。「あちらかこちらか」で争うのでも、「正しいことなんて何もない」で済ませるのでもなく、どうすれば相互に「共通了解」を得られる考えを見出し合っていけるかと考えること。そのような思考の力こそ、これからの教育が育むべき<教養=力能>といえるのではないか、わたしはそう考えています。”

 原理は完全に対立するものでしたが、実際の内容等は概ね賛同するものでした。

 

 ただし、苫野さんはエリートの教育者だからと考えますが、本書を通して強く抱いた違和感があります。

 それが『教育する者』と『教育される者』の二項対立です。

 『学び続ける必要性』、『予測不可能な社会の中で、問題を抽出し、解決策を見出していく態度』等は次の世代の子どもたちだけでなく、私たち自身にも求められるものです。

 今の政府にも感じるところがあるのですが、「私たちには具体的な方法はわからないが、次の世代でなんとか見つけろ」的な印象を受けてしまいます。

 未熟で、未だ成長過程にある私など、20年前、10年前、いや2年前と比べても、圧倒的に今の方が多くのことを学んでいます。

 教師の方々からすると『教師じゃないからそんな勝手なことが言えるんだ』といわれてしまうかもしれませんが、「自分の背中で語る」部分がもう少しあっていいんじゃないかなというのが実際の所です(おそらく、本書から私が感じられないだけだと思われます)。

 対立する部分も多く、新たに取り入れるところは多くありませんでしたが、私自身の考えをまとめる上で、非常に参考になりました。

 私個人としては収穫大でした。

 やっぱり私なりに教育に携わりたい!と改めて思いました。

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