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『ルックバック』を語りたい~『ルックバック』は「創作者」だけの専売特許ではない、万人に刺さる名作だ~

1 私の『ルックバック』との出会い


 現在劇場映画『ルックバック』が上映されており、私も先日映画館で観に行った。久しぶりにとても良い映画を見たと思ったので衝動的に『ルックバック』の感想なり評論なりしたいと思いnoteを開いた。だが、色々脳内なり感情なりがグジャグジャとして整理がつかないので、書きながら色々自分の気持ちや感情を整理しつつこの投稿を書き進めたいと思う。出来るなら映画を観て生じた「情熱」が変に冷めてしまわないうちにこの投稿を書き上げてしまいたい。

 私は『ルックバック』自体は数年前にその存在を知っていた。『チェンソーマン』『ファイアパンチ』といった漫画をすでに世に生み出している藤本タツキ先生の当時の新作読み切り作品だったからである。『チェンソーマン』1部の週刊少年ジャンプでの連載が終了し、『チェンソーマン』2部が「ジャンプ+」にて連載開始する前の2021年7月に『ルックバック』は「ジャンプ+」で掲載され、同年9月には単行本化されている。私は元々『チェンソーマン』や『ファイアパンチ』を好きで読んでいたので、これらの作品で一世を風靡した藤本タツキ先生の読み切りがどんなものか楽しみにしていた。単行本派だったので、『ルックバック』が最初に「ジャンプ+」で掲載された際に「精神障害者への差別を助長する」といったネットの意見により表現が一部修正されるといった「事件」も起こったのだが、そうした細かい事情に詳しく関わることのないまま単行本を読んだ。藤野が雨の降る中で踊るように全身で喜びを表現している見開きの頁を見たときはやはり紙の本で読むに限るとも思ったものである。その後の結末は悲しいものになってしまったけれど、それでも読後感はすっきりとした気分になる、私にとってはそんな作品であった。

 で、そんな原作漫画が3年の時を経て劇場アニメ映画化されるという。しかも特別料金一律1700円。いつ、どの時間帯で観てもサービス料金とか細かい計算を考えることも気にすることもなく空いてる時間に観にいけると思った(実際観に行った時はかなりの席が埋まっていたので、唯一空いていた最前列で観た。結果的にオールオッケーだったが)。何より、事実上の上映時間は1時間を切っている。拘束時間が短いのはありがたいとも思った。昨今はコスパ・タイパが重視され、映画は拘束時間と料金との兼ね合いからコスパ・タイパがあまりよろしくないコンテンツとみなされがちだが、『ルック・バック』はこうした消極的な意見を跳ね返せるだけの時間的・経済的優位性があるだろうと感じた。そういうわけで、なんとか都合のいい時間を見つけて映画『ルックバック』を観たのである。

 なお、本投稿では『ルックバック』のあらすじを予め紹介することはしない。原作漫画にせよ、映画にせよ、話のボリューム自体は少なめなのでいずれかの媒体を観た方が話が早いからである。ただ、ネタバレはしていく方向で投稿をするので、『ルックバック』未視聴の方は一度ブラウザバックして『ルックバック』を観てもらった上で、本投稿を読むことをお勧めする。

2 映画『ルックバック』を観た率直かつ正直な感想


 最初に思った感想は、「藤本タツキの絵が動いてる!」だった。何を当たり前のことを言っていると思うかもしれないが、漫画原作作品がアニメ化される際は、原作漫画の絵柄が良くも悪くも「綺麗に」なっているものだからである。これは、アニメ作品は複数の人が各作業工程で関わるものだから、どんな立場の人でも共通の完成イメージを保てるように一定のブラッシュアップがなされるためである。しかし、映画『ルックバック』は極力原作の藤本タツキ先生の作画の持ち味を活かし続ける工夫を最後まで貫いていた。それでいて、映画のオリジナリティ部分も良い味を出していた。冒頭の4コマ漫画がそのまま画面に映されて終わるだけではなく、短いストーリー漫画のように話が展開されることで原作漫画よりも話がわかりやすくなっていたように感じた。こうした工夫や気遣いが最後まで続いていくのだからそれだけで原作ファンとしては嬉しいものがある。ありがとう、アニメスタッフさん!感謝が止まらない!そう思わざるを得ない気分であった。

 序章において同級生から4コママンガの上手さを褒められて細やかな承認欲求を満たしていた藤野が京本の画力の高さを知り、自分も画力を上げる特訓をするようになったシーンが原作よりも丁寧に描写されているのが好印象であった。原作漫画の台詞の吹き出しもなく絵だけで場所や季節が移り変わりゆく中で淡々と絵の訓練にひたむきになっている藤野の背中だけが描かれる描写というのも悪くないが、映画版は更にスケッチブックに書かれた絵がどんどん積み重なる描写がより藤野が努力を重ねていることに説得力が増している感じがした。

 そして、序盤の一番の盛り上がりである藤野と京本の初めての邂逅シーンである。引きこもりの京本が思いきって勇気を出して憧れの藤野「先生」に会いに裸足で駆け出す躍動感は原作を越えていると言っても過言ではない。そして、原作とは異なり京本が訛り口調であることもいいアレンジであったように思う。後に藤野と京本がタッグを組んで実際にマンガを完成させてそれが佳作として雑誌に掲載される流れが、中学生達が1本のマンガを描ききったというだけでなく、色々な環境が都会ほど整っていない地方から成り上がってきたという事実を補強しているように思えるからだ。あと、これは個人的な偏見だが、京本は原作よりも丸っこく顔が描かれているようでそこが京本の可愛さに拍車をかけている気がする。京本可愛い。京本最高。あなたも「京本最高」と言いなさい。何より、忘れてはいけないのが、藤野が目標とし、一度は目の敵としていた京本が自分のことを尊敬してくれていて、あまつさえ6年生の途中でマンガを描くのを辞めた理由を「新作マンガの構想を練っているから」と嘘をついたにもかかわらずそれでも藤野の新作を「見たい!読みたい!」と言ってくれたことで、雨の降る中藤野が思わず手足を過剰に動かしてしまうほどに全身でこれまで感じたことのない喜びを表していたシーンがまさに「これが観たかったんだよ、これが!」が詰まっていて最高だった。意外にも原作では見開きも入れて3頁分しか描写されていないシーンであるが、この大事な場面に尺を使ってくれているのは「理解ってるなぁ!」以外の言葉が見つからないほど良かったと言わざるを得ない。あと言い忘れていたから書いておく。「またね!」と言い合うところが最高に可愛い

 時間は進んで中学に進学し、高校に進学しても藤野と京本のふたりはマンガを一緒に描き続けているが、段々と藤野が京本を追い越していく描写が切なくも見事そこを描いたと思わざるを得なかった。原作でも1頁だけ藤野が京本の手を引っ張っている描写はあるが、そこから藤野の成長スピードが京本を追い越していく演出につなげるといった発想はどうやって思いついたのだろう。しかし、これは別に突飛なことではなく、原作の時点で京本は「間に合わなくて毎週載せられない」と言っていたのに対し、藤野は「学校行きながら毎週載せてて本当に同じ小学生なのかと疑うくらい凄くて」と言われており、実際に本格的にマンガを描くようになってから藤野のマンガを描くスピードが更に上がったことは想像するに難くない。こうした細かい描写を見逃すことなく豊かな想像力で補ったのが映画『ルックバック』をより面白くしているポイントの一つだと思う。

 そして、背景美術の魅力に惹かれて美術大学へ進学するために藤野の漫画制作を手伝えないと宣言する京本の決別シーン。藤野は一瞬「京本は背景だけだし、代わりのアシスタントがいるから問題ない」というスタンス(強気な態度)を取ってみせるが、すぐに「美大卒は就職がほとんど無くて大変だし、そもそも引きこもりの京本がコミュニケーションを一人で取らないといけなくなる環境へ進むことになるが大丈夫なのか」と京本の親のような心配をして、あまつさえ「藤野ちゃんに頼らないで一人で生きてみたい」といった京本に対して「そんなの絶対つまんないし!」と強い言葉で否定する姿を見せる。この辺りは京本の意思をなかなか認めようとしない藤野のエゴイスティックな部分だったり、あるいは京本と一緒にマンガを描き続けたいという方便を飾っているのかもしれないなど、藤野の複数の気持ちも表れていると思う。最後には泣きながら「もっと絵…上手くなりたいもん…」という京本の台詞に根負けして藤野は京本の意思を認めることになるのだが、藤野が京本の意思を認めるに至ったのは、藤野自身もかつて「絵が上手くなりたい」と京本の背中を追いかけたからこそ京本が美大に進みたいという気持ちを理解できてしまったからなのかもしれない。

 それから、一人でマンガを描くことになり(実際にはアシスタントも付くけれど)、本格的にプロの漫画家の世界に足を踏み入れることになった藤野の描写も映画版だとよりわかりやすくリアリティのあるシーンへと進化していた。「週刊少年ジャンプ」で連載を続ける中、毎週読者アンケートによって人気の順位がグラフによって表示されたり、作品の人気によって単行本に重版が係り、重版が係る毎に同じ巻数のマンガの単行本が本棚に増えていったりする描写が原作漫画よりもわかり易く表現されていた。と同時に、細やかながらプロの漫画家の過酷な現実も描写されている。そんな厳しいプロの世界で生き残り、あまつさえ連載作品「シャークキック」がアニメ化されるほど人気作になる程の実力ある作家になった藤野は「天才」とも言える(勿論、ここまで見続けてきた読者・視聴者は天性の才能だけではなく幼い頃から努力し続けた結果であるのを理解している言うまでもないと思う)。

 そんな中、非情な現実が襲いかかってくる。京本が進学した山形の美術大に不審者が侵入し学生を殺傷する事件が発生し、京本がその事件の犠牲者の一人となったのだ。この不審者に関する「事件」の変遷については改めて後述する。京本の葬儀のため地元に帰省する藤野。そこで藤野は「京本を外に出さなければ京本は死ぬことはなかったのに、京本が死んだのは私のせいじゃん」と自分を責めることになる(私は「京本が死んだのは藤野のせいじゃないよ!むしろ京本を外に出したのは良いことだよ!悪いのは100億%京本を殺した犯人の方だよ!犯人はとりま100億万回惨たらしく苦しんで死んどけ」と思った。本当に率直な嘘偽り無い感想として)。そして、藤野は「(漫画なんて)描いても何も役にたたないのに」と自暴自棄になり目の前にあったかつて自分が京本のために作った4コマ漫画を破り捨ててしまう。

 すると、京本が破り捨てた4コマ漫画の切れ端がなんとパラレルワールド(あるいは妄想ないし夢の世界)の小学生時代の京本の元に届いてしまう

 ※この辺りの展開がよく分からなかったという(特に初見で)読者・視聴者の方も少なからずいるかもしれない。

 そのパラレルワールドでは京本と藤野は卒業式の日に直接会うことはなく、やがて京本は自分から美術の道を選び結局美大へと進学することになる。そして、この世界でも美大の構内で通り魔と遭遇してしまう。京本の運命もここまでかと思われたが、そこに犯人の背後から「うらア!!」と飛び蹴りを喰らわす藤野の姿がヒーローのように現れる。この辺りでいよいよ今敏監督の映画『パプリカ』や『千年女優』のようだと思った。

 犯人を逮捕することに成功し、改めて無事に出会うことになった藤野と京本。元の世界の小学生時代とは異なり、お互いに大人の対応で「4コマのファンでした!」「ありがと!」と普通のコミュニケーションを取れるようになっていたのにお互いのそれぞれの成長を感じた。改めて京本が「なんで漫画描くのやめちゃったんですか⁉」と問いかけると藤野は「最近また描き始めたよ!連載できたらアシスタントなってね!」と答え、藤野がこの世界でも新作漫画を描いていることを知った京本は自宅でオリジナルの4コマ漫画「背中を見て」を作成する。完成した「背中を見て」は風に揺られて部屋の扉の隙間に入ってしまう。

 すると、元の世界=京本が死んでしまった世界に戻って来て藤野は「背中を見て」を手に取る。それから、意を決して京本の部屋に入ると、そこには藤野の連載作品「シャークキック」のポスターが壁に貼られ「シャークキック」の単行本の重版が係る度に新しく買い直していたり週刊少年ジャンプ本誌のアンケートにも熱心に「シャークキック」に投票したりと、袂を分かった後でも京本は藤野を応援していたことを知る。そして、京本の部屋に飾られていた、かつて小学生だった頃に初めて会った時に着ていた京本の半纏に「藤野歩」と自分の初めてのサインが書かれていたのを見て、藤野はもう一つのことを思い出す。

 「漫画を描くのは凄い大変だからそもそもマンガを描くのは好きではない、漫画は読む方に専念するに限る」と言っていたことを。そして京本から「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」と問われたことを。ここで明確に言葉で答えを発することはない。しかし、そこに映し出されたのは、藤野が描いたネーム(漫画の下書きのようなもの)を世界で最初の読者になる京本が驚いたり、喜んだり、悲しんだり、笑ったりしていたかつての光景。そして、プロの漫画家となった現在では京本だけでなく自分の作品である「シャークキック」の話の続きを待っている無数の読者がいることを思い出す。こうして、藤野は自分の仕事現場に戻り、再び漫画を描くようになる背中を見せつけることで話は終わる。そう。大変な漫画を描くということを何故藤野は続けるのかと言えば、かつてはすぐ側に自分の作品を楽しみにしてくれる京本という読者がいるから、そして現在では京本だけではない無数の読者が自分の作品を待ってくれていることを知ったからだ。

 創作者にとって自分の作品を楽しみに待ってくれる人たちの存在ほどありがたいことはない。たとえどれだけしんどくても、自分の作品を「好きです!」「応援しています!」と言われたからには、作家には不思議な情熱と共に創作意欲が少なからず湧いてくるものなのだ。作家としてのキャリアを積めば、藤野はもしかしたらまた新たな壁にぶつかるかもしれない。しかし、それでも読者がいる限り、藤野は漫画を描くことを辞めることはきっと無いのだろう。そう思わせるエンディングだった。

 総じて、映画『ルックバック』は、原作コミックの良さを存分に引き出した上で映画ならではの工夫(BGM、演出、役者の演技など)も加わって、とても満足度の高い作品になったと思う。

3 『ルックバック』で取り上げられた二つの問題についての考察

 原作漫画の『ルックバック』は「ジャンプ+」で掲載された当初大きな反響を呼んだ。概ね肯定的な意見が多かったが、一部で「精神障害者に対する差別を助長する表現がある」という投稿が現れ、その声に反応するように「ジャンプ+」で表現の修正がなされ、コミック化されると更に修正がなされていた。

 私はこうした『ルックバック』における「表現の修正」の問題と、肯定的な意見の中にあった「創作をしたことがある人には刺さる」という感想について思うことがあったので、以下二つに分けて評論もどきのことをしてみようと思う。

(1)表現の修正

 当初「ジャンプ+」で山形美大通り魔殺人犯が逮捕された報道シーンにおいて犯人の犯行動機が「大学内に飾られている絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」とされていたが、この記載が「記号的な精神障害者の描写であり精神障害者に対する差別を助長する」という批判にさらされることになった。この結果を受けて、後日「ジャンプ+」で同じジーンについて「(襲うのは)誰でもよかった」という供述に変更されている。さらに、単行本化や映画化の際には犯行動機は「ネットに公開していた絵をパクられた」というように変わっている。個人的には単行本や映画版の方が犯人の動機がわかりやすくなっていて良いのではないかと思うのだが、これはこれで「京都アニメーション放火事件を想起させよろしくない」という感想が出てきても不思議ではないと思っている。

 ネットでの感想・評論などを漁った限りでしかないのだが、『ルックバック』で描かれている山形美大通り魔殺人事件は現実に起こった「京都アニメーション放火殺人事件」(以下、「京アニ事件」)をモチーフにしたのではないか、という噂がある。私が藤本タツキ先生のインタビュー記事なんかを見た限りではそのような事実は確認できなかった(どちらかといえば『ルックバック』は東日本大震災に対する自分の無力感を作品にぶつけていたと語られていた)。しかし、「京アニ事件」を想起する読者・視聴者がいたとしても不思議ではないし、それ自体が悪いということもないと思っている。原作の藤本タツキ先生が京アニ事件についてどのような思いを抱いているのか真意は定かではないが、少なくとも『ルックバック』の描写から事件の当事者や被害者を傷つけようとしたり嘲笑ったりしようなどという悪意のある意図は見受けられないから、現状の『ルックバック』の表現内容について「○○事件を想起させるから良くない」という意見は(仮にあったとしても)説得力はさほどないように思う。むしろ、凄惨な事件を風化させないように『ルックバック』の描写から「京アニ事件」のことを読み取れるというのは作品として優れていると評価できるのではないかと思う。そうでなければ、明らかに東日本大震災をテーマに描かれている『シン・ゴジラ』『すずめの戸締まり』といった作品が高い評価を得られていないと思うからだ。

 「芸術表現やエンタメ作品の描写はどこまで社会に配慮すべきか」というテーマはそう簡単に答えが出る問題ではない、むしろ永遠と答えの出ないテーマではあるが、少なくとも社会問題を受け手に想起させることの出来る作品には一定の「力」がある、それはすなわち作品としての魅力があるということではないだろうかと私は考えている。

(2)「創作をしたことがある人には刺さる」という評価

  インターネット上における『ルックバック』の肯定的な評価の一つに「創作に携わったことのある人には絶対刺さる作品」というものがあった。ここでいう創作とは、マンガや絵画だけでなく、小説やアニメ映画や舞台一次創作や二次創作などを問わず幅広い分野で何か今までこの世に無かったものを生み出そうとしている人たちには、確かに間違いなく「刺さる」すなわち何かしら心に感じ入るものがあるだろうということに疑問を挟む余地はない。

 ただ、私がここで疑問に思ったのは「普段そうした創作活動に従事していない、読者や視聴者、もっと言ってしまえば消費者側にいる人間には『ルックバック』という作品は刺さらないのだろうか」ということである。

 結論を言ってしまえば「そんなことはない」ということになる。『ルックバック』で描かれているのは、偶々「絵」や「マンガ」がモチーフとして取り上げられているだけで、スポーツや勉強、研究や仕事などの分野でも置き換えることは可能だと思う。すなわち、「自分の技量の足りなさを自覚させられ、上には上がいることを知る」という、人間が生きて成長する上で必ずぶつかる普遍的な現実が存在する以上、創作活動の有無に関係なく『ルックバック』には普遍的な魅力があると言いたいのである。

 もちろん、「創作活動をしている・したことのある人に『ルックバック』が刺さる」という事実を否定したいわけではない。ただ、刺さる対象は思いの外広いのだということをここで知らしめたいのである。

4 『ルックバック』が好きならばこれらの作品も薦めたい~「脳を揺らせ!」~


 ここからは私の余計なお節介である。『ルックバック』は「創作論・芸術論」に重点を当てて鑑賞する見方もあれば、藤野と京本の間の「特別な人間関係」に重点を置いて鑑賞する見方と主に二通りの見方があるのではないかと思われる。そこで、「創作・芸術論」をより深めるのに役立つ作品と、「特別な人間関係」に重点を置いた作品を紹介していこうと思う。

※★印がある作品は、私が特に強く勧めたいと思った作品である。

★(1)『ジャンケットバンク』田中一行著、集英社ヤングジャンプコミックス

 一言で言えば「銀行を舞台にしたギャンブル漫画」である。現時点で最新刊の単行本15巻の帯には「キャラクターに沼るギャンブルマンガNo.1‼」というあおり文が掲載されているが、まさにその通りである。このマンガに登場する人物は大抵初登場時にはイヤミなキャラクターだったり、やばい雰囲気を纏っていたりとお近づきになりたくないオーラを放っているものだが、主人公(陣営)のギャンブラーと対峙して初めてその奥深い為人が理解できるようになり、再登場した際にはお茶目な一面をふんだんに見せてくれるようになる(特に単行本書き下ろしのオマケマンガによく見られる現象である)。成人男性が多く出てくるが、ギャンブラー同士(特に「マフツフレンズ」と呼ばれる人たち)の仲が良い時の雰囲気は「ヤンジャン版まんがタイムきらら」と言っても過言ではない。一方で、ギャンブルをしているときはギャンブラーは全員命がけでゲームに臨んでいる(そのギャップがまた面白いと言える)。

 そして、『ルックバック』を踏まえると特に印象的に写る登場人物が一人いる。それは漆原伊月(ウルシバライツキ)という弁護士である(14巻から登場する)。彼は同級生の牙頭猛晴(ガトウタケハル)とコンビを組んで、主人公陣営のギャンブラーである村雨礼二(ムラサメレイジ)天堂弓彦(テンドウユミヒコ)のコンビとギャンブル対決をする。漆原伊月は学生時代から学業成績優秀であるが、模試では常に2位であった。1位は毎回N高の上杉拓也という人物で漆原はこの上杉に勝って首席で第一志望の大学に合格することを目標に努力を続けていた。しかし、現実は予想外の形で漆原に降りかかる。

「上杉は、試験を受けてなかったんだ。僕は、不戦勝だった。
~新聞記事~
飲酒者 受験生に衝突
飲酒運転に巻き込まれ死亡
 受験会場に向かう途中だった

  上杉拓也さん(18)=遺族提供
~新聞記事(終)~
「アイツの人生も、僕の努力も、バカが酒飲んでドライブしたせいで無意味になった。なんだか、くじびきみたいだ
(中略)
「理由がないんだ。善人が死ぬのも悪人が助かるのも」
「…クソばっかりだ。また僕はクソを無罪にした」
人生はくじ引きで、誰にも価値なんてない

『ジャンケットバンク』15巻第147話「乗りこなす世界」

 自分が目標としていた相手が不条理な事故で亡くなってしまい、結果的に自分が一番になってしまったことで悲観主義的な思考に陥ってしまった漆原の姿は、京本が理不尽に殺されたことを知ったショックで自身の連載作品を休載し「なんで(マンガを)描いたんだろ」と自分を責める藤野の姿に重なるものがある。『ルックバック』では再び藤野はマンガを描き始める姿を読者・視聴者に見せることになるのだが、漆原はこれからどうなるのか。単行本派の人は是非その結末を見届けて欲しい。

 ちなみに、『ジャンケットバンク』には序盤で雛形春人(ヒナガタハルト)という画家のギャンブラーが登場する。彼との勝負の決着が付いた前後あたりから『ジャンケットバンク』の人気が上昇した気がする(決着の付き方とそれに対する登場人物のリアクションがあまりにも秀逸すぎたためと思われる)。そして、この雛形との勝負の後で幕間という形で始まった「オーバーキル編」で主人公の真経津 晨(まふつ しん)と以前闘ったギャンブラー達が再登場することになり、どんどん彼らがあざとい姿を見せるようになったのも作品の人気に拍車をかけたと言える。

 そういうわけで、いの一番に『ジャンケットバンク』を勧めることになった。原作『ルックバック』と同じ集英社の作品なので、「友情・努力・勝利」的なエッセンスも含まれている。

(2)劇場版『屍者の帝国』原作:伊藤計劃・円城塔

 原作小説ではなく劇場版をここで勧めるのは、原作小説よりも話が簡易に整理されて観やすくなっており、主人公のワトソンとフライデーの関係も主従関係から友人関係へと変わっている点も観やすさに貢献しているからである。そして、主要登場人物が作者、あるいは読者・視聴者のメタファーになっていることが劇場版『屍者の帝国』の特徴であると私は考えている。主人公のワトソン=円城塔=読者・視聴者であるのに対し、屍者のフライデー=伊藤計劃であるという構図である(原作者の一人である伊藤計劃は既に亡くなっている)。そう思わせるだけの劇場版のオリジナルの台詞がある。

「ただ君にもう一度会いたかった!聞かせて欲しかった、君の言葉の続きを!」

劇場版『屍者の帝国』

 『ルックバック』で京本が亡くなった後、残された藤野は漫画の道に京本を誘ったことに自責の念に捕らわれていたが、もしパラレルワールド(あるいは夢の世界)で京本が生きていることを知ったら藤野はその世界の京本になんと言葉をかけるのだろうか。そう思ったとき、上述の『屍者の帝国』で引用したワトソンの台詞が思い浮かんだ。藤野と京本の二人の普通の友情を越えた人間関係が好きならば、この劇場版『屍者の帝国』で描かれるワトソンとフライデーの関係性にも何か強く感じ入るものがあるはずだ。なお、『ルックバック』では現実の藤野は亡くなった京本の「言葉」の代わりに「背中」を見ることになるのだが。

★(3)『虫と歌 市川春子作品集』『25時のバカンス 市川春子作品集Ⅱ』『宝石の国』市川春子原作、講談社アフタヌーンKC

 2017年にアニメ化された人気作『宝石の国』の原作である市川春子先生の読み切り作品を収録した単行本(『虫と歌』『25時のバカンス』)である。『宝石の国』でも描かれているが、市川春子先生は独特な人間関係を描くのが上手い作家の一人である。時には人間ではない存在(『宝石の国』に描かれている「宝石達」がまさにそう)をテーマに描くからこそ逆説的にその人間性が浮かび上がる作品も数多く存在する。そして、市川春子先生の読み切り作品にはそのエッセンスが凝縮されているので読み応え抜群である。『ルックバック』で藤野と京本の関係性が好きなのであれば、市川春子先生の描く作品で描写される関係性もとても強く刺さることだろう。

 個人的にお勧めするのは、『虫と歌』に収録されている作品であれば「日下(くさか)兄妹」『25時のバカンス』に収録されている作品であれば表題にもなっている「25時のバカンス」(前・後編がある)「月の葬式」である。これらの作品は「特別に強い人間関係」あるいは「奇妙な縁で結ばれた人間関係」が描かれている。彼ら・彼女らは『ルックバック』のように創作活動に打ち込むわけではないが、それぞれの話に市川春子先生らしいオリジナリティとユーモアがあって、その結末を見届けずにはいられなくなる。

 市川春子先生のこれら読み切り作品が気に入ったのであれば、是非とも市川春子先生の連載作品である『宝石の国』にも手を出して欲しい。ただ、『宝石の国』は上述の読み切り作品と比べても登場人物が多くその分話も複雑になってくるのに加えて、何人かのキャラクターは正直白黒印刷ではなかなか見分けが付かないこともしばしばあるので、アニメ版の『宝石の国』から入るのも良いと思っている。

 アニメ版『宝石の国』は「オレンジ」という製作会社が携わっており、全編3DCGでキャラクターが描かれていることに特徴がある。3Dアニメに拒否感を抱いている人もいることを認知しているが、アニメ『宝石の国』においてそのような食わず嫌いをするのはもったいないと思っている。そもそも『宝石の国』の主な登場人物達は「鉱石生命体」であり、我々人間とは生物学的な性質から違うのだ。そうした独特な質感を再現するためには、むしろ3DCGアニメこそ理にかなっているといえる。3DCGで動く宝石達はいっそ「芸術的」と言っても過言ではないだろう。現実世界で装飾品として人間達に愛でられている存在が意思を持ち自由に駆け回るとしたらその美しさはどれ程のものか。その美しさを体験できるのがアニメ『宝石の国』である。きっと初めてアニメ『宝石の国』を体験すれば、初めて京本の絵の上手さを知った藤野のような顔になることは間違いないだろう。

 アニメにせよ原作にせよ『宝石の国』の魅力の一つとして、キャラクターの独特な関係性が上げられると思う。私が個人的に注目しているのは「ダイヤモンド」と「ボルツ」の関係性だ。二人は兄弟的な存在だが、弟であるボルツの方が戦闘能力が高く、兄的存在(それにしては可愛すぎる)であるダイヤモンドはボルツに対してコンプレックスを抱いており愛憎入り交じった複雑な感情をずっと抱き続けている(アニメ化範囲の話だとまだ愛情多めか)。この「ダイヤモンドとボルツ」の関係性が好きな人であれば『鬼滅の刃』での「黒死牟と縁壱」の関係性(劇場版『鬼滅の刃』「無限城編」のネタバレ)や劇場版『Fate/Stay night HF』での「間桐慎二と間桐桜」との関係性あるいは「間桐慎二と衛宮士郎」との関係性が深く刺さるはずだと思っている。

 話がいささかズレてしまった気がするが、とにかく『ルックバック』や他の藤本タツキ先生の作品だけでなく、「市川春子先生の作品もオススメだぞ」ということを伝えたかったのである。

(4)劇場総集編『ぼっち・ざ・ろっく!Re:』

 テレビ放映版でも良いのだが、私は劇場総集編の方を観たので劇場版を勧めることにした。とにかく、『ぼっち・ざ・ろっく!』を観てくれればいいのである。原作は4コママンガであり当然音声が流れてこないから、アニメ版の『ぼっち・ざ・ろっく!』の方が楽曲をバンドで演奏することの意義が一番よく表現されると思うので、テレビアニメか劇場での視聴・鑑賞をお勧めするのである。
 
 こうした『ぼっち・ざ・ろっく!』と『ルックバック』に類似性があるとみたのは、『ぼっち・ざ・ろっく!』で主人公の後藤ひとり(以下、「ぼっちちゃん」)がよく言われている「なんのためにギターを弾いているの?」という質問とそれに対する答えの本質が、『ルックバック』のラストで京本が藤野に「(マンガを描くのは凄い大変だと言うのに)じゃあ藤野ちゃんは何で描いてるの?」と質問しているのに対して読者・視聴者に対して見せた背中が物語っていることと同じだと思ったからである。

 元々ぼっちちゃんがギターを始めたのは「承認欲求を満たすため」という自分本位のものであった(それ自体は別に悪いことでは全然ないし、ぼっちちゃんはそのために努力と結果も残している)。それがバンドを組むようになって今まで一人で演奏していたのを誰かと一緒に演奏するようになり、何より直接自分の演奏を生で聴いてくれるファンが出来るようになったことで、やがてぼっちちゃんのギターを弾く動機が「バンドメンバーと一緒に成功したい」「目の前の自分の演奏を聴いてくれるファンの人を喜ばせたい・楽しませたい」といったものに変わっていく。この変化の心境は、『ルックバック』冒頭で4コママンガを描くことで同級生からささやかな承認欲求を満たしていた藤野が京本から影響を受けて自分の画力を上げるために必死で絵の練習をし、やがてその京本から自分のファンであることを告げられて本当の意味で自尊心が満たされるようになり、プロになってからは京本を含めたファンを喜ばせるためにマンガを描くようになった藤野の姿と重なる

 『ぼっち・ざ・ろっく!』では死人の出ない平和な世界ではあるが、決して甘いことだけではない。バンドとして活動するためのチケットノルマをこなすなど、最低限度の大変なことは確実に存在する。こうした大変さも描くリアリティは『ルックバック』の読者・視聴者にも伝わるのではないだろうか。そういうわけで、『ルックバック』と『ぼっち・ざ・ろっく!』にも親和性があると布教してみるのである。
 

★(5)『双亡亭壊すべし』藤田和日郎著、小学館週刊少年サンデーコミックス全25巻

 『うしおととら』『からくりサーカス』で有名な藤田和日郎先生の長編作品である。〈双亡亭〉という幽霊屋敷(実は地球侵略を企む宇宙人の巣窟)と化した大正時代の芸術家のアトリエを破壊するというストーリーであるが、その物語の主人公は「絵本作家志望の美大卒の青年」である。その主人公は名を「凧葉務(たこはつとむ)」という。彼は〈双亡亭〉の隣のボロアパートで絵本作家となるために作品を出版社に持ち込むが「作品が大衆向きでない」という理由でボツを喰らう。ここだけを見ると「美術大を卒業しても就職先が全然ない」と『ルックバック』でも一瞬だけ語られた非情な現実の一端を垣間見れるようである。しかし、凧葉は〈双亡亭〉の隣に引っ越してきた緑朗(ろくろう)という少年と知り合い、緑朗に自分の作品を初めて見てもらったことで不思議と元気をもらっていた。そして、凧葉は内心で「今まで絵本作家として絵を描いてきたのに肝心の子供に絵を見てもらったことがなかった」ことを反省する。

 その後、内閣総理大臣と防衛大臣の指揮の下〈双亡亭〉を空爆するも微動だにしない〈双亡亭〉の姿を見て、内閣総理大臣は〈双亡亭〉を破壊するためのスペシャリストを集めることになった。霊能力者、超能力者、科学者、自衛隊など色々な人材が投入される中、凧葉は〈双亡亭〉の隣に住んでいたことから〈双亡亭〉の地形に詳しいだろうということで〈双亡亭〉破壊チームの一員として加わる。そして、凧葉は〈双亡亭〉の主である芸術家の坂巻泥努(さかまきでいど)に出会う。体内に地球侵略を企む宇宙人を飼い殺し状態にして使役している泥努は、凧葉との交流を経て穏便に諸々の事件を解決しようとしたのだが、凧葉の先祖が泥努の因縁の相手であったと知って泥努は激昂し、急遽人類存亡の危機が訪れる。こうして、凧葉と泥努による人類存亡をかけた「絵描き対決」が始まる。

※『双亡亭壊すべし』を読んだことのない人は私が何を言っているのかわからないと思うが、ギリギリ核心のネタバレを極力話さないように『双亡亭壊すべし』の話をしようとするとこうなってしまうのだ!

 『ルックバック』を読み、あるいは鑑賞して京本の「芸術方面の進路に進みたい、もっと絵が上手くなりたい」という気持ちに共感したのならば、この『双亡亭壊すべし』という作品は、特に坂巻泥努が登場し凧葉と芸術論を交わすようになってくると(特に最終巻である25巻は)とても味わい深く感じることだろう。芸術論を抜きにしても、〈双亡亭〉という場所は侵入者のトラウマを呼び起こす仕掛けがあるのだが、登場人物達がどのようにそのトラウマを乗り越えるかというのも『双亡亭壊すべし』という作品の魅力の一つだ。藤田和日郎先生の描く「人間賛歌」をじっくり味わって欲しい。特に藤田和日郎作品に登場する老人は色々な意味で魅力的である。

 『ルックバック』を踏まえて『双亡亭壊すべし』の魅力をあえて一つ伝えるとするならば。それは、『双亡亭壊すべし』の中では創作、とりわけ芸術の目的とは「今までの常識みたいなのを越えて、見るヒトをびっくりさせること」=「脳を揺らすこと」とされているということだ。『ルックバック』を観て「脳が揺れた」と感じたのであれば、きっと『双亡亭壊すべし』を読んでも「脳が揺れる」はずだ。あなたにはこれからの人生で様々な「脳が揺れる」体験をして欲しいと願っている。

(6)『【推しの子】』赤坂アカ原作・横槍メンゴ作画、集英社ヤングジャンプコミックス

 人気絶頂のアイドル「星野アイ」の双子の兄弟「アクア」「ルビー」が芸能界に足を踏み入れ様々な奮闘をする、というのがざっくりとした作品紹介である。現在アニメ2期も放映されているほどの現代を代表する人気作品であるので、わざわざ詳細なストーリー紹介をすることは控える。

 『【推しの子】』ではマンガ原作のドラマ製作マンガ原作の2.5次元舞台恋愛リアリティーショーYoutube等SNSを通じたアイドル活動など多岐にわたる。『ルックバック』は漫画や絵画に限定された創作をテーマにした作品であるが、それ以外の分野の創作の裏側までエンタメとして味わうには『【推しの子】』はうってつけであると言える。

 先程『ルックバック』の考察において「芸術表現やエンタメ作品の描写はどこまで社会に配慮すべきか」という問題提起をしたが、奇しくもこの『【推しの子】』においても同様の問題が起こっている。『【推しの子】』の「恋愛リアリティーショー編」において番組出演者の一人である黒川あかねがネットで炎上し、そのことにショックを受けた黒川あかねが自殺未遂をするという展開が描かれるのだが、現実でもほぼ同じタイミングで恋愛リアリティーショーの出演者が自殺する事件が起こり、出演者の遺族が『【推しの子】』に対して批判的な声明をあげた後、『【推しの子】』のファンサイドが当該遺族に対して誹謗中傷とも取れる意見をぶつけたりした事件が起こった。原作の赤坂アカ先生は「恋愛リアリティーショー編の展開は連載開始前のプロットから考えていたことであり、連載中に同様の事件が起こってしまったことは不幸なアクシデントである」と本件事件との関連を否定しているが、アニメ第1期で恋愛リアリティーショー編が放送されると同様の問題が再燃することになった。

 私見を述べさせて頂くならば、『ルックバック』での考察でも述べたことの繰り返しにもなるが、インターネットやSNSが発達した現代においては表現が際限なく誰にでも・どこにでも届きうる以上、誰も傷つけることのない表現をすることは不可能であることは承知の上で、意図的に誰かを・何かを侮辱したり嘲笑ったり偏見を助長するような表現でないならば、できる限り表現の自由を認めるべきではないかと考えている(そうしないと人々の記憶からどんどん忘れ去られるという別の弊害が生じることにもなるからである)。そして、自分の好きな作品に対して批判的・否定的な意見を目にしてしまうと本能的にその批判的・否定的な意見に対して攻撃的な反応を起こしてしまいがちになるが、一度冷静になって「自分はこの表現が好きだが世の中には自分と違う捉え方もあるのだな」と分析する態度を持つことで、少しでも攻撃的な誹謗中傷が減って欲しいと思う。単純に法的に「侮辱罪」「名誉毀損罪」が成立したり不法行為責任が生じるからというだけでなく、自分の「好き」を否定する存在に対して過剰に攻撃的な態度が可視化されると、「あの界隈のファンはヤバい」という風評被害が生じることになり、好きな作品の足を引っ張ることに繋がるからである。何かを好きになることそれ自体はとても素敵なことだと思うが、その「好き」も方法を間違えると誰かを傷つける凶器になりかねないことを自覚すべきである。そうしたことを考える材料としても、『【推しの子】』という作品は優秀であると言える。
 

(7)『バクマン。』大場つぐみ原作・小畑健作画、集英社ジャンプコミックス

 『DEATH NOTE』で一世を風靡した大場つぐみ・小畑健コンビによる大人気「漫画家マンガ」である(『DEATH NOTE』に続いて『バクマン。』もアニメ化や実写映画化を果たした)。

 主人公の一人である真城最高(サイコー)は絵が上手いこと以外は特に夢も将来の目標もなくぼんやりと過ごしていた平凡な中学3年生であった。ある日の放課後、サイコーは学年一の秀才である高木秋人(シュージン)から「俺と組んでマンガ家にならないか」と誘いを受ける。最初はシュージンからの誘いを断るサイコーであったが、サイコーが密かに好意を抱いている同級生の亜豆美保が声優を目指していることを知り、サイコーはシュージンとタッグを組んで「漫画家になってアニメ化されるほどの人気作品を完成させる。そして、そのアニメ化された作品のヒロイン役を亜豆に演じてもらう」ことを目標にすることになる。そして、さらに話は進んで亜豆はサイコーと「(サイコーとシュージンの)二人が作ったマンガがアニメ化したらサイコーと結婚する」という約束を結ぶことになる。こうして、サイコーはシュージンと共に日本一の漫画家を目指すというストーリーである。

 『バクマン。』の面白さの一つは、ストーリーのリアリティを出すために『バクマン。』自身が(当時)週刊少年ジャンプ連載作品でありながら作中で「週刊少年ジャンプで一番の漫画家を目指す」というメタフィクション的な構造になっていることである。『バクマン。』の作中にジャンプ連載作品である・あった作品名がバンバン登場したりする(『ONE PIECE』『北斗の拳』『DRAGON BALL』『SLAM DANK』『NARUTO』『BLEACH』等)。

 そして、サイコーとシュージンが成功するまでに多くのドラマが存在することも『バクマン。』という作品の魅力の一つだろう。ジャンプ作品らしく様々な作家が時にはライバルとして、時には仲間として叱咤激励・切磋琢磨しながら劇中の「週刊少年ジャンプ」を盛り上げていく。また、サイコーとシュージン自身も様々なトラブルに襲われる。初連載のチャンスを掴むも作者が急病となり作品が休載を余儀なくされ、作品を休載しているうちに読者が離れていったり、編集担当が新しくなったが新しい編集担当と相性が合わず衝突したり、せっかくヒットした作品を生み出しても作中の描写を愉快犯が再現したことで風評被害が生まれたり、何度か「サイコーとシュージン」のコンビが解散の危機に陥ったり等と作中ではそう簡単には主人公達に美味しい思いはさせてはもらえない。そう簡単に漫画家として成功は出来ないということを『バクマン。』では色々なパターンを見せてくれる。『ルックバック』では藤野は漫画家としてはストレートに成功しているが、その漫画家としての成功までの描写が物足りないというのであれば、是非『バクマン。』を手に取って読んでみて欲しい。『バクマン。』という作品の完結からだいぶ現実の時間は経過しているが、現在読んでも『バクマン。』の面白さは色褪せないと言えるだろう。

5 おわりに~「創作」にはどのような意味があるのか~


  映画『ルックバック』を鑑賞し、改めて原作の『ルックバック』を読み直した時に、ふと「この作品にテーマ曲的なものがあるとしたら誰の何の曲になるだろう」という疑問が浮かんだ。そうすると瞬間的にB'zの「光芒」という曲が浮かんできた。この曲が謳っている情景が『ルックバック』で描かれているシーンと見事に重なるからである。

 物語の序盤において京本の存在が藤野の前に現れる前までのクラスメイトから「将来さ!漫画家なれるじゃん!」「藤野ちゃん運動神経もいいからスポーツ選手にしなよ!」と賞賛されるシーンから京本の作品が初めて世に現れてから「京本の絵と並ぶと藤野の絵ってフツーだなぁ!」と言われた後の藤野の心境はこのように表されていると感じた。

何にでも なれる気がしていた
蒼く光る時代
月日を重ねるほどに知る
足りないことだらけの現実

みずみずしい未来が ひからびてゆく

どこかで狂う 夢の時計の歯車
おしよせる日々の流れ
生きるのは苦痛? そういうものだろうか
ひたすらにがんばるほど
行きづまる感情が 破裂しそう
くずれおちそう

B'zアルバム"ACTION"収録「光芒」

 その後、藤野と京本が直接出会うことで二人は順調に漫画家人生を歩んでいくが、京本が美大へ進学し藤野と袂を分かった結果、京本は凶悪な通り魔事件に巻き込まれ命を落とす。藤野は自分のせいで京本が命を落としたと思い込み、そもそもマンガを描く動機自体にも疑問を見いだしてしまう。

「描いても何も役に立たないのに……」

「だいたい漫画ってさあ…私、描くのはまったく好きじゃないんだよね」
「楽しくないしメンドくさいだけだし、超地味だし」
「一日中ず~っと絵描いてても全然完成しないんだよ?
「読むだけにしといたほうがいいよね」
「描くもんじゃないよ」


「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」

この問いに対して藤野はかつて最初の読者として自分の漫画を読んでいた京本のことを思い出す。そして、きっと京本は作品の続きを読みたがっているはずだと確信して再び漫画を描き始めるようになる。

そんな藤野の在り方を「光芒」ではこのように表現している。

むなしいBlue 僕を包みこんで
行く道を閉ざそうとする
自分を救う それは自分なのか?
今さら答えはいらない
消えないTruth すべて請けおって
半歩でも 進めるなら
景色は少しずつ変わってゆく

光を求め 歩きつづける
君の情熱がいつの日か
誰かにとっての 光となるでしょう
誰かにとっての 兆しとなるでしょう

B'zアルバム"ACTION"収録「光芒」

 私は「創作」活動というのは、実際に『ルックバック』で描かれているように漫画製作や芸術活動に従事するだけでなく、幅広く「人生を生きる」ことそのものだと思っている。なぜなら人間が生きていること・人生を積み重ねることそれ自体が「物語」を作る「創作」に他ならないからだ。

 「人間は物語として他者に宿ることができる」「人は物語として誰かの身体の中で生き続けることができる」というのは私の好きなSF作家の伊藤計劃の受け売りだが、まさにそうだと思う。『ルックバック』の劇中で京本は亡くなってしまったが、京本の物語は、人生は、藤野の中で生き続けている。そのことは藤野の背中がどんな言葉よりも雄弁に語っている。『ルックバック』という藤野と京本の、そして藤本タツキ先生の物語があなたの身体に宿ることを願っている。そして、そんなあなたの姿が誰かにとっての光と、物語となることを願ってこの投稿を締めようと思う。

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