歌い手界の王、まふまふさん作『夢のまた夢』を淡々と読み解く
イントロダクション
まふまふ。紅白歌合戦への出場経験もある、言わずと知れた歌い手界のトップである。2022年6月11、12日の「ひきこもりでもLIVEがしたい!~すーぱーまふまふわーるど2022@東京ドーム~『表/裏』supported by povo」のライブを最後に無期限の活動休止を宣言していたが、2023年1月8日に『アイスクリームコンプレックス』で自身の所属するユニットであるAfter the Rainの活動を、同年6月9日にハチさんの『マトリョーシカ』の歌ってみたで個人の活動をそれぞれ再開し、ファンを賑わせた。
そんな彼の十八番ともいえる楽曲が、『夢のまた夢』である。和とロックの融合という彼らしい魅力がぎゅっと詰まった一曲で、しばしばライブのトリで歌われる。おそらくだが、まふまふさん自身にとっても思い入れの深い楽曲なのだろう。
実写版とアニメ風、二種類のMVが投稿されている。
耳に残るメロディー、力強いギター、繊細な歌声。どれをとっても素晴らしいが、今回着目したいのは日本語の美しさがこの上なく発揮された歌詞の部分だ。全体的に語彙のレベルが高く、日常生活で訊き馴染みのない単語も多く使われている本楽曲だが、丁寧に一つ一つ読み解いていくことで切なくも美しい物語が見えてくる。本記事では「夢のまた夢」の美しい歌詞を引用、堪能しつつ下敷きとなっている物語を読み解き、彼がライブのトリにこの楽曲を歌うことが多い理由を私なりに考察していこうと思う。ぜひ最後までお付き合い願いたい。
一番 「彼女」にとってのこの世
のっけから切ない。甘いが故に溶けてしまった「恋」の代わりに求めるのは、やはり甘くて簡単に溶けてしまう「綿菓子」。「口寂しい」という表現が、前の恋を忘れられずぽっかりと心に空いてしまった穴を思わせるようだ。
「若苗」は読んで字のごとく、若い苗のことで、若苗色は新緑のような黄緑色らしいです。何故この色をチョイスしたのかは浅学非才な我が身では正直あまり分からないが、強いて言うなら「大人になれない」ことの表現だろうか。
何故恋文を空に投げたのだろう。まるで、届けたい相手が空にいるみたいだ。
いじめの描写だろうか。下駄箱にラブレター代わりに誰かの嘲笑い声が打ち捨てられていたら、きっと苦しいだろう。するとこの被害に遭っていたのは、語り手である「僕」(現時点で語り手を指す人称代名詞は登場していないが、記事の都合上ちょっと先取りして引用させていただく)なのだろうか。それとも――
「空五倍子色」とは淡い灰色のことであり、平安時代から喪服に使用されていたらしい(参考:Wikipedia)。仮にこれが喪服を示す表現だとして、「僕」はいったい誰のために喪服を着ているのだろう。
「薄明」とは「日の出のすぐ前、日の入りのすぐ後の、空が薄明るい(薄暗い)時のことである」らしい(またまたWikipedia参照)。時刻は夕方ごろという解釈で間違いなさそうだ。
次に気になるのは「長髪」の正体である。一般に、長い髪を持つのは女性が多い。先ほどから登場していた「恋」「恋文」の文言から察するに、「僕」の想い人ということになるのだろうか。だとすれば、長髪の彼女は「空」にいるのだろうか。……「僕」が喪服を着ていた理由も見えてきそうである。
また、彼女(長髪の彼女を指す人称代名詞は最後まで登場しないので、以降はこちらで勝手に「彼女」と呼ばせていただく)が既にこの世に居ないと仮定すれば、「境内」に「手招いて」きた理由も説明がつく。境内とは、「特に、神社・寺院の敷地内」らしい(今度はgoo辞書参照)。そんな神聖な場所、しかも時刻は夕方、昼と夜の交わる時間。「逢魔が時」とも呼ばれ、魔が出ると畏れられる時刻にそんな場所に向かったら……。あの世とこの世が交わる予感がしてきませんか?
「失くしたもの」とはやはり「彼女」のことなのだろうか。
「みなしご」とは「保護者のいない未成年者のこと」(やっぱりWikipedia参照)とあるが、これを「パパ」に言われるのは妙である。実の子供ではないのか、血は繋がっているけれど子供として認められていないのか……。いずれにしても、あまりいい家庭環境でないことはこのたった一文で十分に察せられる。
「疎まれた子」という言い方的に、この境遇に置かれていたのは「僕」ではなく「彼女」の方だろう。前述のいじめ疑惑の件と併せて考えてみると、彼女があの世にいる理由も見えてきそうである。
「彼女」の見ていた世界は「闇夜」だったのだろうか。だとすると、彼女にとっての「星」とはなんだったのだろう。
「逆夢」。「現実とは逆のことを見る夢」(再びgoo辞書より引用)。上記の辛い現実とは真逆の夢は、二人にとってどれだけ心地よいものだったのだろう。
その心地よい夢も、いつか覚めてしまうのだ。夢である以上は。
二番 「僕」にとっての「彼女」
ここから二番。歌い出し二行の歌詞は反語になっていると考えるべきであろう。つまり「誰か救ってくれだなんて思っていた(けど、僕も救えなかった)」という具合だ。一番で描かれていた「彼女」の辛い境遇、それに「僕」が気づけていたら、救えていたら。多分、「僕」は後悔している。
その後悔を抱えたまま、何かをやり残したという感覚のままに、空っぽな大人になってしまった。
この歌詞めちゃくちゃ好き。まず、二行目(解説の都合上、一旦一行目を飛ばす)の「水に降り立つ 月の影」。そもそも「月」は届かない、触れないものだ。そして「水に降り立つ影」も当然、触れないもの。 元より触れないものがもっと遠く、触れない場所へ。つまり「夢のまた夢」のめちゃくちゃお洒落な言い換え表現だ。その次の「鏡越しに散る花火」も同様。触れない花火が触れない鏡の向こうへ。
ここで一行目に戻る。「忘れたもの 林檎飴」。これを読み解くためには「林檎飴」が何を指しているのかを明らかにする必要がある。ここで一つ、作者であるまふまふさんのツイート(ポスト?)を見ていただきたい。
これを踏まえて素直に考えれば、「林檎飴」は誰かの心臓、誰かの命の比喩だろう。誰の? 当然、「彼女」のだ。
そして意識したいのが、「忘れたもの〜散る花火」までの一連の流れが、並列の関係になっていると思われるところ。これらを総合して考えれば、「彼女=夢のまた夢の、決して届くことのない存在」という方程式が完成する。
だから「触れぬものばかり探している」に繋がるのだ。
ちょこっと脱線
……ちなみに。本筋からはだいぶ逸れた話になるが、まふまふさんの手がける曲の歌詞やMVには時折月が登場する。先程考察したように「水に降り立つ月の影=夢のまた夢」とするなら、「月=夢」の方程式も成り立つ。そう思って『忍びのすゝめ』や『神様の遺伝子』のMVを見てみてほしい。考察の正確性は保証しかねるが、そういう視点で見るのも面白いだろう。
↑↓どちらも彼の代表曲と言って差し支えないだろう。
状況整理
ここで一旦、歌詞そのものから「僕」の置かれている状況に目線をシフトしてみよう ここで思い出してほしいのが、作中の時刻が逢魔が時、つまり夕方くらい、という点。
昼と夜の狭間、だからあの世とこの世も繋がるのではないか、私は上の方でそう考察していた。けれど、どっちつかずでいられる時間は長くは続かない。日が沈んだら、この世の住人である「僕」はこの世に、あの世の住人である「彼女」はあの世に戻ってしまう。二人が出逢える夢の時間は終わってしまう。
それを防ぐにはどうすればいいか。どちらかがどちらかのいる世界に行けばいいのだ。そんなことできるのかという感じだが、繰り返すように二人は今、二つの世界の狭間にいる。中間からなら、どっちにだって向かえる……と、思う。多分。ここではできるものと仮定して話を前に進める。
どちらかがどちらかのいる世界に、つまり「僕」が「彼女」のいるあの世へ行くか、「彼女」が「僕」のいるこの世に来るか。しかし思い出してほしい。「彼女」が今あの世にいる理由を。この世に絶望したからではなかったか。ここまで考察してきたたようなような状況で、「僕」に助けを求めることもせず、ひとりで。
そうなると、後者の案は論外だ。二人がこれからも一緒にいるためには、「僕」が「彼女」のいるあの世に行くしかない。……それはつまり、死ぬことでしか一緒になれないということだ。その決断の重さは、二人ともわかっている。けれどきっと、「彼女」は「僕」に言うはずだ。「私と一緒に来て」と。
自分を苦しめた世界から「僕」を解放できて、しかもこれから一緒に過ごせるとなれば、「彼女」にとっては最良の選択肢だろう。
――日は刻々と傾いていく。「彼女」の手を取るか、否か。決断の時が迫ってくる。
そんな状況を念頭に置いて、続きの歌詞を見ていただきたい。
Cメロ〜ラスサビ 「僕」の出した答え
もういいよ、はどちらの言葉なのだろう。いや、二つあるから、二人ともの言葉だろうか。
何かを諦めたような口ぶりだ。
筆者が個人的にこの曲で一番好きな歌詞だ。「浮かんでは 照らしては 吸い込まれる」で聞き手に明るい花火を想像させた後で、「惣闇色の夏空」と、真っ暗な空を描写する。花火の明るさの表現により、夏空の暗さがいっそう強調されている。まるで、蝉の声を利用して静けさを表現した、かの松尾芭蕉のような表現力。このたった一文に、まふまふさんの凄さがぎゅっと詰まっている。
ここから曲はラスサビに入る。「もういいよ」で「静」の状態になった曲が、「夏空」で段々アガッていって、「夢のまた夢か……」で一気に爆発して「動」の方向に動く。まふまふさんが力強い声で「こんなゴミのような世界でも ボクは好きで好きで好きで好きで好きでたまらない!」と歌う。つまり、これが「僕」が出した答えなのだろう。
「だから君と一緒には行けない」と、そういうことなのだろう。先程の「もういいよ」は、それに対するものだったのだ。
それでも「僕」は「彼女」の手を取る。一緒に行くためではない。残り僅か、束の間の夢を踊り明かすためだ。最後の逢瀬を、悔いのないように。
祭りの日、二つの世界の狭間で、二人は思わぬ再会を果たした。それは正に夢のような出来事だっただろう。しかし二人はその先を見据えていた。「僕」は「彼女」とこの世で生きる未来を、「彼女」は「僕」とあの世で過ごす未来を。それは荒唐無稽な、夢のまた夢。二人のそれはすれ違い、決して交わることはない。
これは「僕」と「彼女」の、偶然で重なった夢と、奇跡でも重ね合わせることのできない夢のまた夢の歌なのだ。
まとめ 決別と再起の「ばいばい」
さて、これで全ての歌詞をさらったように思われるが、まだ完全ではない。歌詞には表記されないが、実際の曲では「惣闇色の夏空」と「夢のまた夢か見果てぬ夢」の間に「ばいばい」というセリフが挿入される。
これは当然、今後それぞれの世界を生きていく「彼女」と「僕」の別れの表現であり、「あの世」と「この世」を分かつ「ばいばい」であるのだ。
……ここで少し話は変わるが、まふまふさんはこの曲をライブの最後に歌うことが多い、と上で書いた。その理由はこの「ばいばい」にあると私は考えている。
ライブ会場とは、特別な空間である。その建物は完全に現実の世界に存在していながら、しかしひとたび中に入れば、そこはもう夢の世界。アーティストは人々に夢を見せる仕事、というのもうなずける。
そんな夢の時間の終了間際、彼はこの曲を歌う。あの世とこの世、二つの世界をはっきりと分かつ「ばいばい」を、我々観客に向けて放つ。夢と現実、その二つの狭間もまた、この「ばいばい」によって分かたれるのである。
我々もまた、夢のまた夢の住人である
今から1年以上も前、私はまふまふさんが活動を休止する直前のライブ、「ひきこもりでもLIVEがしたい!~すーぱーまふまふわーるど2022@東京ドーム~『裏』」に母親と一緒に参戦した(本筋と一切関係ないが、私の母は私を遥かに凌ぐまふまふさん強火オタクだ)。そしてそのライブでも、彼は『夢のまた夢』を披露していた。
しかし、その時の曲順は最後ではなかった。いつもなら夢の切れ目となるはずの「ばいばい」の後も平然と夢が続いていくものだから、私はすっかり夢から覚めるタイミングを失ってしまった。
だから、いつ明けるとも分からない活動休止期間中も、私は、あるいはまふまふさん自身も、きっとずっと、夢の中にいられたのだ。
彼が活動を再開してから、ユニットでのライブは何度かしている(今日がまさにその日だ!)が、個人でのライブはまだ行われていない。けれどいつかそれが行われる時、彼はやはり『夢のまた夢』を歌うのだろうか。そしてそれは、私をあの日からずっと覚めない夢から現実に引き戻すのだろうか。
あるいは、夢のその先、夢のまた夢を見せてくれるのだろうか。
ここまでお読みいただきありがとうございます。普段はボカロPとして活動する傍ら、このような記事をnoteにて毎日投稿させていただいてます。よろしければ曲も聴いていってください。
今日の作業
note(本記事)執筆 2時間
運動〇(腕立て、プランク)
普段、noteの執筆時間は「今日の作業」に含まないんだけど、今回は頑張って書いたので入れさせて。
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