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消え去る

 すべてが消え去ってくれたらいいのに、と彼女は考える。そのすべてに私は含まれていて、そのすべてに彼女も含まれている。彼女の世界からすべてとともに消え去ったとしたら、私は私の世界からも、すべてとともに消え去るのだろうか、と私は考える。そう考えていたことすらも、すべてが消え去った瞬間に消え去ってしまうのはもちろん、消え去ってしまったということさえも消え去ってしまうのだ。
 彼女が、すべてが消え去ってしまえばいいと考えている以上、この世界に私のいる余地はないように思われる。しかしそれは錯覚にすぎないのかもしれない。なぜなら、私がこの世界にいるということや、私のいる余地、そして余地がなくなるという考えも、消え去るべき対象であるからで、前述のとおり、消え去るということすら消え去るのだから、消え去るための前段階では、すべてがあるのである。
 では、すべてが消え去る代わりに、彼女自身だけが、あるいは私だけが消え去るとしたらどうだろう。それによってすべてが消え去ったとは言えないが、少なくとも見かけ上は、すべてが消え去ったかのようなふうに感じるのではないか。でも誰が? 誰がそれを感じるのか。すべてが消え去ってくれたらいいという感じを誰が感じるのか。私は感じるべき人間だろうか。彼女は感じるべき人間だろうか。
 それにしても、すべてが消え去るという場合に、その消え去りを用意するのは「この現在」で間違いないと言えるだろうか。「この現在」ではない何かが、どこか別の場所で、彼女の考えるのとは異なる消え去りを用意しているとも考えられる、と私は考える。そこで消去ボタンを押すのは誰か、という問いを立てたときに、以前の私ならこう言ったに違いない。「それは誰でもない誰かである」と。いまではそんなとりつく島もないふるまいを私はしない。素直にこう答えるしかないのだから。「たとえこの現在ではない何かが、こことは別の地平をひろげていたとしても、その消去ボタンを押すのは、やはり彼女または私でしかありえないのだ」
 それが私の彼女への思いである。
 こんなふうに私は彼女を追い求める。執拗に。ときに投げやりに。

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