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ネガティブな気持ちを伝えても壊れない関係が安心感であり、愛かもしれない。

子育てって、思ってた以上に楽しいなぁ、と育ててみて思う。
まあ体力的にはかなり削られていくけど、それでも子供の見せる反応や成長は意外すぎて、いつも面白い。

だが、子育てって難しいなぁ、とも思う。
そう思い始めたのは、娘が流暢な言葉を獲得し始めた頃からだ。

言葉を獲得すると、子供は赤ちゃんとは全く違う生き物になる。
当然だが、突然スラスラ話し出すわけではない。
トライ&エラーで、いろいろ試しながら適切な使い方や場面を覚えていくのだが、そのトライの仕方が練習中はとにかく荒削りである。

語彙力だけはあり、そんなこと思ってないだろ!ということまで伝えてこようとする娘。
対する母の私は、言葉をガーンと真に受けてしまうタイプ。
組み合わせが悪すぎる…そして実際毎日、この荒削りな表現に頭を悩ましている。


例えばだが、夜寝る前に娘から発されるこの一言はどうだろう。
「今日、全然ママと遊べなかった!」
ええー、結構たっぷり付き合ったよ?!
掃除も料理もいろいろ放棄して、リカちゃんや折り紙一緒にしたよね?!

しかしこの、私側の主張をそのまま伝えてはさらに相手は荒くれることになり、逆効果である。
「そうか~、遊べなかったか~」と娘の頭をなでなでする懐柔作戦を取りながら、頭の中で私は、一体今日のスケジューリングのどこが悪かったのか、高速でおさらいする。
ところがそんな私をさておいて娘は懐に潜り込み、「ママ大好きー」と満足げにスヤスヤ寝入ってしまう。
なんなんだ、このツンデレは。

整理すると、娘にとっちゃこういうことなのだ。
「今日楽しかった~、もっと遊ぼうね!」という気持ちが、疲れや眠さも相まって「全然遊べなかった(=もっと遊ぼう!)」という反語の形をとってしまっているらしい。
なぜいつもママにだけ、不満全開で接してくるのか。

でもまあ、不満を叫ぶことでガス抜きできてるならいいか、とも思う。
不満をぶつけても怒られない、嫌われない、という安心感が構築できている、と無理くり解釈すればちょっと嬉しくもある。
逆に「ママ、今日はありがとう」なんて言われたらなんだか気持ち悪い。


子供というのはこんな風に、文字面で伝える意味を飛び越し、心に直結した奔放な言葉づかいをする。
だが大人になると、心に直結した表現をするのは結構、勇気がいることではないか
奔放な言葉づかいを受け取る側の苦労を知ってるからこそ、自身が使うのにはなお勇気がいる。


先日、歯医者にかかった時に不思議な思いをした。

「かなり言いたいことを我慢してるんだね」
口の中をいじっていた先生から急にそう話しかけられ、驚きとともに私はあろうことか、泣き出してしまったのである。

心の近くを ふと踏まれて
僕は何も言えなくなる
静かになる 苦しくなる

とはうまくいったものだ。
口の中を見ることでそんなことまでわかるのか、という驚きと、心に急に迫られたことへの驚きと。
「大人だから難しいけど、つらい時はつらいって言っていいんだよ」
追い討ちをかけるような言葉に、私は静かにボロボロ泣いてしまった。

歯医者で泣くのは、治療が怖かった子供の時以来。
「怖い」という涙はわかりやすいけど、「やるせない」という大人の涙は自分にすらわかりにくい。
自然に生きてきたはずなのに、どこからか不自然が絡まって、いつしかやるせなさが生まれてしまった。

こういう大人であらなきゃ、こういう妻で、こういう母で。
私の中で、そんな気持ちが自分をがんじがらめにしているようだ。

*
*
*

今日は、自然と不自然が交錯するR30な気持ちについて歌った楽曲を、探ってみるつもりだ。


ASKAという作家が描くラブソングは、とても面白い。
恋愛という自由ながら狭いジャンルの中で、ほんとに驚くほど色々なテーマを追求している。

ちょっとだけマニアックな話を。
ASKAが作ったラブソングの数は、私がカウントできるだけでおよそ140曲はある。
それらを分類し、初期から順を追ってみると、彼のラブソングは、ざっくりこんな感じの変遷をたどっているように思う。

① 女性主観で、別れを中心としたフィクションの世界
(「万里の河」「男と女」など)
② 幸せな恋、その中に潜む不安
(「はじまりはいつも雨」など)
→”永遠の愛の否定”という独自理論への到達
③ その先にある中年期のリアル=道ならぬ恋
(「Girl」「遊星」など)
④ 男女という生き物の不思議=輪廻
(「Man and Woman」など)

そしてこの流れとは別に、とある一人の女性との忘れがたい恋を描いた楽曲たち(アルバム『君の知らない君の歌』に描かれる恋愛)が自由に顔を出す…というのが、私の目から見るASKAのラブソング歴である。


小難しい話をしてしまったので元に戻そう。
このテーマ変遷の中で、私が最も興奮するのは、「永遠の愛の否定」というテーマが溢れかえる時期だ。
時期的にも②と③の間に挟まっているのが、異様にリアルではないか。

愛は永遠であって欲しいと誰もが願っている。
それを否定した先に、どんな男女の関係があるのだろう。
とりわけすでに結婚し、この先死ぬまで連れ添おうという計画のある、私を含めた多くのR30世代にとっては、この理論は非常に心を騒がすものだ。

なぜ、ASKAは永遠の愛を否定するのか。
答えは簡単。
永遠の愛なんて、そんなもの不自然だからである。


1994年に発表されたCHAGE&ASKAの「NATURAL」という楽曲をご存知だろうか。
まだまだ世間はチャゲアスにとって追い風で、映画主題歌の「HEART」、ジブリがPVを手がけた「On Your Mark」といった華やかな大作にうまくまぎれ込み、この「NATURAL」は3曲収録のシングル盤として発表された。

CHAGE作曲のポップかつ幾何学的なメロディー構成に乗せて、これまた非常にこねくり回されたASKAの歌詞が聴く人を遠ざけた(?)迷曲だ。

あんまり難解な詞なので、勝手ながら読むためのフィルターをご用意しよう。
深夜のリビングで対峙する夫婦を思い浮かべて欲しい。
「あなた、最近全然帰ってきてくれないし、愛してるとも言ってくれないし、もうよくわかんなくなっちゃった…」と憔悴顔の妻を前にした男の気持ちで、この歌詞を一読してみて欲しい。

愛しているのか迷っても
一緒に居たいのは解る 解る
心に広がるよりも
なんだか涙が先に 緩むよ

知りたい事なら
無い物ねだりじゃない
ひとつの悲しみに 胸がつぶれそうでも
ふたつの温度使いわけよう

小さな独り言 並べて愛に混ぜよう
知らない気持ちが生まれてるはず
何も変わらないくせに
もっと心は深くなる


すべてがあたり前のような
 仕草で側に居たい 居たい
永遠の気持ちなんて…
その場限りの言葉が 自然さ

決まり事なら 得意じゃなくて
夢よりは近くの恋をしたいけれど
恋より棘のない夢もいい

愛し合えば合うほど 意地悪になってゆく
愛といえばそれも愛だね
何も伝えないくせに
もっと心は深くなる
もっと心は近くなる


きっと僕らは natural
心細さも natural
嘘と真実でつくられる愛も
わずかな隙間も natural

愛し合えば合うほど 意地悪になってゆく
愛といえばそれも愛だね
何も伝えないくせに
もっと心は深くなる
もっと心は近くなる
もっと心は熱くなる


90年代当時のASKAは、Dメロと呼ばれる部分で曲のテーマをわりとはっきり描くクセがある。
この曲で言えば、

きっと僕らは natural
心細さも natural
嘘と真実でつくられる愛も
わずかな隙間も natural

という部分だ。
長く一緒にいると男女は、時に心細く、時に心の伴っていない愛を表現し、時にわずかな隙間につまづく

こんなことに心折れそうになる瞬間って、結構リアルだ。
それが離別のきっかけになることすらあるのに。
「それが自然だ」というのは、一体どういう意味なのだろう?


逆に「不自然」についてこの曲でどう表現されているのかを見ると、理解しやすいかもしれない。
フレーズを拾ってみると、「永遠の気持ち」「決まり事」という表現だ。
改めてASKAの詞はアイロニーに満ち溢れていると思う。
だって、永遠の気持ちを誓い合い、二人の間の決まり事をご披露したりというのは、結婚式という夫婦のスタート地点でよくみられる光景だからだ。

時を経て、寂しさ、心細さといった自然な感情の発露に戸惑った時、もう一度結婚式のDVDを見返してみたとしても、それは一時のカンフル剤になることはあるが、根本の解決にはならずまた寂しさを繰り返すことになる

そんなの居心地悪いよ、というのがこの曲で言葉を尽くして歌われていることのようである。


「ケア」と「セラピー」という言葉がある。
ケアというのは傷を負ったものへの手当だが、セラピーは根本の問題を癒し、その先の道を求めていく行為だ。

愛に傷ついて動けない人には、ひとまず優しい言葉が必要かもしれないが、そういったケアは焼け石に水状態で実際キリがない。
片方が不満を溜め、もう片方がオロオロしケアに追われる、という関係は男女においてとてもアンフェアだ。

それより、時に寂しく、時に愛がやせ細ってもいいじゃないか…というのがASKAの表現する「NATURAL」な男女関係だ
その代わりに、思っていることをちょっとずつ言葉に出して、「小さな独り言」として聞かせて欲しい。

小さな独り言 並べて愛に混ぜよう
知らない気持ちが生まれてるはず
*
永遠の気持ちなんて…
その場限りの言葉が 自然さ

大それた愛を語るより、その時の気持ちを言葉にしても関係が壊れるはずがない、という安心感の方が、よっぽど愛じゃないか?
いつも愛を確かめ合っている熱々カップルに比べたら、自分たちは冷めていると思えるかもしれない。
けれど、

愛し合えば合うほど 意地悪になってゆく
愛といえばそれも愛だね

一見意地悪に思える態度すら「それも愛だね」とお互い受け止め合えるベースがあるなら、その関係は長く長く、続けていける。

「意地悪」を「愛」と言ってしまうポップソングはかなり珍しい。
ASKAという詩人が男女関係をセラピー目線でとらえているからこそ、生まれるべくして生まれた素敵なフレーズなのだと思う。


さて我が身を振り返ってみれば、一体どれだけ「小さな独り言」をつぶやけているのか。
歯科医によれば、言葉を我慢し続けると、人は顔の筋肉が硬くなっていくのだという。
ある一定の表情にしか、パターン化できなくなるのだ。
そうだなぁ…こんな妻で、こんな母でいたいという願望に縛られて、どうやら不満を小出しにする方法を私は忘れてしまっている。
「毎日変顔するといいですよ」
と彼は、笑顔で解決方法を教えてくれた。
え、そっちから?!
と思いつつ、とりあえず取り組んでいる毎日である。

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