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イスラム世界探訪記・パキスタン篇⑥

05年9月24日(フンザ)

   フンザの絵図を説明してみたい。カラコルムハイウェイを走って到着したツーリストは、まず「ゼロポイント」と呼ばれる地点を通過する。フンザの中心は「カリマバード」という村で、ゼロポイントはカリマバードの入口に当たる。ゼロポイントからは、やや蛇行した一本の上り坂が伸びていて、これがフンザのメインストリートだ。道の左右には宿やレストラン、土産物屋が点在し、町を形成している。一本道が続くので、ぶらぶら行き来していると、何度も同じ人とすれ違うのに気づくだろう。

   やがてY字路にぶつかり、右を選ぶとかつてのフンザ王国が居城として使っていた「バルチックフォート」へ、左に折れると地元民向けのバザールや郵便局がある場所へ行く。また、メインストリートの東側には「フンザ川」があり、そちら方面には、宿泊したかったアルチット村がある。

 この時代、日本人バックパッカーの多くは、私の選んだメインストリートにある宿ではなく、ゼロポイントよりも手前、坂の麓にあるホテルに泊まっていたようだ。インドや東南アジアに比べれば、パキスタンを旅する日本人はさほど多くないだろうが、それでもフンザには、いわゆる日本人宿があった。私は日本人がこぞって泊まる日本人宿が嫌いで、この数年前に3か月間をかけたアジアの旅でも、あえて避けていた。「せっかく海外に来てるのに、日本人同士でつるんでどうするんだよ」と反発していたのだ。

 いま思えば、気張って反発せず、たまには泊まってみても良かったのかもしれない。そのくせ、フンザでちょっと可愛らしい日本人の女性に微笑みかけられ、こんにちはなんて挨拶をされると、宿を移りたくなる誘惑に駆られていたのだから阿呆である。

町の案内板

 フンザで目覚めた初日、私は下痢腹を抱えて行動することになった。無理せず、だらだらすることに決めた。そもそもフンザはだらだらするのに最適な地である。

 露店で買った杏のドライフルーツをだらだらとかじりながら、ストリートをだらだらと歩き、丘があったのでだらだらと登った。すると、面白いものに遭遇した。太鼓とラッパに合わせ、5~6人ずつグループを作った男たちが踊っているのだ。若者グループにはスーツで着飾った面々もいた。彼らの踊りに拍手して、おひねり的にルピーを渡す者もいる。

   そばにいた男に何事かと聞くと「結婚式のお祝いさ」と答えた。見ているだけで、こちらもウキウキした。

フンザを代表する鼓笛隊、かな?
おじさんが踊る
若者も踊る

 踊る老若の男たちを見ながら、ぜいぜいと息を切らしつつ、さらに丘を上がった。標高2500メートルの高所は空気が薄い。運動不足と不調のお腹が悲しい。

   ふと遠くを見た時に、そんな小さな悲しさは消えた。

   そこには、まさに風の谷というべき世界が広がっていた。快晴の空に、カラコルム山脈の稜線がパノラマ状に広がっている。その7000メートル級の山々の威容を前に、老婆たちが一列に並んで座り、先ほどの踊る若者たちを見下ろしていた。小さな背中が20個以上も並び、風景に溶け込んでいる。思わずシャッターを切った。

風の谷に生きる

 しばらくの間ふぬけように立ち止まり、雄大な景色を見ていたことで、呼吸も整った。最初に泊まろうと思っていたアルチット村へ歩くことにした。メインストリートを東側へ外れてフンザ川を渡ると、観光客の姿を見ることがなくなり、目に映るのは、川と緑と山と家畜。丘があり、谷があり、川が流れ、遠くには山々。完璧に調和の取れた景色の中での、快適な散歩だった。汗は滲むが、すぐに乾いた。

アルチット村の遠景
村はのどか
動物には詳しくないので何だろうこの子

 アルチット村までは、30分ほど歩いただろうか。やがて、村にある「キサールイン」という名前のホテルに着いた。私を見て、ご夫婦と小さな子どもふたりが出てきた。今から宿を移る気はなかったが、オランモーサと名乗った父親を中心に、楽しい会話の時間を過ごした。オランモーサは、周囲の山の名前などを丁寧に教えてくれた。子どもたちとは追いかけっこをした。

オランモーサと孫かな?

 そんなことをしていたら、オランモーサが昼飯をご馳走してくれるという。遠慮せず、ありがたく頂く。チャイと、ピルティというパン、そして子どもが木に登って取ってくれたぶどうを頂戴した。

 しかしそれが…。ぶどうは甘くて美味しかったが、パンはあまりにも硬くボソボソとしており、チャイも濁った味がした。私は日本でも、海外旅行先でも、どんな物でも食べられた。アジアでは、スラムの路上で売られている怪しげな料理でも、積極的に食べてきた方だ。しかしこの時は、下痢が治っていなかったこともあったのか、どうしても頂いたパンを食べきれなかった。申し訳ないが少し残して、席を立つことになった。

 それがいけなかった。最後の会話を楽しみ、去り際、振り返って「またね」と子どもに手を振ろうとして、体が固まった。子どもふたりが、私の食べ残しを奪い合うように頬張っていたのだ。

 自分の失礼さに足元が揺らいだ。その後、今に至るまで、出された物を残すことはない。

 アルチット村には小学校があり、沢山の子どもたちと触れ合ったが、学校に通っていないであろう制服を着ていない子たちからは、何度も「ギブミー」と求められた。「ギブミー・スイート、ギブミー・ルピー、ギブミー・ペン」。

 インドで経験したようなしつこさはなく、外国人とのコミュニケーションのひとつとして口にしている風でもある。もしもらえたらラッキーくらいのものか。しかし、貧しさに直面している子どもが多いのも事実だろう。

 子どもといえば、自転車のタイヤを転がして遊んでいる子たちと出会ったのが、印象に残っている。男の子が5人、女の子がひとり。ある子は素手で、ある子は木の枝で転がしていた。

 声を掛けると、少し年上に見えるリーダー格の男の子が、私の腕に、指で名前を書いてみせた。石が飛び散っている路上だが、この子は裸足だ。私も自分の名前を、彼の腕に書く。一緒にタイヤを転がした。私がパタリと倒してしまうと、子どもたちはゲラゲラ笑う。タイヤひとつで楽しい。何でも遊びに変えてしまうのは、どこの国の子でも変わらない。

上手に転がす
裸足でキック
仲良し

 夕食は、メインストリートにあるレストランで、甘いアプリコットスープと、マトンの塊を食べた。この日は宿に戻った後も、夜遅くまで結婚式を祝う車が走っていた。むしろ昼よりも元気な声が上がっていたかもしれない。

   体調はいまひとつだったが、気になって部屋を出た。メインストリートに乗用車が連なっている。数えると15台。お祝いムードの演出は、朝まで続きそうだった。しばらくその光景を見ていたが、やがて飽きて眠った。

アプリコットスープ(食べ物の写真が苦手です)
マトン(食べ物の写真が苦手です)


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