もう、悩み続けるしかない。正解を手放し、彷徨う旅路を伝え続ける編集長(安久都 智史さんインタビュー)
あまり思い悩むことがなさそうな人を見ると、時に「羨ましいな」と感じてしまうことがあります。
些細なことをいちいち気にせず、自分では耐えられないような問題も簡単そうに乗り越えてしまう人。そんな人を目の当たりにすると、相手に対する羨ましさと、自分自身の弱さに対する嫌悪感を抱くことが少なくありません。
「そんなこと、いちいち気にするなよ」
「もっとポジティブに考えようよ」
相手の善意から出てくる言葉を前に、時々自分が情けない存在だと感じてしまいます。
でも、ひょっとしたら、いちばん自分を傷つけているのは自分自身なのかもしれません。
「そんなに悩んで、結局何になるの?」
「いつまでくよくよしているの?」
大切な人には言えないような言葉も、自分には平気でぶつけてしまうこともあります。
どうすれば悩まずに済むのでしょうか。どうすれば、もっと気楽に生きられるようになるのでしょうか。
心のどこかに少しずつのしかかってくる「呼吸のしづらさ」のようなものを感じる中、ある文章に出会いました。
2019年の年の瀬に書かれた記事。
諦めと覚悟、苦しみ、そして優しさが入り混じった文章です。
だからこそ、聞いてみたくなりました。
あなたは、なぜ迷うのですか。どんな苦しみを抱いているのですか。
声をかけたのは、自然体な生き方を読者と共に考えるメディア「ソラミド」の編集長である、安久都 智史さん。
「僕はもう、迷ったり悩んだりしながら生きていくしかない。最近になってそう思うようになったんです。」
なぜ「悩むこと」に対し、逃げるのでもなく、抑え込もうとするのでもなく、正面から向き合わなければならなくなったのでしょうか。
現在進行形で生き方を模索し続けている安久都さんに、お話を伺いました。
なりゆきで、独立するしかなかった
二つの会社を経て、フリーランスのライターとして独立した安久都さん。
ライターは、会社員時代から副業で続けていたそうです。
「当時から書くのは好きでしたし、インタビューするのも楽しいと感じていました。」
ライターの仕事に初めて触れたときの心境を、安久都さんは自身のnoteに綴っています。
しかし、独立した理由は決してキラキラしたものではありませんでした。
「当時勤めていた会社で、適応障害で休職することになったんです。でも、その会社の労働環境がブラック企業だったとか、働き過ぎたとかでは全然なくて。
『このままでいいのかな』『どう生きていけばいいのかな』と思い悩んでいる自分と、『いやいや、頑張らなきゃいけないだろ』って思う自分がいて、そのふたつがどっちも大きくなってパンクした、という感じなんです。」
「1回そうやってぶっ倒れて、4ヶ月ほど休職してから復帰したんですけど、実はもう1回休んでいて…。2回目の復職の後に、このままではダメだ、と考えるようになったんですよね。生き方を変えないといけない、何か探さないといけないっていう感覚がすごくありました。
なので、僕はなりゆきのフリーランスなんですよね。もう辞めるしかなくて。そして、自分に出来るのは書くことしかなくて。だったらそれで食っていくしかない、っていうところからフリーライターになりました。」
身体が動かなくなり、布団の上で涙が止まらなくなった安久都さんは、生き方や働き方を変える決断をしました。
しかし、その決断も簡単には下せなかったようです。
「辞める時も次の仕事は決まってなかったし、フリーランスという働き方についても馴染みがなかったから。『フリーランスって、何それ?どういうこと?』みたいな。このまま自分は野垂れ死ぬのかもしれないと思うくらい、とても不安でしたね。」
そんな安久都さんの背中を押したのは、安久都さんのパートナーの言葉でした。
「妻には自分自身についての相談をずっとしていて、僕がしんどい時期もずっとみてくれていた人なんです。
仕事を辞めることに対する不安について話したら、まっすぐ僕の目を見て『それは、あなたのために仕事は辞めてほしい』と言ってくれて。
身近に自分を信じてくれる人とか、大丈夫だよって言ってくれる人がいるおかげで、はじめの一歩を踏み出せるんだなって気づきましたね。一人では決断できなかったと思います。」
自分で作った「檻」を壊していく
ライターとして独立し、株式会社スカイベイビーズにてウェブメディア「ソラミド」の立ち上げに関わった安久都さん。「ソラミド」のコンセプトは「自然体で、生きよう」でした。
「適応障害を経て、自分にとっての『自然体』を探さないといけないな、という感覚がある中で、そのための足掻きとかもがきに価値が見出せるんじゃないかと思って。
僕が関わり始めた時にはまだメディアはありませんでした。ただ、代表は『自然体を考えるためのメディアを作りたい』と以前から考えていたみたいです。そこに、ライターとして僕が入ったから、本格的に動き始めました。」
ライターになり、多種多様な方々にインタビューを重ねながら、安久都さんは自分なりの自然体を模索し続けています。
そんな今の安久都さんが、適応障害で倒れた当時の自分に会ったとしたら、どんな言葉をかけるのでしょうか。
そう質問すると、安久都さんはしばらくの間考えてから、ゆっくりと答えました。
「…もっともがいて足掻こうぜ、って言う気がします。気づかないうちに、自分で『檻』を作り出し、この檻の中から出られないと決めつけて、檻の中で苦しんでいたんですよ。
そうではなくて、檻の外に出たり、檻を壊してみたり。そんなもがきや足掻きが必要だったと思うんです。」
「こうするべき」「こうあるべき」という、自分自身を縛り付ける言葉。
「こんなことで悩んではダメだ」という、焦りや不安。
自分でも気づかないうちに、自分を抑え込むための檻が出来上がっているのかもしれません。
周囲の環境や、教育、遺伝子、対人関係、そして自分自身。複雑なプロセスを経て巧妙に出来上がるからこそ、気づくことすら難しいのかもしれません。
安久都さんは、自身の檻に対し、適応障害という形で向き合うことになりました。
「檻を壊して失敗したら、別にそれはそれでいいと思うんですよ。そこから学ぶこともあるので。でも、檻を壊さないと失敗もできないから…。過去の自分には、もっと自由にもがいたり足掻いたりしていいんだよ、って声をかけるかもしれません。」
悩むことのプロセスを尊ぶ
今は、答えのような情報がいつでも簡単に手に入る時代です。そんな中、なぜ、答えのない悩みに対し、正面から向き合おうとするのでしょうか。
「まだまだ僕も、こうすれば僕は正しいんだとか、楽なんだっていう正解のようなものを探そうとしてしまうこともあります。
でも最近になって、悩んだり迷ったりする過程そのものが価値になる、と思うようになりました。見知らぬ土地を旅する時、目的地に着くまでの景色は蔑ろにしていいものではなく、むしろ目的地まで過ごす時間にも大きな価値がある、というスタンスです。
やっぱり迷ったり悩んだりする時間があるから、何かが生まれることもある気がしています。それに、別に何かが生まれなくても、悩んだり迷ったりする時間は否定するもんじゃないな、と思います。とはいえまだ時々『悩んでちゃだめだ』って思ってしまうこともありますけどね。
そう考えないと変わらないんですよね、きっと。僕みたいなタイプは。折り合いつけられないし、違和感を感じやすいし、違和感を感じたら体動かなくなるし、みたいな…しょうがないのでもう諦めて、もがき・足掻きをし続けないといけないんだと思います、きっとこれからも。」
苦しむことで少し顔を覗かせた、自分にとって大切な思いを、「そんなことで悩んではいけない、考えてはいけない」と捻じ曲げ、蓋をして、倒れてしまった安久都さん。
だからこそ、悩み、考えるプロセスそのものを丁寧に見つめようとするのかもしれません。
そして、自分だけでなく他者に対しても、決めつけることなくありのままを大事にしようとする姿勢が、安久都さんの迷いから感じ取ることができます。
「『思考とことばが生きる意味』という言葉を座右の銘にしています。『ことば』は漢字ではなくひらがなです。言語的なものだけじゃなくて、頭に浮かんでくる感情やイメージ、感覚のような、言語化しきれないものも含めて『ことば』だと思っています。
たとえ口にしている言葉が同じでも、その時頭に浮かんでいる感情や思考って、絶対全員違うはずで、唯一無二のものだと思うんです。
例えば、とあるバンドのライブを見に行ったら、めちゃくちゃいいライブだったとするじゃないですか。その時に多分、僕を含めたたくさんの人が、『最高だった』とか『やばかった』という言葉を口にすると思います。その時、口から発せられている言葉はみんな一緒じゃないですか。でも、『最高だった』と言って頭に思い浮かべているものとか、感情思考って、絶対全員違うはずで。そこには確実に唯一性があるんです。
どれだけ似たような、同じようなものを見ても、そこで感じたものや考えたことって、唯一無二だと思うんです。
僕しか思わないものや、あなたしか思わないことがある、という唯一性って、すごく尊いなと思います。その唯一性に手を加えることなく、そのままの形で感じていたいんです。すごく。
自分のことばの唯一性も、大切な人の唯一性も、否定することなく大切にしていたいですね。」
過去を振り返ってみた時に、記憶に引っかかるような感情や思考。
ポジティブなものもあれば、思い出すだけで辛い記憶もあるかもしれません。
そしてそのような出来事は、そのまま自分の記憶の唯一性となっていきます。その記憶は、自分自身しか持っていません。
たとえ似たようなものがあっても、誰かと一緒に共感することができても、自分の頭の中の情景は、自分の中にしかありません。
「自分の唯一性を大切にし、自分の存在そのものを大事にするためには、まずは心を動かすことが大切なんじゃないか、と思っています。
大切にしたい思考や感情が生まれるのは、心が動いた時なんじゃないか、っていう感覚があるんですよね。」
安久都さんにとっての、心が動くこと。そのひとつは、誰かと「語り合い」をすることでした。
語り合いの熱量と豊かさ
「話している人たちが、自身の世界観を出さなくても完結するのが『会話』で、お互いの世界観や考えていることをすり合わせることが『対話』だと思っています。
一方で、『語り合う』ことは、お互いが相手の世界観を存分に味わうことなんじゃないか、と考えていて、そこにお互いのすり合わせは必要ないと思います。まあ最近言い出したことなので、僕もまだふわふわしていますけど(笑)
対話する時と語り合う時って、喋る方の『前のめり感』が全然違う気がするんですよね。対話の場、って聞くと、ポジティブネガティブ問わず、エネルギーや温度感があまり感じられなくて…。」
語り合いだからこそ発生する熱量の大きさに、安久都さんは魅入られるようになりました。
「よく考えていることや、自分の悩みについて思いの丈を語る時に起こる『前のめり感』って、すごいエネルギーになると思うんです。でも、なかなかそのエネルギーを出せる場所がないとも思います。そのエネルギーを出すのも感じるのも好きなので、語り合いのための場をつくれたらいいなっていうのを、いま妄想しているところです。」
自分の思いや感情を自分の言葉で表現し、他者に伝えること。
伝えられたものをありのままの形で受け止め、味わうこと。
その結果、「自分はこんなことを考えていたんだ」という気づきと「そんな自分でも良いんだ」という暖かな受容感が、語り合いの熱量から生まれるのかもしれません。
「語り合いをした時ってなんだか、発した言葉が自分のものになっていく気がするんですよね。自分の本心や、深い思いが込められた言葉を話し、受け取ってもらってその反応を聞いた後って、次に進むための大きなエネルギーが生まれるような感覚があるんです。
語り合いを通じて、『自分が自分として存在していてもいいんだ』と自ら認めることって、本人にとって大きな価値があるんじゃないかなと思うんです。
あと、一方的に語るだけでなく、相手とお互いに語り合うことこそがいいなと思っていて。
例えばAさんが 『こういうこと悩んでるんです』って僕にばーっと語ったとします。そのあとに、今度は僕が『それについてはこう思っていて、でも僕もこういうことで悩んでいて』というようにばーっと語った時に、Aさんは自分が語ることだけじゃなく、僕の語りから感じることも絶対あると思っています。
『あくつさんもそう思うんですね!』とか、『それ初めて聞きました!』みたいな気づきや発見があるんじゃないかなと思うんです。」
何かに悩んだり苦しんだりしている時は、自分ひとりで内省する時間も必要だと言われることもあります。
でも、ひとりで考えるだけでなく、誰かに語り、誰かの語りを聞くことでしか手に入らない豊かさも、たくさんあるのかもしれません。
「対話では、感情や心はあまり大きく動かない気がするんですよね。でも深い語り合いができたら、とても大きく動く気がするんです…。だからそういう場を作りたい、っていうのはすごく思っています。」
迷い、時に寄り道をしながら、その道中で見える景色を胸に焼き付けていく。
仲間と焚き火を囲みながら、お互いの思いの丈を語り合う。
安久都さんは、「自分にとっての自然体とは何か」という大きな問いを抱えながら、彷徨い歩く旅人になろうとしているのかもしれません。
7月に、メディア「ソラミド」の編集長を名乗ったばかり。
自分が作った檻を少しずつ壊しながら、安久都さんなりの編集長の姿を模索しています。
安久都智史
1995年生まれ。聴いて書いたり、語り合ったりするフリーランス。自然体な生き方を考えるメディア『ソラミド』の編集長。“青春”と“お金に生を脅かされない暮らし”を探究すべく活動中。妻がだいすきです。
取材日:2022年6月25日
執筆:織田 諒
写真提供:安久都 智史さん
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