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天草騒動

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島原の乱を題材にした江戸時代の実録物、『天草騒動』の現代語訳です。伝奇小説のような趣もあり、読み物としてたいへんに楽しめるものです。目次のページからお読みください。
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#戦国

天草騒動・目次

はじめに  島原の乱を題材にした江戸時代の実録物、『天草騒動』の現代語訳です。冒頭を読め…

天草騒動 「22.蘆塚知謀をもって唐津勢を破る事」

 その夜の深夜、一揆の者らは用意万端ととのったので、村の家のあちこちに火をかけ、「火事だ…

天草騒動 「20. 天草四郎を大将に立てる事」

 ここに天草四郎という者がいた。  父は肥前国島原領原村の大庄屋(二十二か村、石高一万石…

天草騒動 「19. 浪士のともがらを大将に頼む事」

 このように大江村の騒動はもともと六七人の浪人たちの奸計から出たことであったが、その浪人…

天草騒動 「18. 富岡の士不覚の事」

 凡夫が心を傾けて一途に思い込むときは、理非もわからず思慮も無いものである。六人の浪士が…

天草騒動 「16. 天草島諸浪人の由来の事」

 さて、また同じ島の中に赤星宗範という鍼医者がいた。身の丈五尺三寸、顔色白く蒼髭があって…

天草騒動 「15. 天草島浪人森宗意軒の事」

 九州の肥前は十一郡六十万石の大国で、西南は海で左は薩摩潟、後ろは筑前筑後、また、海の向こうの西方には長崎の港を望むことができる。  沖には五島平戸の島々があり、自由に行き来することができて、天草島、硫黄島、小布島、種子島を初めとする八十の島々や琉球島が入り組んで並んでいる。  八十島のうち天草島は大きな島で、知行高は五万石あり、郷村は百に及んでいる。  唐津と富岡は十二万石の城主、寺澤志摩守の領地で、至って裕福な土地である。  九州は日本の中では辺鄙な土地で、もとも

天草騒動 「13. 千寿院、京都にて召し捕られる事」

 さて、耶蘇宗門が厳しく御制禁されたため、しばらくのあいだ諸国は穏やかであったが、元和元…

天草騒動 「12. 切支丹宗門きびしく御制禁の事」

 慶長三年八月十八日、秀吉公は伏見にて薨御された。秀頼公が幼かったため、徳川内府公が天下…

天草騒動 「11. 市橋島田両人の奇術を上覧の事」

 時に天正十六年九月、秀吉公は伏見の城に在城されていた。  その頃、堺の町人の天王寺屋宗…

天草騒動 「10. 南蛮寺破却の事」

 さて、中村修理の家で白翁居士と南蛮寺のヒヤンが宗論をし、ヒヤンは問い詰められて一言半句…

天草騒動 「14. 板倉伊賀守殿の賢明なる成敗の事」

 京都所司代板倉伊賀守殿は当代の名士で、身分の上下を問わずその徳を賞賛していた。このたび…

天草騒動 「9. 白翁ヒヤン問答」

 そうこうするうち、珍しい問答を聞こうと中村の家に数百人が集まってひしめき合った。  ヒ…

天草騒動ハイライト2・蘆塚忠右衛門の最期

 天草騒動のテイストを知ってもらうために、ハイライト・シーンを少しだけここに掲載します。以下は、「64.蘆塚忠右衛門討死の事」から抜粋。 (落城後、一息ついていた幕府軍の前に、突然、一揆の軍師、蘆塚忠右衛門の率いる伏兵が現れる) †  最後の一戦で蘆塚は、紺糸縅の鎧に同じ毛の兜を着け、二尺五寸の太刀を佩き、十文字槍を小脇に抱え、佐志木佐治右衛門と池田清左衛門を組頭として左右にしたがえ、一揆四十人を後ろにしたがえて、真っ黒な集団となって討って出て、黒田の先手の野々村、浦上