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天草騒動

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島原の乱を題材にした江戸時代の実録物、『天草騒動』の現代語訳です。伝奇小説のような趣もあり、読み物としてたいへんに楽しめるものです。目次のページからお読みください。
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#天草四郎

天草騒動・目次

はじめに  島原の乱を題材にした江戸時代の実録物、『天草騒動』の現代語訳です。冒頭を読め…

天草騒動 「38. 大将四郎大夫蛇蝎退治の事」

 さて、寄せ手は城を遠巻きにして諸方への通路を遮断することになった。  寄せ手が一向に攻…

天草騒動 「35. 江戸表へ注進の事」

 さて、板倉殿をはじめとする軍監らが評議し、「この城の様子ではなかなか簡単には落とせそう…

天草騒動 「34. 鍋島甲斐守殿と千々輪五郎左衛門の戦いの事」

 さて、千々輪は黒糸縅の鎧に黒毛の兜を着け、大身の槍を引っ提げて、出丸の虎口から馬を乗り…

天草騒動 「33. 有馬・寺澤・松倉の三家の勢敗北の事」

 さて、立花勢は敗北して退いたが、正面の道筋は、松倉豊後守殿と寺澤兵庫頭殿の攻め口で、同…

天草騒動 「32. 原城最初の合戦の事」

 立花家の先鋒が城の近くに押し寄せ、「それっ、乗り込んで踏み潰せ。」と、空堀に飛び込んで…

天草騒動 「31. 鍋島甲斐守殿の乳母の願いの事」

 このたびの一揆追討の下知を受けて、西国の諸侯はそれぞれ島原に向けて発向した。その中に鍋島信濃守殿という方がいた。  信濃守殿の先祖は太宰少弐喜頼の末孫で、肥後国の住人龍造寺和泉守隆景の孫、平左衛門尉清久の後胤、父は鍋島加賀守直茂殿といって、関ヶ原の合戦の折りに家康公の内命を受けて幼少の公達や女中方を伏見城から京都に逃すことに成功し、大功をたてられた方である。  信濃守殿は、関ヶ原の合戦の際には西軍方として家康公に敵対していたが、合戦が終わった後、老父の加賀守殿の軍忠に免

天草騒動 「30. 将軍家大評定の事」

 評定の席で伊豆守殿が前に出て言った。 「水戸殿の仰せは至極ごもっともと存じます。それが…

天草騒動 「29. 原の古城を修復し要害を構える事」

 一揆方は緒戦に見事な勝利を納めたので、諸将が会所に集まって今後の方針を話し合った。その…

天草騒動 「28. 一揆の者、原村に集合の事」

 一揆の面々は葭田三平の謀計で城兵を欺き、思いのままに勝利を得ることができたので、今のう…

天草騒動 「27. 一揆の者ども兵糧武具を奪う事」

 高久城の城代、松倉重兵衛は、葭田三平の注進を聞いて急いで討手を出す準備をし、まず、家老…

天草騒動 「24. 渡邊小左衛門同意の事」

 寛永四年八月二十五日の巳の刻、一揆の者たちは富岡城に押し寄せ、城下の町にことごとく火を…

天草騒動 「21. 森布津村の者ども唐津勢を欺く事」

 原田をはじめ歴々のともがらは布津村代右衛門の弁舌に欺かれて、 「軍勢を村の中に入れて休…

天草騒動 「20. 天草四郎を大将に立てる事」

 ここに天草四郎という者がいた。  父は肥前国島原領原村の大庄屋(二十二か村、石高一万石の庄屋)で渡邊小左衛門といい、母は天草甚兵衛の妹であった。  夫婦の間に男子が生まれ、生まれてからまだ七日しかたたないのに目を動かす様子は百日も過ぎた幼児のようであった。色白で二歳から言葉をよく理解し、三歳で書をしたためたり謡をうたったりするなど、おとなのようであった。それを見る者は皆不思議なことと感じた。  父の小左衛門はもともと博学多才であったが、その子の四郎も父に劣らぬ秀才で、