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天草騒動 「33. 有馬・寺澤・松倉の三家の勢敗北の事」

 さて、立花勢は敗北して退いたが、正面の道筋は、松倉豊後守殿と寺澤兵庫頭殿の攻め口で、同日の卯の刻(午前6時頃)から攻撃を開始した。

 両家は自分らの領国から始まった一揆だったので当然先陣を承っていたが、平草山に一直線に攻め登る途中で、大手に向かった立花家がすでに戦いを始めたことを知り、なおさら勇んで坂の半ばまで押し登った。そのあとから、有馬家の父子兄弟が一万三千余人を従えて続いていた。

 この時、寺沢家の家老の三宅藤右衛門が主人の馬前に来て、

「この城は簡単には落とせないと思います。足場が良いように見えますが、戦いの際には思いのほか滑りやすい道で、なかなか難儀な場所です。中ほどの足場の良いところに旗を立てて勢を控えさせておき、万一味方が不利になった時、横合いから攻めかけさせるべきです。」と、進言した。

 もっともだと考えて寺澤と松倉の両家は坂の中央で控えることにした。両家の軍勢に隔てられて有馬家父子は麓に陣をしいた。

 城内の一揆は、寺澤と松倉の両家の旗を見ておおいに喜び、「他の敵よりもこの両家とこそ戦いたい。大将を討ち取って日頃の恨みを晴らそうではないか。」と、帯曲輪の守備についていた三千人余りが、赤星、駒木根、山田を将として、鬨の声を上げて討って出て、雨あられのように鉄砲を撃ちかけた。

 寺澤と松倉の軍勢は、以前の本渡島の戦いと下深江村の戦いにひどく懲りていたので、一揆を見ると寒気がするような気がして恐れおののき、なんとか鉄砲を撃ち返しただけでまったく戦おうとせず、足並みも乱れがちだった。

 そこに雷が一斉に落ちるように城から大石や大木を投げ落としたので、松倉勢はたまらずにどっと崩れたち、山を下りて逃げていった。これを見て寺沢家の先陣も一緒に敗走した。

 平草山で足場もないので、一度敗走を始めると一人も引き返して戦う者はいなかった。

 一揆はその機に乗じて鬨の声をあげながら寺澤と松倉の両家の旗を目標にしてまっしぐらに追いかけた。

 そこに、寺沢家の家老の三宅藤右衛門がたった一人で踏みとどまり、大薙刀を水車のように回して、たちまち一揆を二三人左右に薙ぎ倒し、そのまま芝の上に立ち止まって、追いかけてきた一揆の者を薙ぎ払い薙ぎ払い六七人まで切り捨てた。その勢いは凛々として、それ以上向かっていく者もいなかった。それを見て、山の上でも下でもどっと声をあげて、天晴れな勇士と賞賛した。

 そのうち城内で引き上げの合図のほら貝を吹いたので、人々は兵をまとめて城に引きあげた。

 赤星も人々と一緒に曲輪に戻り、「寺澤と松倉の面々は今日の恥辱をいつかそそごうと思っているだろうが、命拾いできて感謝してほしいぐらいだ。」と、手をたたいて笑い罵った。

 また、同日午の刻(正午頃)には、鍋島勢が出丸口に向かった。そもそもこの出丸は、山裾から鴨の首のような形で突き出した松山につくられており、上は広いが山裾の通路はことのほか狭い場所である。立花家が大手に攻め登って鉄砲の音がしきりに聞こえ、中の手では寺澤と松倉両家の軍勢が進軍するのを見て、鍋島信濃守殿が下知して全軍で一斉に登り始めた。

 出丸を守っている将兵は、柄本つかもと左京、佐志木佐治右衛門が指揮する二千人余りであった。鉄砲百挺で持場を固め、鍋島殿の軍勢に一斉に激しく撃ちかけた。

 鉄砲の音が谷にこだまして凄まじく、そのうえ大木や大石をしきりに投げ落としたので、鍋島家の勢は谷底に落ち、人を楯にしてこらえるのがやっとで登りかねる状況だった。しかし、大軍だったので死骸を乗り越え乗り越え、だんだん押し登ってきた。

 そのような中を、十九歳の鍋島甲斐守直澄殿は、水色縅みずいろおどしの鎧に金の唐冠の兜を着け、紅の母衣ほろをかけて白旗を指物とし、霜枯れした芝原を悠然としてただ一騎、楯もかざさずに登っていった。

 この場所は徒歩でも滑る道なのに、昨晩の時雨で凍った場所を平坦な場所であるかのように馬を乗り回すので、敵も味方もこれを見て、あれよあれよと驚き、感嘆の声が山谷に響き渡った。

 鍋島勢は主人が登るのに続いて、われ劣らじと攻め登り、塀の間際まで押し寄せた。

 三の丸の総大将の千々輪五郎左衛門はこのありさまを見て、「このような時のためにこの曲輪をつくっておいたのだ。さあ撃ち落としてくれよう。」と、横合いの谷の平場に配置させておいた百挺の鉄砲に下知して、一斉にどっと撃ちかけさせた。

 もともと鍋島勢は蜘蛛の子が集まったように密集していたため、逃げようもなくばたばたと打ち倒された。

 先鋒はこのようにおおいに難渋したが、麓には主君の信濃守殿が厳然と陣を張って控えており、先頭には甲斐守殿が馬に乗って登っていくので、たとえ的になって討死してもしかたないと、一人も退かずに楯や竹束をかざして横矢を防いで登っていった。

 出丸の将の柄本左京と佐志木佐治右衛門がこれを見て大音声で下知し、城兵は例の大木や大石を一斉に投げ落として、鬨の声をあげた。

 寄せ手がたまらず混乱して退却しようとするところに、柄本と佐志木が先頭に立って、一千人余りでどっと繰り出した。その勢いに鍋島家の軍勢は乱れ立ち、険しい攻め口で思うように退却できず、人雪崩をうって敗走した。

 ところが、甲斐守殿の乗った馬は少しも怯まず、流れ矢も一本も当たらずに、その中を縦横に駆けめぐっていた。

 甲斐守殿が槍を引っ提げて攻めて行こうとするところに、守役の鍋島三左衛門が走ってきて甲斐守殿の馬のくつわに取りすがって引き止め、「もったいないことです。大将が自分自身で向かって行くところではありません。ひとまずここから退却してください」と、諌めた。

 甲斐守は眼をいからし、「なんで百姓ばらに追い立てられて逃げることができようか。何としても押し登って出丸を踏み破ってくれる。離せ、離せっ」と、手綱を引き絞って鬼神のように登っていった。

 それを見て、若侍五六十人が大将を討たせてはならないと、足を踏み直して槍先をそろえて一揆の中に突き入った。

 もともと甲斐守殿は馬術の達人だったので、蹴り倒し、跳ね返し、近くに敵を寄せ付けなかった。

 父の信濃守殿は麓に馬を止めて遥かにそれを見て、「甲斐守を討たすな」と、しきりに下知したので、総勢二万人余りが潮の湧くようにどっと喚声をあげて押し登り始めた。

 柄本と佐志木はかなわないと見て勢を引き上げようとしたが、そのような中にあって、一揆の頭分の楠浦八郎兵衛が甲斐守殿を見て名乗りを上げ、「天晴れな敵の戦いぶりよ。この人を討ち取れば寄せ手は総崩れになろう。」と、槍を振るって甲斐守殿に突きかかった。

 甲斐守殿も槍をひねって向かっていき、突けば払い、払えば突いて、互いに負けじ劣らじと電光石火のように槍を閃かせた。どちらが勝つか勝負は見えなかった。

 一度、八郎兵衛が槍先鋭く甲斐守の胸板めがけて突いたところ、茗荷の紋の胸金物に当たって、槍の穂先が折れてしまった。八郎兵衛は、これは無念と槍を投げ捨てて生け捕りにしようと駆け寄ったが、甲斐守殿が馬に一蹴り入れて向かって行ったところ、馬は前足を上げて八郎兵衛をどっと踏み倒した。

 甲斐守殿はすかさず槍を逆手に取って楠浦の胸元をぐさっと突いてとどめをさした。天晴れな働きであった。

 佐志木はこのすきに人々をまとめて出丸の中に引き返した。

 麓では信濃守殿が下知して引き上げのほら貝を吹かせ、「甲斐守の武勇の働き、見事である。今は早く引き返せ」と、使番をやって伝えさせた。しかし、甲斐守殿はその下知に従わず、いよいよ猛りくるって前進し、松山に乗り込もうと登っていった。

 千々輪五郎左衛門が横合いからそのありさまを見て、

「すでに大手の寄せ手はことごとく引き上げたのに、あの大将一人は馬術も武術も鬼神のような働きをしている。あの者さえ討ち取れば残りの兵はものの数ではない。ここは大矢野の持場だが、彼は本丸に行ってまだ戻らない。あの大将を生かしておいては後悔することになるであろうから、わしが一突きに討ち取ってくれる。」と、槍を引っ提げて馬にまたがり、まっしぐらに駆け向かった。


34. 鍋島甲斐守殿と千々輪五郎左衛門の戦いの事

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