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天草騒動 「31. 鍋島甲斐守殿の乳母の願いの事」

 このたびの一揆追討の下知を受けて、西国の諸侯はそれぞれ島原に向けて発向した。その中に鍋島信濃守殿という方がいた。

 信濃守殿の先祖は太宰少弐喜頼の末孫で、肥後国の住人龍造寺和泉守隆景の孫、平左衛門尉清久の後胤、父は鍋島加賀守直茂なおしげ殿といって、関ヶ原の合戦の折りに家康公の内命を受けて幼少の公達きんだちや女中方を伏見城から京都に逃すことに成功し、大功をたてられた方である。

 信濃守殿は、関ヶ原の合戦の際には西軍方として家康公に敵対していたが、合戦が終わった後、老父の加賀守殿の軍忠に免じてその罪を許されたのみならず、本領も安堵された。その後は徳川家に忠勤して、武名も高く繁栄していた。

 信濃守殿の次男の甲斐守殿は妾腹の子であったが、信濃守が特に愛情をそそいでいた。守役には鍋島三左衛門という無二の忠臣がなり、御出生のみぎりから大切に育てられた。

 ところが、甲斐守殿はなぜか乳母に縁が薄く、さまざまに吟味して召し抱えても十日もたたないうちにやめてしまい、一か月も勤められる者がいない。大名の乳母はひどく気詰りなもので長く勤めるのは難しいが、このようにすぐにやめてしまうことは稀で、三左衛門はおおいに気をもんでいた。

 ちょうどその頃、三左衛門の妻が出産したが、さいわい乳が十分に出て、また、これまでのようにすぐにやめてしまう心配もないので万事都合がよかろうと考えて、自分の子には乳母を雇い、妻を乳母として差し出した。すると、この乳母にはよく馴染まれ、その後は丈夫に育っていき、三左衛門夫婦の丹誠によって当年で十九歳になられた。

 この若殿はうまれつき賢く、文武両道に練達して力も衆にぬきんでていたので、成長後も三左衛門夫婦が心を合わせて昼夜おそばを離れず大切に保護してきた。しかし、次男でその上妾腹の子なので、家督を継ぐことは難しく、将来は家臣の列に加えられることが予想された。そこで夫婦は、なんとか勲功を立てて別家の大名として取り立ててもらえるようにと、神仏に祈願していた。ちょうどその折りに、今回の島原出陣のことがもちあがったのである。

 乳母は、婦人ながらも安閑とあとに残っていることができず、御出陣のお供を願い出ようとしたが、甲斐守殿も三左衛門も、世間の手前もあるからでしゃばらないほうがよいと止めた。

 乳母は、

 「仰せはごもっともですが、昔から陣中へ女を伴った例がないわけではありません。木曾義仲公は巴御前を戦場に連れて行って一方の大将にされました。また、じょうの四郎の姉の板額女はんがくじょは越後国の磐船城を守って鎌倉勢と戦い、結城友光の母は主君の公達を守って軍中で介抱しました。最近では、慶長五年の乱の際に山口右京の乳母が戦場で働きましたが、いずれも武勇の名が高く誉れを後世に残して、笑う人は一人もおりません。だから是非お供させてください。」と懇願した。

 甲斐守が父の信濃守殿に「いかが致しましょう」と伺ったところ、「乳母の気持ちももっともだが、近頃は世の中の流儀が変わって、戦場に婦人を連れて行くのは聞こえが悪い。絶対にいけない。」とのことだったので、力なく留守に残ることになった。

  一人残されて乳母は、
「いかに女の身とはいえ、遠い唐土はいざ知らず、わが国では昔から女が戦場に行った例は少なくない。乳母になってから幾星霜の間、一日はおろか片時もおそばを離れずに守護してきたそのかいあって、すこやかにご成人されただけでなく文武両道にすぐれた武士になられて、今度のご出陣にも同道されることになったのに、世が世だからといって私のお供が許されないとはどういうことだろうか。考えると口惜しい。」と、一人でつくづく考え、「思えば口惜しい。どうしよう、どうしよう。」と、天を仰ぎ地に伏せて正体もなくなるほど嘆いた。

 しばらくして気を取り直し、
「こうなった上は留守を守っておめおめと生きながらえてもどうにもならない。以前から祈願していた産土神うぶすながみの生け贄にこの身を捧げて、死んでも魂魄としてこの世にとどまって若君を守護しよう。そうだ、そうだ。」と、身を起こし、城内から忍び出て、細い山道を伝い峨々たる岩を踏みしめて山中深く分け行った。

 そこには、陰々として樹木が茂り、粛然として神寂びた社があった。これは、瀧尾たきのおの明神という霊神である。

 乳母は傍らの谷間の滝壷に降り立って、ただ一心に、
「わが君の武運長久、わけても今度のいくさで天晴れな功名をあらわされ、御別家として立たせ給え。」と祈願し、滝に打たれて身を清め、やがて社に参籠してそのまま断食を始めた。

 「私は婦人なのでいくさの供を許されず、よってこの身を生け贄とし、魂だけでも戦場に行って昼夜付き添い、わが若君を守りたい。」と、一心に思い詰めた忠義の身は少しも動かず、そのまま数日こもって祈願して、とうとう亡くなってしまった。年齢は五十八歳であった。

 数代禄を食んだ男子でもこのような時には尻込みする薄情な世の中にあって、婦人の身でありながらその主人のことをここまで思うのは稀で、「またと得難い女丈夫」と後世の人が称えているが、まことに忠義のかがみというべき行いであった。

 夫の三左衛門は出陣していたのでこのことを知らなかったが、後に自分の妻のことを聞いて、その忠義を喜び感嘆したということである。

 さて、征討軍の面々がだんだんと布陣してきたので、城中ではこれを見て、かねて予想していたことなので手配りを決めた。

 まず、本丸には大将の渡邊四郎大夫時貞、それに従うのは天草甚兵衛、天草玄察、森宗意軒、有馬休意、蘆塚忠大夫、蘆塚左内、この六人を物頭として一揆二千余人。

 二の丸には、蘆塚忠右衛門、組下四鬼丹波、時枝隼人、堂島対馬、上総三郎左衛門、駒木根八兵衛、鹿子木左京、そして一揆二千余人。

 三の丸には大矢野作左衛門を大将として、頭分には大江治兵衛、有馬久兵衛、戸島助左衛門、千束善左衛門、菅沼善兵衛、大場作左衛門、一揆二千余人。

 帯曲輪おびぐるわには大将千々輪五郎左衛門、赤星内膳、頭分として葭田三平、山田右衛門、楠浦八郎兵衛、三浦四郎兵衛、一揆五千余人で固めた。

 大手口には布津村代右衛門、軒山善左衛門、一揆千五百余人。

 二の丸馬出しには田崎刑部一千余人。

 出丸には柄本左京、佐志木左治右衛門、二千余人。

 夜回り頭は、池田清右衛門、香取角助、使番目付役十人。旗奉行は、天草玄察。兵糧奉行に森宗意軒、有馬休意。

 合わせて総勢三万千三百余人、鉄砲七百挺、馬七十匹、兵糧大豆八万俵であった。

 また、女子供には細谷の浜辺に出て海草を取らせて、食物の助けにした。

 城内では二間おきに旗を一本づつ立てた。みな白木綿だったので、山の上は白雲がたなびくようであった。

 死を覚悟した諸浪人の勇士をはじめとして一揆の百姓二万人余りが、寄せ手が来たら一戦しようと待ちかまえた。

 寄せ手の方では、いよいよ来たる十一月二十四日に総攻撃と決定した。

 大手の先陣は立花左近将監殿父子、その勢一万余人。

 それに続いて板倉内膳正殿、その勢三千余人。

 幕府の諸役人が付き添った中軍は、有馬家一万余人。寺澤、松倉両侯の軍勢も中軍に入っていた。

 出丸口には鍋島信濃守殿父子とその勢一万余人。

 総勢合わせて四万五千人余りが、楯や竹束を用意して、鬨の声をあげて押し寄せた。

 大手の先陣の立花左近将監殿はもともと武勇の誉れの高い家だったので、軍勢が勇み立って、二十四日の寅の刻(午前四時頃)に城下に押し寄せ、例の芝山を少しづつ攻め登り始めた。その勢いは凄まじいものであった。

 大手曲輪は千々輪五郎左衛門を大将として頭分九人が固く守っており、音もたてずに旗指物を残らず伏せて、敵勢を今や遅しと待っていた。

 そこに、立花家の先陣の小野和泉、十時ととき三弥さんや、立花三郎右衛門が三千人余りを率いて勇んで押しかけた。

 ところが城内は静まり返っているため、小野、十時、立花の三人は、「さては一揆の者はかなわないと思って早くも本丸に退いたのであろう。一斉に攻撃して踏み潰せ。」と、大音声で下知した。

 三千人余りの兵士は、われ劣らじと塀の下にひしひしと押し寄せ、今にも城内に乗り込もうという勢いであった。


32. 島原城最初の合戦の事

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