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天草騒動 「30. 将軍家大評定の事」

 評定の席で伊豆守殿が前に出て言った。

「水戸殿の仰せは至極ごもっともと存じます。それがしは最初からそのように考えていたのですが、総じて御政道はできるだけ内輪で取り計らうことが肝要ですから、穏便に事をおさめることができればこれに過ぎたことはないと考えたのです。このたびの一揆では謀反人が百姓に加わって事を企てているようではありますが、ただの百姓一揆ということにして穏便にすまそうと思っていました。

しかし、さまざまな噂が流れて世間が騒がしくなっておりますので、島原からの注進に従って御命令通り私どもが追討使として下向し、西国の大名に下知の趣きを申し伝えましょう。はかりごとは密なるをもってよしといいますから、今まで黙っていたのです。しかしながらただいまの光国公の仰せがあったので、本心を申し上げました。誰かを追討使として遣わされるのがよいと存じます。」

 これを聞いて水戸殿も伊豆守の深い知謀に感心し、このことを将軍家に申し上げた。

 将軍家は、鍋島、有馬、立花の三侯をさっそくお召しになり、「このたびの事は百姓一揆とはいえ大勢のことなので、取り鎮めるために追討使を遣わすことになった、追討使に加勢し、その下知を守って戦功をあげよ。」と申し渡し、拝領物を賜ってお暇を下された。また、三侯の軍勢には一隊ごとに御目付役をつけることになった。

 次に、追討使として遣わす老中を決めるための評議に入ったが、大阪の陣でも戦功があったことだから板倉内膳正ないぜんのかみ殿がよいだろうということになった。

 板倉殿を召し出されて、「このたび、島原等の一揆の追討使を申し付けるので、情勢に応じて近国の諸大名に下知し、軍令をただして不覚の無いように指図せよ。」との上意があった。

 時服と黄金を賜ったので、内膳正殿は、「大勢の中から私が討手に選ばれたことはありがたく、面目至極に存じます。百姓一揆とはいいながら大勢が立てこもっているとのことですから即時の平定は難しいと思います。しかし、できるだけ早く鎮定致す所存です。」と追討使になることを承知し、すぐさま退出して急いで出陣の用意をととのえて出馬した。

 また、豊後の代官の石谷いしがや十蔵殿と牧野伝蔵殿には、兵糧等を準備して万事板倉内膳正の下知に従うようにと御奉書で命令した。

 さて、板倉殿は軍勢三千人余りを率いて武威を輝かせて進軍していった。幕府の御威光によって道中の城主や領主は御馳走役人らを出してもてなし、毎日とどこおりなく進んで大阪に到着され、そこから船にのって豊後の府内に着いた。そこで石谷殿と牧野殿と兵糧のことを打ち合わせ、十月二十五日、島原に着陣した。

 城主の松倉豊後守殿は前から上使を待ち受けていたので、さっそく本丸に招き入れ、軍勢は藩士の居宅を空けさせてそこに滞在させ、当面の陣営とした。

 上使が下向してきたという知らせを受けて、周囲の諸侯や役人はその下知を待っていた。

 そこで、長崎代官の馬場三郎左衛門殿には、長崎表を堅固に守るべしと下知した。

 また、寺澤志摩守殿の領地である天草の一揆の追討は、先に細川越中守殿らに仰せ付けてあったが、越中守の軍勢が出陣したところ一揆の者はことごとく天草を引き払って一人もいないので、越中守殿は島原へ追討に向かいたい旨の願いを申し出ていた。そこで、それを許した。

 また、寺沢家でも、領内は静謐になったがもともと自分らの領民から始まったことなので、これも願い出て討手として島原へ向かった。

 このたび追討使が下向して近国の大名が次々と出陣し、きっと一揆の徒も降参するだろうと予想していたところ、思いのほかに一揆方は幕府軍を少しも恐れる様子がなかった。

 蘆塚忠右衛門が忍びの者を出して様子を窺わせたところ、十月二十五日に追討使の板倉内膳正殿が到着したということだったので、蘆塚忠右衛門はひとつの謀計を行った。

 夜中に原城内から忍び出て、折詰一組と酒一荷、それに青籠に入れた酒の肴を運び、文箱の上に「追討使に捧ぐ」と書き付け、これらを密かに陣門の番所の脇に置いておいた。

 夜が明けて番人がこれを見つけて報告したので、ただちに石谷殿と牧野殿が見に行き、これは百姓どもが上使をもてなそうとして差し入れたものだろうと思って開けてみた。

 すると、折詰の中には饅頭が入っていて、非常に丁寧に仕上げてあり、京都の製法にもまさる物であった。青籠の中は上等な魚がいろいろ入っており、生きているかのような鮮魚であった。「このような物が城内にあるとは考えられない」と、それを見た者は皆不審に思った。これは、原城内に万事不自由の無いことを見せつけて幕府の軍勢を驚かすための蘆塚の策であった。

 さて、文箱を開けてみると一通の手紙が入っていた。その文には次のように記されていた。


 恐れながら謹んで申し上げます。このたび遠路はるばる上使が御下向になり御人数を差し向けられる事、私どもにとって冥加至極で外聞もよろしく、一同ありがたく存じ奉ります。天草島ならびに島原領内の百姓どもは、地頭の寺澤、松倉両人の邪欲が深く、その苛政に苦しむこと久しく、生涯安楽には暮らせそうにないため、粗忽ではございますが、このたび耶蘇宗門を信仰して未来に望みをつなぐことに致しました。公儀の御法度に背きましたことは死罪のほかになく、よってやむをえずこのように蜂起に及ぶ事になりました。厳しく御征伐を加えられるということですので、一戦の時をお待ち申し上げております。

恐惶謹言

寛永十四年十月二十六日

赤星 内膳   
天草 甚兵衛  
森  宗意軒  
天草 玄察   
大矢野作左衛門 
千々輪五郎左衛門
蘆塚 忠右衛門 
一揆頭取  渡邊 四郎大夫 

追討使の君へ



 この手紙を読んだ者は全員怒り狂い、「無礼千万、憎き奴らめ。公儀を軽んじ、武家を侮り、このうえもない逆賊どもだ。急いで踏み潰してくれよう」と、軍勢を集めた。

 馳せ集まった面々は、龍造寺の城主、鍋島信濃守直隆殿父子三人とその軍勢二万三千余人、立花左近将監殿と立花飛騨守殿七千余人、有馬中務大輔殿、有馬玄蕃頭殿、有馬左衛門尉殿とその軍勢八千余人、そのほかの軍勢を合わせると総勢四万五千人余りにおよんだ。

 皆、征討使の下知を守り、島原高久の城下に陣を張り、明日から攻めかかって短兵急に攻め落とそうと評定して、竹束などの攻め具を準備した。

 城中では蘆塚の計略にしたがって、徹底的に寄せ手を侮辱して怒らせ、籠城戦で味方が有利になるように守備を固めて、鉄砲を配り、一斉に撃とうと待ちかまえていた。

 板倉内膳正殿もいくさ上手だったので、まずは城の様子を窺ってから攻めようと、大物見に出られ、近くから城の四方を一通り偵察した。

 板倉殿は城を見たあと、「この城はことのほか堅固に見えるので、この様子ではすぐには落とせそうにない。まず、この旨を江戸表に報告しよう。しかしながら城攻めを遅らせるべきではない。」と評議し、十一月二十四日に一揆の城郭の攻撃を開始することに決定した。


31. 鍋島甲斐守殿の乳母の願いの事

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