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天草騒動 「29. 原の古城を修復し要害を構える事」

 一揆方は緒戦に見事な勝利を納めたので、諸将が会所に集まって今後の方針を話し合った。その席で蘆塚忠右衛門が言った。

「このたびの一揆の発端は八月十一日である。その後、最初の戦いは本渡村と島子村の合戦で八月二十一日だった。富岡城の城攻めは二十三日で、また、島原深江村の戦いは九月五日だった。

このような経過を考慮すると、きっと諸方から江戸表に注進があって、この十月にはきっと討手の大軍が押し寄せるであろう。いまのうちに他領へ討って出たいのだが、なにぶん大将になれる人物が不足しているので、兵力を分散できるほどの余裕はない。かといって、この場所で大軍を迎え撃つのは、なおさら不安がある。今ここで島原城を攻め取るのは容易だが、城内が狭くて大軍がたてこもるにはむいておらず、大軍は迎え撃てない。

先日来、適当な場所がないかと吟味していたのだが、九州の中を考えてみると、原の古城は日本屈指の地形につくられている。あの城はまだ破却されたとは聞いていない。もとは鍋島の支城であるが、鍋島の先祖の龍造寺和泉守隆景は武勇にすぐれた人物だったので、戦国の時に天草島に引きこもり、この島原の要害を支城として当国を討ち平らげ、子孫に至るまで九州で繁栄する基となった。しかし、この城は、慶長六年の秀吉公の天下一統の時に落城してしまった。そのあと大破したものの城の形はそのままとどめているようだ。

城の東南には広大な蒼海が万里に広がっており、海岸は屏風を立てたような切り立った絶壁で、その険阻なことは言葉では言い表せない。常に荒波が岸を洗っていて、船を岸に寄せる術がない。また、北は広い泥田で人馬の足が立たず、山上には城郭がそびえていていつも霧が朦朧とたちこめている。頂上の平場は百間四方もあろう。西は高さ七八町あり、そこが滑らかな芝に覆われていて、人馬の足場が定まらない。

敵が攻め寄せられるのは、大手のただ一方だけである。大手の道筋はおよそ百町余りにおよぶが、道幅はわずか二町ばかりである。南側に突き出した岬があって、これは昔、出丸として使われていたという。

実に要害堅固な城地で、敵を防ぐには最適な所である。たとえ十万二十万の軍勢で攻めようとも、容易に落ちる城ではない。男女大勢が立てこもるのに適した場所なので、これを修理して籠城しようと思う。おのおの方、いかに。」

 全員、「一刻も早く修復にとりかかりましょう。さいわい明日は最上の吉日なので手釿ちょうな始めにうってつけです。忠右衛門殿、万端お指図ください。」と、賛同した。

 ただちに二万人の百姓どもは一斉に修理に取り掛かり、民家を壊して良い材木を運び、本丸、二の丸、三の丸、総曲輪そうくるわ、櫓や役人の部屋に至るまで、日数を経ずに完成した。もっとも、塀などは、畳や戸板の類を立てて土を塗ったり白い紙を張ったりし、黒い所は墨で塗りあげたものだったが、遠目には本物の壁のように見えた。

 普請が終わって、十月十四日の吉日に大将の四郎大夫時貞が入城した。その他の一統もあとに続いて城に入って各人それぞれの持場を固め、総勢二万千三百人余りが蘆塚の法令をよく守って少しも乱れず、整然として籠城を開始した。

 この時に至って、西国九州の諸侯や代官からの注進が櫛の歯を挽くように江戸表に寄せられた。

 その道中筋ではかえって事実がわからず、異国からの大軍が押し渡ってきて西国に攻め込んだという噂が流れ、たいへんな騒動であった。皆不安になり、家財道具を片付けたり、老人や子供を遠い親類に預けたりして、上を下への大騒動だった。

 さて、これらの注進によって、江戸表では御老中の阿部豊後守殿、安藤対馬守殿、松平伊豆守殿、板倉内膳正殿や若年寄の太田備中守殿、朽木民部少輔殿、三浦志摩守殿などをはじめ、御役人が残らず召し出された。

 将軍家が出御され、「このたびの儀、百姓一揆とはいいながら大人数が集まって狼藉を働いている由、捨て置き難い。ただちに討手を差し向けて征伐せよ。」との上意であった。

 誰一人言葉を発する者はいなかったが、幕閣一の知恵者、松平伊豆守殿が、

「このたびの注進の趣きをよく聞いてみると、寺澤、松倉の領地では政道が正しく行われていなかったようです。非法があったために百姓どもが奉行と代官を殺害してしまい、ついに一揆を企てたということです。

誰かが上使として下向すれば、きっとその趣意を訴えて来ることでしょうから、その趣意をお聞き届けになれば一揆はたちまち鎮まるでしょう。大将もいないのに公儀に向かってどうして弓を引くことがありましょうや。

まず、寺澤と松倉の両人に、領地に帰って取り鎮めるよう命じるのが良策でございましょう。」と申し上げた。

 将軍家ももっともと思し召されて、ただちに寺澤と松倉の両侯にお暇を下され、帰国して一揆を鎮めるよう申し渡した。両侯は仰せを受けてすぐに出発し、道中を急いで帰国した。

 帰国してからよく考えてみると、
「もしも地頭に恨みがあって役人を殺したのなら、江戸に出て公儀に願い出るはずである、それなのにどうして百姓どもは一味徒党して命を捨てようとするのだろうか。ひょっとしたら、先年の関ヶ原や大阪の合戦の残党が集まって、困窮したために事を起こしたのではあるまいか。いずれにしても、大騒動になってしまい、なかなか我々の手勢だけでは取り鎮めるのは難しい。このことを公儀に申し上げて討手を遣わしてくださるようにお願いしよう。」と、注進状をしたためた。

 その注進状には、「一揆どもは肥前島原の古城を修復して、その勢五万人余りが立てこもっており、想像以上に強大な勢いを誇っていて、とても私どもの手勢では征伐し難く、なにとぞ討手の軍勢を差し向けていただきたく、この段願いたてまつります。」と、したためられていた。

 公儀でも寺澤、松倉両侯の願いを受けて、御三家、御家門をはじめとして諸役人が登城され、さまざまに評議した結果、まず御目付役二人を遣わされて一揆の動静を探らせ、もしも先方からの訴えがあれば一通り聞いて、ただちに江戸表に注進させようということに決まりそうになった。

それを聞いて、水戸宰相光国公が井伊掃部頭かもんのかみ殿をお召しになり仰せになった。

 「私が考えるに、はなはだ合点のいかない評議の結果である。このたびの一揆の発端は切支丹宗がからんでいるというし、天草島での本渡・島子の合戦の様子を聞くと、すべてが百姓だけのしわざとは思えない。一揆の中に軍略に長けた者が混ざっていて指図しているものと思われる。

こうした情勢を勘案すると、追討使として老中の一人がまかりこし、変に応じて西国の大名に下知して討手を申し付けるのがよいと思う。これまで何度も注進があったのにこのように延び延びになったため、一揆どもはますます狼藉を重ね、それにしたがって近くの村の者どももやむを得ず一揆に味方して多勢になったのであろう。できるだけ早くこのことを評決してもらいたい。」

 光国公の仰せに掃部頭殿も同意し、「伊豆守には何か考えがあるものと存じますが、御沙汰の趣き申し伝えます。」と答えて、老中方に光国公の意向を伝えた。

 これによって、またまた大評定になった。


→ 30.将軍家大評定の事

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