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天草騒動

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島原の乱を題材にした江戸時代の実録物、『天草騒動』の現代語訳です。伝奇小説のような趣もあり、読み物としてたいへんに楽しめるものです。目次のページからお読みください。
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2023年10月の記事一覧

天草騒動 「33. 有馬・寺澤・松倉の三家の勢敗北の事」

 さて、立花勢は敗北して退いたが、正面の道筋は、松倉豊後守殿と寺澤兵庫頭殿の攻め口で、同…

天草騒動 「32. 原城最初の合戦の事」

 立花家の先鋒が城の近くに押し寄せ、「それっ、乗り込んで踏み潰せ。」と、空堀に飛び込んで…

天草騒動 「31. 鍋島甲斐守殿の乳母の願いの事」

 このたびの一揆追討の下知を受けて、西国の諸侯はそれぞれ島原に向けて発向した。その中に鍋…

天草騒動 「30. 将軍家大評定の事」

 評定の席で伊豆守殿が前に出て言った。 「水戸殿の仰せは至極ごもっともと存じます。それが…

天草騒動 「29. 原の古城を修復し要害を構える事」

 一揆方は緒戦に見事な勝利を納めたので、諸将が会所に集まって今後の方針を話し合った。その…

天草騒動 「28. 一揆の者、原村に集合の事」

 一揆の面々は葭田三平の謀計で城兵を欺き、思いのままに勝利を得ることができたので、今のう…

天草騒動 「27. 一揆の者ども兵糧武具を奪う事」

 高久城の城代、松倉重兵衛は、葭田三平の注進を聞いて急いで討手を出す準備をし、まず、家老二人を城の留守居とし、勘定頭、町奉行をはじめ、城番組とともにその勢三百人余りを城に残して守備を固めさせた。  また、討手の大将には松倉重兵衛を任命し、筒井丈右衛門、小野小介、佐脇七郎右衛門の三人の番頭と、騎馬武者三十九人、歩卒四十四人、鉄砲五十挺、長柄の槍三十筋、旗十流、総勢あわせて五百人が、寛永十四年九月二十六日卯の上刻に城を出て下深江村の草原に押し寄せた。  百姓どもが案内に来るだ

天草騒動 「26. 深江村一揆に味方する事」

 佐々木佐治右衛門は、翌朝、村じゅうのおもだったものを呼び寄せ、 「わたしには年来の宿願…

天草騒動 「25. 渡邊小左衛門召し捕らえられる事」

 さて、九州の諸侯は、天草で起きた騒動に対処するために、城下はいうに及ばず津々浦々まで軍…

天草騒動 「24. 渡邊小左衛門同意の事」

 寛永四年八月二十五日の巳の刻、一揆の者たちは富岡城に押し寄せ、城下の町にことごとく火を…

天草騒動 「23. 三宅藤右衛門後詰め働きの事」

 深木七郎右衛門は一旦は一揆を破ったが、蘆塚の指図で配下の者をほとんど討たれてしまった。…

天草騒動 「22.蘆塚知謀をもって唐津勢を破る事」

 その夜の深夜、一揆の者らは用意万端ととのったので、村の家のあちこちに火をかけ、「火事だ…

天草騒動 「21. 森布津村の者ども唐津勢を欺く事」

 原田をはじめ歴々のともがらは布津村代右衛門の弁舌に欺かれて、 「軍勢を村の中に入れて休…

天草騒動 「20. 天草四郎を大将に立てる事」

 ここに天草四郎という者がいた。  父は肥前国島原領原村の大庄屋(二十二か村、石高一万石の庄屋)で渡邊小左衛門といい、母は天草甚兵衛の妹であった。  夫婦の間に男子が生まれ、生まれてからまだ七日しかたたないのに目を動かす様子は百日も過ぎた幼児のようであった。色白で二歳から言葉をよく理解し、三歳で書をしたためたり謡をうたったりするなど、おとなのようであった。それを見る者は皆不思議なことと感じた。  父の小左衛門はもともと博学多才であったが、その子の四郎も父に劣らぬ秀才で、