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天草騒動 「25. 渡邊小左衛門召し捕らえられる事」

 さて、九州の諸侯は、天草で起きた騒動に対処するために、城下はいうに及ばず津々浦々まで軍勢を出して厳重に防備を固めた。

 なかでも肥後国の玉川尻では、執権の長岡監物の下知で、野田武平太や川林頼母たのもなどの家人に猟師や船頭のなりをさせて見張らせ、もしも敵が来たら合図して四方を囲んで討ち取ろうと前もって準備して待っていた。

 渡邊小左衛門はこのような用意があるとは知らず、ひそかに船から上陸したが、それを野田武平太の配下が見つけて注進して合図の笛を吹いたので、「それっ、曲者をのがすなっ」と、数十人が小左衛門を取り囲んだ。

 小左衛門は足の弱い老母らを連れていたので言い逃れられるなら言い逃れてみようとして、「これは何ゆえの狼藉でしょうか。我々は決して不審なものではございません。」と言ったが、相手は聞く耳持たず縄を掛けようとした。

 仕方なくあちらこちらと逃げ回って捕まるまいとしたが、ついに大勢に取り囲まれて連れの者と一緒に捕まってしまった。

 その時、川林頼母が大声をあげ、「一揆の首謀者天草四郎の父、渡邊小左衛門がここに来ることは忍びを使ってとっくに調べあげてある。尋常に縄目を受けろ。」と叫んだ。

 小左衛門はせめて母を救いたいと思い、「しばらくお待ちください。私は渡邊小左衛門でございますが、御不審をこうむるようなことは身に覚えがありません。」と言い訳した。

 しかし、聞く耳持たず、川林自身が彼に縄を掛けて長岡監物に引き渡した。

 長岡監物は小左衛門を呼び出して、今度の天草の一揆の原因と、小左衛門の息子の四郎が大将になったわけを糾明した。

 小左衛門は何も知らないと弁解し、また、耶蘇宗門などいうものはなおのこと知らないと言った。

 監物は小左衛門をよく観察したが、老母を送ってこのようなところまで出向いて来たところをみると一揆の首謀者ではあるまいと判断して、それほど厳しくは取り調べず、まず牢に入れることを申し渡して警備の者をつけて守らせた。

 蘆塚はこれを聞いて、
「この事態を予想したから引き止めたのに聞き入れてもらえず、このようなことになってしまった。こうなってはどうしようもない。このうえは深江村に行き、佐志木に声をかけて一揆を起こさせ、せめて小左衛門殿の仇を討ちたいところだが、こんな事態の時に小左衛門殿の命を救うのは難しかろう。無理におこなえば必ず大望が失敗するきっかけになろう。しかし、このことを四郎殿に隠しておくわけにもいくまい。」と考えて手紙をしたため、

「小左衛門殿にはお気の毒であるが、日本にも中国にもこのような例は少なくありません。漢の高祖は父親を敵に捕らえられてかえって勇気を出し、戦いに勝ちました。天運が至れば再びお還りになるでしょう。」と伝えた。

 四郎は父が囚われの身になったのを知っておおいに驚いたが、蘆塚の諌めの手紙を読んで、

「父のことはいまさらしかたない。人間にとって父と子が離別するほど悲しいことは無い。しかしながらこのような大望を思い立った上は誰もが死を覚悟しているのだから、離別をいまさら嘆くにはおよばない。ただ大望を実現するのを第一と考えている。生きているうちは富貴で父母の弔いをすることを願い、死後は天上の耶蘇の国に行って永遠の幸福を得ることを願っている。したがって、何も気に病むことはない。」と返答した。

 蘆塚はこれを見て、「あっぱれ、大将の器量をお持ちになっている」と感心して人々に言って聞かせ、深江や三江の兵糧米を奪い取って足元を固めよと言いつけた。

 そのころの高久たかひさの城主は松倉豊後守だった。城下から二里隔てた河口のあたりに、深江といって上中下の三つの村があった。

 石高三千石であったがことのほか豊かな土地で、深江には領主の米倉があった。ここは船着場で代官の陣屋が設けてあった。

 また、そこより四五町上流の地域は上深江と呼ばれている。ここに佐志木左次右衛門という庄屋が住んでいた。

 佐志木左次右衛門の先祖は、龍造寺和泉守隆景の家臣であった。祖父の代に浪人してこの村に来たが、もともと才知ある者だったので村人が相談して庄屋になるようにたのみ、当時で三代目であった。

 佐志木は情け深かったので、村じゅうが地頭のように敬っていた。学問もあって渡邊小左衛門とは無二の親友である。また、耶蘇宗門を信仰していて蘆塚や大矢野とも懇意にしている。今度の一揆のことを聞いて心が動かされており、渡邊小左衛門が召し捕られたのを残念に思っていた。

 ちょうどそこに蘆塚と大矢野がひそかに訪ねて来たのでさっそく招き入れ、酒肴を出してもてなした。

 両人は、天草一揆の発端や渡邊小左衛門のことを詳細に語った。語るうちに、佐志木に内心一揆に味方する志があることを蘆塚が見て取り、その意を察して、

「さて、このたびの大望を達成するためには、江戸からの下知が来ないうちに島原領を攻め取り、天草と力を合わせることが肝要で、それが実現すれば大軍が向かって来ても恐れることはありません。もしもあなたが味方になってくだされば、これほどの喜びはありません。ここ三江が一揆方につくかどうかはあなたの心次第です。」とずばりと言った。

 佐志木にはもともとその意思があったので速やかに承知し、

「毎年、地頭の苛政にいらだっておりましたので、あなた方の企てを聞いて内心羨ましく思っておりました。この上は生死を共にして大望を成就させましょう。

さいわい深江の庄官の葭田よしだ三平はそれがしとつねづね昵懇にしており、いたって賢い者です。彼もまた地頭の非道を恨んでいます。彼は蔵元ですから一揆の頭分かしらぶんにしてもよいでしょう。さっそく呼び寄せて相談しましょう。」と言って、使いを立てた。

 三平はすぐにやって来たので、四人で内密に相談した。

 蘆塚が、

「今、天下は平和で武士は惰弱だじゃくになり、酒色に溺れて農民を虐げ、しもじもの民はだんだん困窮してきています。そこで我々は一揆を起こして運を天に任せようと覚悟致しました。

この地頭の松倉らは無法で利欲にふけり、家臣も皆奸佞でいくさの役にたちそうな者は一人もいません。天草の様子を聞いても、ただ評議ばかりしてまったく出兵しようとしません。

関東からの下知の無い今のうちに、城内の武士をことごとくおびきだして皆殺しにし、城内に貯蔵されている武器弾薬を奪い、城下に放火し、金銀を奪い取って困窮した民に施して手なづけてくだされ。まず城兵を討ち取る謀計はかくかくしかじか・・・。」とささやいた。

 それを聞いて三平はおおいに喜び、さっそく一味に加わり連判した。

 「それではまず上深江村で一揆を起こし、百姓どもに騒動を起こさせましょう。三平は城内に注進して、城兵を欺き出して討ち果たす計略をおこなってくだされ。そのあと、蔵米を奪い取りましょう。」と相談して別れた。


26. 深江村一揆に味方する事

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