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天草騒動 「26. 深江村一揆に味方する事」
佐々木佐治右衛門は、翌朝、村じゅうのおもだったものを呼び寄せ、
「わたしには年来の宿願があって、今晩、日待(訳注:前夜から潔斎して寝ずに日の出を待って拝むこと)をおこなうので、家族を引き連れて夕刻から私の屋敷に来るようにしていただきたい。いつもは村じゅうから費用を集めていましたが、今回は私の宿願のためなので、村からは一銭も出費させません。こころおきなく勝手に遊ぶようにと、手落ちなく役人からふれまわってください。」と申し付けた。
人々は「かしこまりました」と言って、すぐにそれぞれ手分けして村じゅうにふれまわった。
この村は石高二千石で家の数も多く、いたって裕福な土地である。この触れを聞いて、たくさんの老若男女が喜んで集まってきた。
佐志木の家では急な計画なので大勢の人を雇って、餅をついたり、魚を手に入れたり、料理をつくったりでそのにぎわしさははなはだしく、酒肴を大量に用意してふるまった。
いつも日待というと百姓たちが喜び、耕作なども休んで賑わうのがこの村の習いで、今に始まったことではないが、今回は庄屋からのふるまいなので特に喜んで村人が集まった。
佐志木は蘆塚と大矢野を奥の間に隠しておいて、一揆の噂は少しも出さず、ただ百姓たちの様子をうかがっていた。
百姓たちはだんだん酒宴に興じて大きな声でさまざまな雑談を始め、世間の噂をいろいろするうち、今度の天草の一揆の噂になり、
「本渡と島子では寺澤の討手を追いまくっておおいに勝利を得たというが、大手柄だ。本当に羨ましいことではないか。一揆の人々は良いことを思い立って、百姓の辛苦をのがれ、地頭の厳しい年貢の取立ものがれて、恨み重なる武士どもを鼠のように追い回して、一日の栄華に千秋の命を延ばす心地だろう。一揆の人々は、たとえ死んでも天上に昇り、天帝のお救いで限りない万福長者になるだろう。」と、どよめいた。
また、別の者は、
「皆、知らぬか。今度の一揆の大将は天草四郎大夫といって義経公の生まれ変わりのような人だそうだ。その軍師は蘆塚忠右衛門という知謀計略の名士で、楠や真田にも劣らないそうだ。そのほかにも大矢野、千々輪、天草、赤星といった一騎当千の勇士で、昔の佐藤継信、忠信兄弟や亀井、片岡といった義経公の四天王にも匹敵する人々が大勢いるという話しだ。まったく羨ましい話しではないか。」と、酔いに任せて遠慮なく大声を上げた。
佐志木は聞いて聞かないふりをして、急ぐ謀計ではあってもただ酒を勧めるだけで何も話さなかった。
百姓たちはだんだん泥酔してきて、そのうち、おもだった百姓が口を揃えて、
「庄屋様、この村でも天草と一つになって旗を上げてください。我々も身を捨てて戦います。是非決心してください。みんなそれを願っております。」と、佐志木のところに詰めかけた。
佐志木は心の中で喜んだが、頭を振って、
「たいへんなことを言われる。そのようなことができるはずがない。この村は島原領で高久城のお膝元だ。そんなことが領主に聞こえたら皆ただちに殺されるだろう。
その上、この村には三つの寺があって、天台、真言、浄土の三宗だから、住職がそれを聞いたらすぐに御城中に訴えるだろう。天草と原村の一揆のやからは耶蘇宗を信仰していて、他宗の寺を破却し僧や法師を殺した上に、代官まで殺害してしかたなく徒党を組んで蜂起したという。
皆は檀那寺を持っているのに、そんなことを言うとは理解し難い。つまらないことを考えるより酒を飲んで日待をし、ゆっくり遊んでください。」と言い捨てて、奥に引っ込んでしまった。
その後はますます酒で乱れ、人を見分けられないほど酔いつぶれたが、どうしても一揆が羨ましくて、若者たちが、「どうやって寺を壊してやろうか。」と騒ぎ始めた。
酒に酔っていたので皆が「壊してくれよう。」と言い出し、「いつも仲之瀬の坊主どもを憎たらしく思っていた。あの寺を最初に打ち壊して手際を見せてやろう。」と、鋤、鍬、鎌や斧、鉞を持って三百人余りが連れだって寺に押し寄せ、門をこわして仏像を打ち割った。
寺の中の者たちは何事が起こったのかわからず恐れて逃げまどったが、その中から住職を見つけ出して縛り上げ、切支丹宗になれと責めたてた。
住職は命が惜しくて、「耶蘇宗になります」と言った。
それでは、と言って、今までの数珠を引きちぎり、本尊を打ち割り、仏具もたたきこわしてしまった。
それから残りの二つの寺に押し寄せて、住職を三人とも縛り上げて佐志木の家に連れて来た。
「すでにこのように寺を打ち壊してしまい、僧侶は逃げ失せて、住職は全員『切支丹宗になる』と言って命乞いしています。この上は天帝の宗門を立てて一揆を起こしましょう。庄屋様をいつも頼りにしているのだから、今さらお見捨てにならないでください。いくえにもお頼み致します。」と口々に言いたてた。
佐志木は、「このように心を決してしまったからにはいたしかたない。」と、蘆塚と大矢野を呼び出して百姓たちの望みに従おうということになった。
まず、旗を数流つくって天帝を描き、村じゅうの鉄砲を集めた。百姓には古刀、竹槍、鍬、鋤、鎌などの得物を携えさせて集合させた。
到着した人々を記したところ、屈強な百姓どもが三百人余り集まっていた。
「急いで原村にこのことを伝え、原村の者たちを呼び寄せて一緒になろう。」と言っていると、千々輪、天草、赤星、鹿子木、駒木根、四鬼を大将として五千人余りが、鉄砲二百挺を携えて深江村にやってきた。
佐志木一党は原村の面々と対面して、この村も一揆の味方が三百人余りに達したことを伝え、それから酒宴が始まった。
それ以後、近辺の村々に一揆に加わるよう催促し、従わない村は打ち壊して米や銭を奪い取った。
味方になった村は、上深江村、中深江村、一色村、野田村、足尾村、池田、森、波多野、高原、古田で、これらの村々の百姓はことごとく一揆に加わった。
下深江村には兵糧倉があったので一番に押し寄せるべきところであったが、庄屋の葭田三平が味方しており、高久の城兵をおびきだして討ち取るための謀計があることを聞いて、この村には手を出さなかった。
さて、高久の城内では、この騒動のことを聞いても、天草での寺澤の敗戦を聞いていたので、恐れおののいて兵を出さなかった。ただ城内を厳しく守り、急いで江戸に注進した。
三平は蔵屋敷に行って、奉行と代官の中尾甚大夫と山根七郎右衛門に会い、
「天草の一揆の勢力があまりに強いので、それを恐れて原村と上下深江村が残らず一揆にくみして我々の村に寄せて来ようとしています。どう思し召されますか。」と、言った。
両人は、「今回の騒動については聞いているが、なかなか鎮静させる手立てがない。だいたい領主の政治が最近はなはだ悪くなっている。この上は、我々も一揆に味方しよう。それについてよろしくお世話を給りたい。」と頼んだので、三平は、「たしかにこのままうかうかしていると一揆の虜になってしまうでしょう。それより早いこと一揆に味方して、のちに有利になるようにはかりましょう。」と、徒党に加わる旨の連判をとって蘆塚のところに送った。
これによって下深江村の者たちは皆一揆に味方することになった。
三平はそれから高久の城内に行って注進した。時に寛永十四年九月二十四日であった。
高久の城で三平は、
「これまで申し上げていましたように深江村の一揆はますます大勢になり、三つの村のすべてが徒党を組んで近村はことごとく乱暴にあいました。ほかの村でもだんだん一味に加わりまして、人数は五千人余りになっています。その勢いは強く、なかなか私どもの手に負えるものではありません。
大将はまだ天草にいて武器も整っていないということです。しかしながら、明後日に下深江村に攻めて来てお米蔵を奪い取ろうとしていることを知らせてきた者がおります。この倉を取られては一大事です。
まだ一揆に加わっていない百姓どもが、当年の年貢を御免除くだされば粉骨をつくして守りますと願い出ておりますが、百姓どもだけでは敵が多いのでとても一揆勢にかなうとは思えません。明後日早々に兵を出され、一揆のやからを御追討になるべきかと存じます。」と訴え出て、弁舌をふるった。
役人たちはこれを聞いておおいに驚き、「それではさっそく御城代に報告して軍勢の派遣を検討しよう。」と答えた。
役人がこのことを城代の松倉重兵衛に伝えたところ、重兵衛はそれを聞いて驚き、
「近頃百姓どもが蜂起したという噂は聞いていたが、百姓どものことだからたいしたことはあるまいと思っていた。このような大事になってしまっては放っておくわけにいかない。正直な者どもの心がけ、満足に思う。よって、今年から五年間の年貢を免除しよう。あさっての朝には軍勢を出そう。倉の米は城内に運び込むように。」と、あわただしく対策を練り始めた。
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