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「受験サポート 長女編」子育てエッセイ⑥

 親は子どもの〝自己実現のサポーター〟でありたい。進路は子どもの意思を尊重しチャンスを与え、その子に合ったアドバイスで背中を押してあげたい・・・私が高校生の頃からいだき続けた希望である。
 私には二人の娘がいる。性格も夢も異なる娘たちに合わせて、私が行った受験サポートについて記しておきたい。もし参考にして下さる方がいらしたら幸いに思う。

受験サポート 長女編

 長女は現在30代、埼玉でヨガ・インストラクターをしている。一般人にも教えているが、スポーツ選手の心身のメンテナンスに寄与するアスリート・ヨガも専門としている。「スポーツをする人々を支えたい」という夢を、ヨガを通してかなえているようだ。

① 都城泉ヶ丘高校の推薦入試
    中学生の時、企画運営系の仕事が夢の長女。大学進学を考えて都城泉ヶ丘高校を志望する。ある時、
「推薦入試をどう思う? 友だちは親に反対されたんだって。推薦で落ちたショックを引きずって一般入試も振るわないと大変だからって」と話す。
「一つチャンスが多いわけだよね。落ちてもみんなと一並びスタートなだけ。受けたいんでしょ。かなえは作文好きだよね」と私。
「受かればもうけもん!」と付け足して背中を押した。
    試験の作文のテーマは〝絆〟で、グループ討論は〝建設予定の文化ホールの施設に何があれば良いか〟だったと、楽しげに報告をしてくれ、無事合格した。長女には自己アピールがカギの推薦入試が合っていたようだ。

② 東海大学体育学部AO入試
    中学でバスケットボールをしていた娘は、高校で男子バスケのマネージャーになり、充実の3年間を過ごす。将来の夢が「スポーツを支える側の仕事を」と具体的になり、
「東海大学のスポーツ・レジャーマネジメント学科に行きたい」
と言い出した。
「え~私立だ、お金が……」と、私は国公立大学をいろいろ調べてみたが、「ここ以外に行きたい大学はない」と娘が言うように、内容が唯一無二の学科だった。定員は70人、推薦者枠を除くとさらに狭き門、娘には難関だ。これはもうAO入試に掛けるしかない・・・。

 AO入試の資料は、夏休みに開かれるオープンキャンパスに参加し、手に入れることにした。宮崎から母娘で来れば、印象に残ることだろう。合格めざして受験サポートの戦略開始である。学びの場をこの目で確認したいという思いも私たちにはあった。
 父親が旅程を組んでくれ、移動中に分からないことがあると電話で助言をくれた。実は、静岡の公立大学も見学した(私たちは初の新幹線乗車)が、娘は、東海大の素晴らしいキャンパスと科目内容に、思いを熱くしたようだった。
  
 AO入試は、課題を一つ選んでレポートを提出し、二次では先生方を前にプレゼンをするというもの。
「地元の祭りを選ぶなら〝おかげ祭り〟だな」と言う娘。
しかし、太鼓や跳人といった祭り側の経験がないため話がふくらまない。私が「一番いいと思う体育館は? それはなぜ? 何が体育施設に必要なの?」と質問すると、
「宮崎市の体育館は素晴らしい。クーラーは観客にとっても必要。水道の高さは・・・・・」と、さすがバスケのマネージャー、次々に語り出しみずから「スポーツ施設をテーマにする」と決めた。

 体育祭前で実行委員の役目もあり超多忙の娘。私は都城の体育施設に関するパンフなど情報を集めて手渡す。「高城の観音池周辺の施設を拠点にした都城のスポーツ振興案」を打ち出した娘。
 高城体育館の視察に二人で出向くと、娘はあちこち写真撮影をし、施設の方に質問をしていた。箇条書きのアイデアはどれも素晴らしい。が、文章にすると訴求力に欠けるため、
「文章のココとココをつなぐと相手に伝わるよ」
などと、作文のアドバイスをした。娘と違い「早水体育館を拠点に・・・」というのが私の考えだったが、それは、提出直前まで秘密にしておいた。自分の考えに自信を持ってのぞんでほしかったからだ。

 いよいよ、レポートを出す段になって想定外の問題が起きる。担任の先生に書いていただいた推薦状の〝厳封〟を娘が開けてしまったのだ。「中身を見たかったらコピーがあるからね」との先生の言葉を、開けて良いと勘違いしたらしい。
 入試要覧には〝厳封を破ると失格〟とある。先生に再度お願いするも出張中! ぎりぎり消印有効日に間に合った。あらかじめ投函日を締め切り3日前に設定し、進めていてよかったなとつくづく安堵したものだ。
 開けてしまったついでに見た推薦状では、真面目に授業や宿題に取り組む姿が評価されていた。「へえ~、ちゃんとやっていたんだな」と私は思った。

 AO二次試験は、プレゼン用の模造紙を入れた筒をたずさえ、娘は一人で神奈川へ。夏に上京したさい、次は一人でも大丈夫なよう娘には交通を頭に入れてもらった。他の受験者からは〈宮崎から飛行機に乗って一人で来た〉ことを驚かれたと言う。
 プレゼン内容が、提出したレポートとは一部違っていることを、娘は気にしていた。私は
「提出後も考え続けましたので、今から述べることは提出レポートと一部変わっています」と前置きするよう助言した。
「きっと、先生方はどう変わったかに注目し、研究を続けたことも評価するはず。自信を持って」と励ました。
 実は、このプレゼンの練習を私は一度も見ていない。友人らの前で披露しアドバイスをもらったそう。彼女たちの協力にも感謝である。

③ 卒業から東京オリンピック・ボランティアまで
 良い環境で、2メートル族(背の高い体育学部の学生たちを母娘はこう呼ぶ)に囲まれ、活き活きと学生生活を送る娘。東京オリンピックの招致というワクワクする話も持ち上がる。2016年の招致は叶わず、2020年をねらう日本。就職が厳しく情報入手がカギだと、就活生にスマホが一気に普及した年のことだ。

 スポーツマネジメントを学び、東京近郊に居て、オリンピックに関われる可能性があるのだ。私は娘に
「宮崎への帰郷は、経験と実績というふるさとへのお土産ができてからだ」と言った。卒論が〝スポーツボランティアによるスポーツイベントの活性化〟だった娘、私と同じように思っていたようだ。
 就職はアルバイトで縁を得た、バスケットボールの試合を運営する東京の会社に決まってホッとする。娘はこの時から〈奨学金という名の借金〉を今も払い続けている。

 その後、転職や結婚を経て、病気(気胸)やストレスによる身体の弱点をヨガで克服できた経験をもとに、いつの間にかヨガ・インストラクターになっていた。私の知らない地道な努力があったのだろう。
 子どもの頃は、けっして柔らかい体ではなかったのに、ヨガのポーズをいとも簡単に美しく決める娘。アスリート・ヨガも勉強し資格も取っている。野球やサッカーをする子ども達には、走らせてみれば、すぐその子の課題が分かると言う。体の使い方や訓練方法をアドバイスするそうだ。

 2021年コロナ禍の夏、東京オリンピック2020のボランティア・スタッフとして参加。国立代々木競技場で男子ハンドボールの試合をサポートしたと、写真つきで報告が届いた。
 実は、第1子を出産して3ヶ月後のこと。夫やそのご両親、友人らの理解と支えがあってかなった夢である。
 
 学びは一生涯、好きなことは頑張れるものだ。「スポーツをする人々を支える」夢の実践は、まだまだ進化するのだろう。娘の自己実現をしてゆく姿を、こうして見せてもらえて幸せに思っている。
                        2022年6月記

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