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わたしの身体の行方 『あなたの燃える左手で』朝比奈秋著を読んで

 電車の中、曇り空を眺めていると後ろから
「最近、暑いね」
という会話が聞こえてきた。確かに。暑い。私は汗をかきやすい体質なので、ことさら鬱陶しく思う。大学の帰り道、一日の疲労感を含んだ体のベタつきが私は苦手で、背筋の伸びるような電車の強い冷房を浴びながら、よくぼうっとしてしまう。体の感覚が暑さと疲労感とで麻痺する。つり革を持つ自分の手も少し、遠のいて感じてしまうような。


 先日芥川賞候補作品の発表があった。自己紹介後、はじめての記事。何を書こうか迷っていたが、タイミング的にちょうど良いかなと思い、候補に選ばれている朝比奈秋さんの作品を今回取り上げていきたいと思う。
(芥川賞候補に選ばれているのは『サンショウウオの四十九日』)

『あなたの燃える左手で』(河出書房出版)
 著:朝比奈秋

 私が朝比奈さんのお名前を始めて知るに至ったこの作品。ずっと読みたいな読みたいなと思っていたが、大学の図書館では私が借りようとすると、毎回本棚から無くなっていて、なかなか巡り会えなかった作品である。

(ネタバレはしないが、新鮮な気持ちで作品を読みたい方はここでストップ)

 作品の紹介としては、ハンガリーで左手の移植手術を受ける青年のお話で、ハンガリーという土地柄、隣国ウクライナなど地続きとなった大陸のイメージが交錯しながら、移植された手や身体の感覚が描かれていく。

島国と大陸、意識と身体

 作品の中で、手を失った喪失感、そこから立ち直る主人公、そういった要素は全面的に語られることはない。不安定な身体の感覚を通して、そこに現われるのは揺れ動くアイデンティティの姿であり、それは国境やナショナリズムといったものと結びつく。
 手術を受ける青年、アサトは日本人で幼少期からの長いヨーロッパでの生活の末、ハンガリーに住み着くようになったというめずらしい人物。アサトのアイデンティティを複雑にさせる、日本の島国のイメージは大陸と釣り合いになっていたように思う。

 それこそ、日本という国は各県が手や足となって一つの身体のように存在している。だからと言っていいのか、私も含め、多くの日本人の人々は「一つになる」ことを信条としている節があるのではないかと思う。災害や論争など、国内に何かしらの亀裂が走ったとき、同情を向けようとしたり、異なる立場の人を理解しようとしたり、心理的に「一つになる」ことが推し進められる。
 
 私がまだ小学生だった頃、東日本大震災が発生し、テレビや新聞で度々、津波の映像や原発の被害が報じられていた。大変だ。かわいそう。子どもながらにそう思ったが、ただ、私にはよく分からなかった。報じられる東北の地名、映像に出てくる町並みや風景。縁もゆかりもない地域で起きている大惨事。学校の先生は私たちに「被災者に思いを馳せて」と言った。両手を組み、目をつぶりながら私はどこに思いを馳せていたのだろうか。

 アサトが手を失った感覚はその幼少期の私の記憶を思い起こさせるものだった。私はこの作品を読んで、はじめて知ったのだが、手足を失った人には「幻肢痛」なるものが起こるらしい。今まであった手や足が幻となって現われ、痛みを感じるというものである。
 そこに意識はあるのに実体として現われないことのもどかしさ。その痛みを自分と重ね合わせるのは少しおこがましいかもしれないが、あの時の違和感の正体はこれに近いものだったような気がする。どんなに思いを馳せようとしても、それが擬似的なものに過ぎないということ。左手を失って、幻肢痛を経験するアサトという人物を通して、この非当事者性の意識をこの作品は深く探っている。
 興味を持っていただけた方は、是非読んでみてほしい。


 電車のつり革を掴んでいる私の手。私はこの手についてどのくらい知っているだろうか。私の手、私の身体があるからこそ、私は私を認識できる。私の意識はこの身体の中に流れているのだろうか。もし、流れていなかったら。その不安を心に留めておきたい。私の身体の行方を全て私が知っているとは限らないから。


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