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ナウシカが王蟲に好かれる理由、セキュリティ認証をRGB値のBに頼った結果のエラー説

「1の希望は100の絶望よりもたちが悪い。箱の底にこびりつき、苦しみを長引かせる最大の災厄である。決して開けるなかれ弟エピメテウスよ。神からはいかなる贈り物も受け取ってはならぬ。いかに美しい女を携えていてもそれは泥からこねた人形であり、箱の中身は人の考え及ばぬ神の所業である」

(霧間誠一「鏡の中のヘシオドス」より)


そしてそれを借りた宗教論。

読んで題字の如くなのですが、以下に解説します。

このまえ九州へ旅行に行ったのですが、肥薩おれんじ鉄道に揺られながら水俣湾の夕陽を眺めていたとき、ふと思い浮かんだのがこの仮説でした。

そもそも自分、なぜナウシカが蟲にあんなに好かれているのか、子供の頃からちっとも理解できなかったんですよね。いや、ナウシカが蟲を好きなのは蟲が好きだからでいいとして、蟲がナウシカを好きになる理由は特にないよね?と。人間との相利共生すら許さない、自然の厳しさを具現化したようなシビアな生き物なのに、ナウシカ相手にだけはなぜか片利共生。

もちろん映画や漫画で「穏やかな心を持っているから〜」なんてふんわりと言及されてますし、実際、心穏やかに子守唄を歌うクシャナ姫を蟲は襲わないのでその理屈は間違いではないのですが、だってこれ描いたのあの宮崎駿ですよ?

あの爺さんのことですから、そーんな「心穏やかに、自然と仲良く」なんて美しくて薄っぺらいお題目の裏に、なにかひと癖、人の愚かさをあげつらうような意地悪を仕込んであるに決まってるじゃないですか。作中でも言及されているとおり人は混沌であり、優しさと残酷さが混じり合う黒色のいきもの。宮崎駿はそのことについて非常に自省的ですし、露悪的です。

それでヒントになるかもしれないと思ったのが、漫画版ナウシカ最終盤の悲しげで謎めいたセリフ、

「王蟲の体液と墓のそれとが同じだった…」

でした。

この台詞、これだけ単体で抜き出しても訳わからないのですが、前のコマでミト爺が

「しかし 姫さまほどでないが わしもまだらの青き衣になりました」

と言ってるのを受けての台詞なんですね。

正直、ミト爺なんて墓所の戦いで死んで退場してても全然おかしくないムーブをしてるのに、それをここまで生かして、この台詞を言わせたということは何かがある。救世主伝説の衣・王蟲の体液・墓の体液、いずれも揃って青色であるこれらには、何らかの関係があるのでは?

というところから思い至ったのが

「蟲がナウシカを襲わないのは『服の色』と『穏やかな心』という2段階認証を突破したせいで、ナウシカを新人類だと誤認してしまっているから」

「蟲は新人類に友愛を示し、旧人類を滅ぼすよう墓所からプログラミングされている。王蟲のいたわりの心も、結局は新人類の保護のためにあらかじめプログラムされた反応」

「ナウシカは最後の最後でそれに気がついてしまった」


という仮説です。正確には2要素認証なのですが。

これらを解説するために、ここでひとつ、旧世界の終焉と卵からの新生を願った原生人類(以下、旧人類)の視点からここに至る経緯をたどってみましょう。つまり青の衣うんぬんの説明をする前に、まずナウシカ世界の状況を理解する必要がある。少し長くなるぞ。ナウシカオタク以外にはサム8くらいつまらない話なので本当に申し訳ない。なんとなく話が見えてくるまでに3000字くらいあります。

時は火の七日間の直前。

まず、墓所の主の言葉から推察するに、必ずしも旧世界の人類すべてが新生を願ったというわけではなさそうです。

というより、いくら「憎悪と絶望が世界を満たしていた」世紀末でも、地球を人造生物で覆って数千年かけてリセットして、過ちを繰り返さないよう人類そのものも変質させましょう、なんて突飛な計画が一般大衆に支持されるとは思えません。ですから、実際にはごく一部の人間、例えば"On Your Mark"に出てきたカルト教団「聖NOVA'S教会」や"新世紀エヴァンゲリオン"のゼーレのような、いわゆる宗教結社が秘密裏に計画したと思われます。

無秩序になった世界で終末思想が蔓延はびこれば、人はたちまち極端な教えに飛びつき、荒唐無稽な救済論を語り出す…というのは、私たちもこの4年でよく実感させられてきた現実でしょう。旧人類にとって残念なのは、高度に発達したバイオテクノロジーによって、彼らがその「救済計画」を実行する能力を持っていたことでした。

NOVA=新星の名のとおり、この星の新生を願う彼らにとって、脅威となるのは火の七日間そのものではなく、その災禍を越えてしぶとく生き延びるであろう旧人類であり異教徒です。

巨神兵という相互確証破壊システムが暴走し、世界が核の炎に包まれ、海は枯れ、地は裂け、あらゆる生命体が絶滅したかに見えても、彼らは間違いなくモヒカン肩パッドで「ヒャッハー!」と叫びながら水と食料を強奪しに来ます。そんな世紀末野郎どもに、遺伝子レベルで心穏やかな新生人類が太刀打ちできるわけがありません。

だいたい作中の人類、好戦的すぎて城オジたちだけでも新人類を滅ぼせそうな勢いがある。「滅ぼさない限りこいつら永遠に争うでしょ…火の七日間やらなきゃ…」と巨神兵が裁定したのも無理ないし「目覚めた時にこいつら生き残ってたらやばいでしょ…滅ぼさなきゃ…」と新人類が考えるのも無理はない。

そもそも教団は現時点で教会を襲撃されたりガッツリ迫害されてるので、できれば異教徒であり罪人である旧人類にはもれなく滅んでもらうか、あるいは贖罪を名目に、教団のために貢献し尽くした後で滅んでもらいたい。というのが教団の計画したところでしょう。この破滅的で他罰的な考えは決して突飛な思考ではなく、あのオウム真理教も国家転覆計画「11月戦争」において同様の考えの元に行動しています。迫害された少数派集団が至る選民思想の終着点なのかもしれません。

さて、厄災後の地球環境浄化を目的とした腐海生態系理論は完成しましたが、それらを旧人類の攻撃から守り広めていくための存在が必要です。

なので蟲も造っておきます。蟲はテレパシー能力を持っており、腐海に侵入したり、敵愾心を向けてくる旧人類を攻撃するようプログラムされています。旧人類は恒星間飛行のできる宇宙船も開発していたようですが、火の七日間を逃れて星から戻ってきたわずかな人類も、地上に降りた途端に蟲がもれなく駆除してくれることでしょう。

不死の高等人造人間ヒドラも造っておきます。彼らは新生計画について知っており、墓所に残った「墓所のあるじ」もいれば、種子バンクを守る「庭園のあるじ」もいます。彼らは火の七日間後の再生期に教団の教えを広め、旧人類をコントロールするための存在です。

いよいよ火の七日間です。

新生のため卵に還った教団のメンバーは、高等人造人間ヒドラと共に(ある種の自嘲と皮肉を込めて)「旧世界のための墓碑」と名づけた秘密のシェルターに籠り、厄災を耐えます。

そうしてセラミック文明が灰燼に帰し、わずかに生き残った旧人類の前に残されたのは、真っ黒な「墓碑」。自分たちを迫害した異教徒たちに対する、教団からの強烈な意趣返しです。

"On Your Mark"の描写からするに、旧人類は縦穴の上部をガラスドームで覆った都市でないと生きられないようです。そうした都市は火の七日間で失われ、旧人類は汚染された地上で生身のまま生きていかざるを得なくなりました。火の七日間を生き延びた幸運な旧人類も、有毒の大気を吸い、オゾン層の防護のない凶暴な太陽光に晒され、枯渇した大地に残る残留放射能によって次々と斃れていったことでしょう。

やがて汚染された土地にはさらに猛毒の腐海が広がり始め、そこから来襲するおぞましい数の蟲が文明の復興を妨げます。

高度な科学体系が失われて原始人に戻った旧人類は、せめて救済を求めて神にすがろうとするでしょう。しかし巨神兵という神を自らで造り、そしてそれが下した滅びを回避コントロールできなかった既存の宗教が"神"を語ったところで、いったいどれほどの権威が残っているというのでしょうか。生きることより死ぬことのほうがはるかに安楽な世界において、宗教家が死と来世以外の救済を提示することは困難です。

そうして、絶望した旧人類がちっぽけなカルト教団の存在など忘れてしまったころ…後に「シュワ」と呼ばれる土鬼の地にて、これまで由来も分からなかった墓所の扉が開きます。そして念話などの超常の力を持つ高等ヒドラが出てきて、民に"希望"を語るのです。

「世界はいま浄化の途上にあり」
「ここには失われた神の御業が残されている」
「この世界を生きるため、神の教えと共に伝えよう」

と。

これが先代クルバルカ王朝が奉じた土鬼の教えの祖であり、神聖皇弟ミラルパが邪教と断じた土着信仰の始まりです。ナウシカの物語から遡ること1000年前くらいの出来事となります。

教団がまず伝えた技術は、旧人類が腐海の瘴気に適応するための遺伝子改良でした。教団が腐海を撒き教団が救うという盛大なマッチポンプですが、腐海を造った側である彼らは当然対処法も熟知していて、たちまち旧人類は環境汚染と腐海の猛毒に対してある程度の適応を獲得します(旧人類から改良人類が誕生)。当然ながら、その対価として得られるのは教団に対する民衆からの絶大な信仰です。キリストの奇跡からアサハラの空中浮遊まで、いつの世も目に見える現世利益は強い。

ただし、完全適応までは改良させません。そんなことをしたら愚かなままの改良人類たちが腐海を滅ぼしてしまうためです。また、あらかじめ造っておいた汚染下でも生きられる人造生物も分け与え、命をつなぐための最低限の農耕ができるようにします。

もちろん、突然現れたうさんくさい教団に反発する者もいたことでしょう。ですが、教団は彼らに対して何かする必要はありません。教団が遺伝子改良を提供しなければ、教えを受け入れない反発者はいずれ腐海の毒で滅びる運命だからです。

こうしてかつてのカルト教団は無知で愚かな旧人類からの信仰を得て、汚染された世界でもある程度は生存できる便利な信者どうぐを獲得しました。

教団にとって、彼らは文字通り蟲以下の存在です。自分たちを迫害し、旧世界を汚染し、あげくに自分たちで始めた戦争を止められず、神まで造って旧世界を滅ぼした大罪人の子孫。ですから「浄化のための大いなる苦しみを罪の償いとして、やがて再建へのかがやかしい朝が来る」まで苦しませながら使役するつもりです。これは古今東西の宗教で採用されている、いわゆる原罪と贖罪の理論です。オラッ!お前らは生きながらにして罪背負ってるんだから、苦しみの中でも神様信じてキリキリ働いて、許しを乞いながらお布施を納めんかいッ!

もちろん自らの愚かさに気がつくよう、凶暴性は残したまま寸土を巡った戦争を繰り返させ、互いに苦しめ続けます。たまに大海嘯も起こさせちゃう。幸いヒドラと違って勝手に増えてくれますし、蟲や腐海では分解できないセラミックを戦争のためにわざわざ地下深くまで掘って解体してくれるのでとっても便利。蟲以下とは言いましたが、言葉のわかる蟻くらいには思ってくれているのかもしれません。

しかし前述のとおり、新生の日までこの改良人類を生かしておくと新生人類はまず生存競争に勝てません。改良人類の脅威である腐海も蟲もいずれは消えてなくなり、改良人類にとっての確実な死である青き清浄の地がやってきますが、そのとき改良人類たちはみな素直に血を吐いて死んでくれるでしょうか?そんなわけはないですね。どこかで欺瞞に気がつき、最後まで足掻いて新人類と敵対すると思われます。また、万が一ですが遺伝子改良や自然進化で清浄の地に適応でもされようものなら、この遠大な計画は元の木阿弥です。

そこで"教え"と称した大量絶滅計画を準備しておきます。

その内容はこうです。

「世界が生まれ変わるその日…」

「まずはその日が来たことを、青い服に白い翼の生えた使徒『鳥の人』が世界を飛び回り伝えにきます」

「それから、青い服の人は王蟲の作る金色の野原に降り立ちます」

「王蟲は彼らと友愛を結び、汚れた土地で苦しんできた皆さんを清浄の地へと導いてくれます」

「ですから、その日が来るまで一生懸命に生きましょう」


はい、察しの良いかたは既にお気づきかと思いますが、この"教え"の本当の意味はこうです。

『改良人類が用済みになるその日…』

『私たち新生人類は母なる墓所から青い血にまみれて生まれてきます。私たちは旧世紀のノアの箱舟に倣い、鳩の翼が生えた少女の汚染適応人造人間ヒドラを幾人か飛ばします』

『彼女ら先遣隊が蟲に殺されないよう、蟲には[青色の服]で[心の穏やかな]ヒト型生物を保護するようプログラムしておきました』

『彼女らがオリーブの枝を携えて戻ってくれば、それは清浄の地が蘇った証拠です。また、彼女らの誰かが戻ってこなければ、それは改良人類がまだ生きている証拠です。なので捕まって殺されやすい少女型にしておきました』

『計画の完遂を確認したら、少女らはテレパシーで皆さん改良人類を誘導します。私たちは旧人類に見守られながら、王蟲の前に降り立ちます。王蟲はプログラムに従って私たちを歓迎し、金色の触手でもって保護し、分泌するL.C.Lで包むでしょう。これは私たち新生人類が腐海の毒に侵されないための保護ですが、改良人類にとっては私たちが神聖な王蟲と友愛の絆を結んでいるように見えるでしょう』

『あ、念のため言っておきますが、皆さんのような改良人類が青い服を着ても、私たちと同じことはできませんよ?だって皆さんは遺伝子レベルで凶暴な心を捨てられない、真っ赤な血を持つ異教徒ですから。そのために王蟲は心を読めるようにしておきました』

『私たち新人類は皆さんを清浄の地へ導くため、王蟲に守られながら腐海の深部へ入っていきます。皆さん改良人類はマスクをしながら後に続いてください。誰も帰ってこないかもしれませんが、それはもちろん青き清浄の地が素晴らしい土地だからです』

『青き清浄の地に到着しましたね?

はい、それでは深呼吸をしましょう。

吸って〜〜〜〜、はい、吐いて肺から血を〜〜〜〜……』

『……』

『……長い間のお勤めご苦労様でした。戦争も何もない、とても自発的でゆるやかな交代でしたね。私たちは旧世界と決別し、音楽と詩を愛しながらこの清らかな地で生きていきます。ありがとうございました』


以上が、新人類が計画した改良人類の大量絶滅計画のあらましです。

「音楽と詩を愛する穏やかでかしこい新生人類です。生き残った旧人類は贖罪のために改良人類にして苦しませます。でも目覚めた瞬間に闘争大好きアホボケ改良人類に滅ぼされてしまうので、その時が来たら改良人類は集団自殺してくれるようにしておきました」

こんなん聞かされたらナウシカでなくてもグシャーせざるを得ない。ムカつくので。なにが「子らよ…」だ。やっちゃって下さいナウシカさん。極めてなにか、生命に対する侮辱を感じます。てめえらの血はなに色だーっ!!(たぶんR0, G0, B255)ふと思ったのですが、酸素の運搬をヘモグロビンではなくヘモシアニンに頼る新生人類、運搬効率悪そうですな。

なお、墓所の主はグシャーされる土壇場になっていろいろと弁解をしていますが、そもそもこんな教えを残してる時点で「改良人類を元にもどす技術も記されている」だの「交代はゆるやかに行われるはずだ」が方便、欺瞞だとわかります。技術が記されているだけでそれを使うとは言ってないし「ゆるやか」がどう「ゆるやか」なのかについては言及してないからね。火の七日間とその前後の惨劇に比べたらなんでも「ゆるやか」だぞ、とか思ってそう。庭園の主も「腐海が役目を終えた時は共に亡びる」と口を滑らせちゃってますし。テクノロジーはすごいくせに、機密保持や部署同士の連携は取れていない愚かな人類…

さて、新生人類は卵になって眠ってしまいましたし、ここで視点を1000年前の土鬼諸侯国の祖へ移しましょう。

旧人類にとっては執行まで長めの死刑宣告とも取れるこの計画。

しかし墓所の主からこの計画を聞かされた土鬼の祖は、いまの人類が生きながらえるための改変技術提供と引きかえに、この"教え"を民衆に広めていくことになります。教えは口述やタペストリーによって徐々に神話化され、後の先代クルバルカ王朝やエフタル、辺境部族である風の谷まで伝わっています。

また、指導層として民衆に教えを広めていくために、歴代の王は墓所から遺伝子改変で超常の力(念話や読心など)を得ることになりました。その力は指導層の遺伝子と共に散逸し、風の谷の王家であるナウシカもその一助に預かっています。

歴代の土鬼指導者は、この計画の真の意味に気がついていたでしょうか?

おそらく全てを聞かされていたでしょう。その上で悩み、苦しみながら、いま生きている旧人類を救うための取引を選択したと思われます。いずれ滅びることが確定している黄昏の世界にあっても、いまを生きる民衆の幸せを願うのは指導者として当然の選択です。また、土鬼の祖は戦争目的の技術を墓所に封印した(手を出さなかった)ことも上人さまの口から語られており、せめて再度の戦争だけは回避しようという理性的な名君であったことが窺われます。

彼らは卵になっている教団とは別に、旧人類謹製の高等ヒドラから不死の技を教わって後天的な選民ヒドラを提供。墓に住まわせて新しい「教団」とし、崇拝させながらわずかづつ情報を与えることで外部への干渉手段とします。

しかしそこに反逆者が現れます。初代神聖皇帝です。

ナウシカの物語の200年ほど前、偶然に庭園の主と出会った彼は「庭」で心穏やかに過ごしていました。しかし「庭」で世界の真実を知った彼はある日、下等ヒドラ達を連れて圧政と狂気のクルバルカ王朝を倒し、墓所へ向かいます。

そうして彼はこう言うのです。

「我は土鬼の新王である。先の協力者であるクルバルカ王は倒したが、我もまた墓所に協力する。我に超常の力を授けられたし」

と。

こうして初代神聖皇帝は、庭園から下等ヒドラと不死技術を、墓所から後天的に超常の力を得ました。

しかし、彼の目的はこのくたびれた世界の王などというちっぽけな支配欲ではなく、理想のままに新生人類の計画をひっくり返し、定められた滅びを回避して改良人類を救うことです。

そのため、初代神聖皇帝はその治世100年目にして墓所の教団に反旗を翻します。教団とは別に官僚機構の名目で僧会を発達させ、教団が広めた土着宗教を否定。世界が浄化過程にあるという"希望"はそのまま、鳥の人や青い衣伝説を否定し、新生人類が目覚めるその日が来ても民衆が従わないようにします。

上人さまに「神聖皇帝の愚行」と語られるこれらは民衆レベルでは結局無駄で、墓所にとっても大海嘯誘発のための織り込み済みの行動だったことが作中描写から分かりますが…

それでも彼は改良人類の未来のため土鬼の宗教改革を断行したものの、墓所の言うところの「下人」、教団が育成した博士が墓所から得た不死技術はまだ未完成、または故意に欠陥品であり、最後は四肢がばらばらになって無惨に死亡しました。

後を託した2人の皇子のうち、弟皇ミラルパは父の遺志を継いで改革を完遂しようとします。ですが、治世20年も経たずして彼は絶望します。民を救うはずの僧会の腐敗、いつまでも土着信仰を断ち切れない土民、衰える身体と死の恐怖、隙あらば反乱するであろう兄、終わらない土鬼部族同士の抗争、止まらない腐海の拡大、迫り来る新生人類の目覚めの日。

人が無に還る契約の時が迫るなか、何をやっても滅びが避けられないことを見せつけられた彼はたちまち虚無に呑まれ、その絶望から逃れるために兄皇ナムリスの言うところの「でっちあげた教義」つまり「死ねば必らず生まれ変わる(=来世利益)」を民衆に広め始めます。これは「滅びを受け入れて幸せに死んでいこう!来世に期待!」という、父君とは全く正反対の宗教思想です。

あるいは弟皇ミラルパは、いずれやってくる滅びが回避できないのなら、せめて民衆が来世を信じながら死ねるようにと考えたのかもしれません。

やがて2代目の救世主であったはずの彼は滅びの回避を諦め、僧会を異常発達させて恐怖政治で民衆を支配するようになります。専制政治の皇帝らしく自分=帝国と公言してはばからない彼は、帝国を脅かす新生人類の目覚めであり、偽りの救世主である"青い衣をまとう者"の出現を異常に恐れ、ヒステリックに迫害します。彼にはもう、それしか手段が残されていないのです。また、土鬼の祖が墓所に封印した戦争技術を復活させ、発掘した巨神兵だけでなく墓所から提供された王蟲や粘菌の培養技術を兵器転用し、帝国を脅かす外敵を排除しようとします。それ自体が教団の仕組んだ罠とも知らずに…

おそらく墓所の主も教団も、初代神聖皇帝が宗教改革を行った時点で土鬼の民とその土地に見切りをつけており、彼らが大海嘯に飲み込まれたあとはトルメキアを次の布教先・協力者として擁立しよう、という腹づもりだったのでしょう。

そこにもう1人の反逆者が現れます。兄皇ナムリスです。

兄皇ナムリスは言動も行動も狂っているようで、そのじつ非常に思慮深い人物です。狂った世界で正しい行動をしようとする人間は狂人にしか見えないという皮肉アイロニー。彼は帝国の存亡にも、腐敗した宗教にも、自分の命にも縛られない、どこまでもナウシカと同じ理想家でありアナーキストなのですが、その理想ゆえに父祖ふそと同じ道をなぞろうとします。つまり、この腐りきった帝国を改革打倒し、再び改良人類を滅びの道から救うのです。

父と同じ戦衣に身を包み、父と同じおぞましいヒドラを連れ、巨神兵と土鬼トルメキア二重帝国(クシャナとの同盟、つまり世界の統一)でもって新生人類の人類贖罪計画をぶち壊す。彼はこの黄昏の世界で最後に眩しく煌めいてやろうと立ち上がった、改良人類にとっての真の救世主です。

ひとまずやることとしては、反乱分子であるクシャナを抱えてトルメキア王位を簒奪し、返す刀でシュワの墓所へ侵攻。卵を人質に新人類へ契約の改訂、つまり改良人類の生存圏を要求、といったところでしょうか。シン・ナントカとかいう映画で、同じくひとつ眼になった碇ゲンドウがやったような話です。

まあ…残念ながら即クシャナに反乱されてゆっくりナムリスにされるんですが。相手が悪かった。おっさんは女に勝てない駿ワールドの序列はここでも健在です。

ただ、百合の間に挟まった結果、首だけになっても死にきれず、クシャナに「殺してくれ」と懇願する彼もまた、最終的には弟と同様、死による救済へ向かったとも受け取れます。

その後を継ぐのがナウシカです。やってることは結局同じなので、ナウシカはきれいなナムリスであり、ナムリスはきたないナウシカ。

ただし、ナウシカには先達2名と違う点があります。蟲までをも愛でる気持ちから生まれた、生きることに対する強烈な肯定感、ポジティブ思考です。その思想はなんとなく碇ユイと共通するところがあります。命は投げ捨てるもの、を地で行く、自分の生も他人の生も平等にどうでもいいナムリスと違って、他人の生に縛られすぎてしまうとも言えますが。

墓所でナウシカが語るのは、原罪と贖罪と救済を3点セットで押しつけてくる宗教の否定であり、生きものとしてただ生きることに対するまっすぐな賛美です。他人によって予め定められた全体主義的な教義プログラムではなく、混沌の闇から生まれ輝き消えていく個体生命の賛美。ナウシカはそれが1枚の葉や土にも宿っていると説きます。

既にナウシカは、庭の主やセルムとの対話によって「決して癒されぬ悲しみ」を克服しています。

決して癒されぬ悲しみ…それはたとえば、美しいけれど決して自分と相容れぬものたち(人為的に作られた清浄の地)や、優しいけれど決して自分を愛してくれることのないものたち(ナウシカにとっての母)と、憎しみ合うことなく同じ世界をわけあって生きていかなければならない、という悲しみ。虚無を自覚しながらも、王蟲や庭園のようなプログラムされた友愛といたわりを否定し、闇も光もあわせもつひとつひとつの生命との、辛く苦しいかかわりを続けていかないといけない、という悲しみ。

ナウシカはそうした悲しみを乗り越え、救世主を演じる覚悟を決めて墓所に来ています。神聖皇帝の親子と同じ道を辿りながらも、そこがナウシカという救世主と他2人とが異なる点です。たとえ人類という種が滅びても構わない、プログラムを破棄して生命を本来の在り方に戻そう、というぶっとんだ世紀末救世主伝説ですが。見てるか碇ユイ、お前を超える逸材がここにいるのだ。

ナウシカは叫びます。

現世利益も来世利益も何もなくとも、神様なんていなくとも、命は闇の中から生まれ、瞬き、また闇に帰っていく。苦しみしかない生であっても、その終わりに救いなんてなくても、生きていくことそれ自体がすばらしい。私は新生と滅びの朝を告げる造られたばけものではなく、血を吐きつつくり返しくり返しその朝をこえてとぶいきものだ。所詮はお前も人に造られた神なのだから、人と同じように闇へ帰れ!唯物論!グシャッ!ブシューッ!神は死んだ。オーマイゴッド(笑)

…という流れでくだんの最終シーンにつながります。

長い。ここまで長かった。前置きだぞこれ?!
誰ももうこんなところまで読んでないだろ!?
もし読んでたらこの仮説合ってるかどうかパヤオに尋ねてきてくれ!!

で、全てが終わって、ナウシカは心中で逡巡するわけです。

(予想したとおり、墓所の体液は王蟲のコントロールのために青色だった)

(やはり王蟲もしょせんは造られた存在で、自分が友愛だと思っていたのはただの予定されたプログラム。王蟲はRGBのBで制御可能。ただし心の穏やかな人間に限る。この荒んだ世にはまずいないけれど)

(みんなが信じる希望の使徒は、本当は滅びの朝を告げる先遣隊で、清浄の地は私たち改良人類に用意されたものではない)

(でも、この真実を土鬼の民に告げるべきだろうか?ただでさえ土地を失っているのに、そのうえ生きる希望まで失わせるのか?しかし、それこそ明日にでも、別の墓所から鳥の人が飛んできて、続いて青い血に染まった新生人類が現れるかもしれない…)

これを言語化したのが

「(予想したとおり)王蟲の体液と墓のそれとが同じだった…」

となります。もちろん、それ(民衆に真実を告げる)はセルムによって否定され、かくしてナウシカとセルムは希望をパンドラの箱に閉じ込め、無知蒙昧な民を絶望から守ったのでした。


解説は以上。ああ長かった。
イェ〜イ岡田斗司夫クン見てるゥ〜!?ゼミで使っていいよこの仮説。

でも、仮説だけだと論文として論外なので検証していきましょう。

「2段階認証で王蟲が"友愛"を示す」が漫画原作・アニメ映画のどの時点で最初に描写されているかを突き止められれば、宮崎駿という永年反抗期の爺さんがいつからこの意地悪を仕組んだかか分かります。

まず、傷ついた王蟲と服が青くないナウシカを用意します。

すると、アニメ映画版の酸の海のシーンが最適ですね。ジブリ作品はあの爺さんたちの反抗期のせいで動画配信されていないので、もう少なくなったTSUTAYAを探して借りてきましょう。

はい、再生開始。

非攻撃色だった王蟲が、赤い服のナウシカが近づくと攻撃色に変わります。
これは不思議な現象です。いくら人間に攻撃されたとはいえ、ナウシカに敵意がないことは王蟲には読心で判断できるからです。

で、ナウシカが穏やかに語りかけようとするものの通じず、攻撃色も止まらない。

ナウシカの声が届かないので、酸の海とも知らずに仲間の元へ行こうとする王蟲。

必死に語りかけるが王蟲に声は届かず、体液でナウシカの服が青く染まっていきます。

対岸に王蟲の群れが来ているシーンを挟んで。

ナウシカの服は青色になりましたが、今度はナウシカ側の精神が乱れているので声が届きません。

王蟲に押されて足が酸の海に入ったことで、ナウシカは痛みでほぼ気絶。

ここで突然、我に返ったように非攻撃色に戻り、立ち止まる王蟲。

いそいそと治療を始める。

よしっ!Q.E.D.!

…うーん、やっぱりこいつプログラムで動いてますね。
生きものというのはすべからくそうなのですが。

ということはやはり、宮崎駿は映画版の時点でこの設定を元にきちんと描写に反映しており、なんどめだナウシカと言われつつもつい見ちゃう映画版ラストのあの感動的なシーンは、新生人類が認証をRGB値に頼った結果の脆弱性。ナウシカは偶然にも王蟲のセキュリティホールを突いて不正アクセスしてしまっている…ということになります。

映画版ナウシカはスケジュールと商業的な理由で「人は愚か。神(自然)は偉大でありいつも救いを用意してくれている」という、グレタトゥーンベリが涙を流して崇拝しそうな幼稚でありきたりなエコロジストの宗教物語になっており、宮崎駿にとってマルクス思想神はいないの同志であり師匠の高畑勲は、この映画をして「30点」と評しています。おい、これはお前が始めた物語プロデュースした映画だろ。

ですが、当時の宮崎駿はこう思っていたのではないでしょうか。「資金回収が重要なアニメ映画がこういう陳腐なオチになって、それでお師匠さまに叱られるのは当然のこと。けれど映画版にもこっそり地雷は埋めておいたから、好きにやれる漫画版で爆発させてやるぞ」と。爆発まで8年かかってるあたり、この師匠にしてあの弟子ありという感じですが。

漫画版でも映画公開前の連載時点で腐海=人工物の伏線は散りばめられていますから、あの自然讃歌で感動的に見えるラストシーンの裏にえげつない人の悪意を込めて8年後にネタバラシするあたり、宮崎駿はやっぱり性格が悪い。というよりも、人類への絶望が深い。宮崎駿の絶望は、生命としての必要条件(愚行)を取り除かなければ人は永遠に愚行を繰り返すが、愚行を取り除くことそれ自体が最大の愚行であるという、パラドックスを含んだ絶望です。人類というよりもスケジュールひっかき回した高畑勲への絶望?そうかも。

ですが、そうした虚無と絶望を乗り越えて、宮崎駿は漫画版ナウシカの完結で師匠を殴り返して「俺、生きねば」と自覚し、もののけ姫の公開で「おまえ、生きろ」と某弟子に説教し、さらに最近は「で?生きるは生きるとして、どう生きるかが大事だよね?けっきょく君たち、俺たちの作品を観てこれからどう生きるの?」と我々に尋ねてきてるわけですね。

まあ自分あの映画まだ見てないんですが、結局のところ宮崎駿はありふれたエコロジストではなく類稀たぐいまれなヒューマニストなんだろう、あの映画もたぶんそういうことがテーマなんだろう、というあたりで、この話はおしまいです。


P.S.

水俣の海に沈む夕陽はほんとうに綺麗で、RGBのRもGもBもありました。

もし自分が、状況に全面降伏しないで、自分の希望、ここだけは誰にも触らせないぞというものを持っているとしたら。けれど、それを手放さなければならないとしたら。

僕はこういうところに放すと思います。それくらい美しい景色でした。




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