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ASDでは難しい言葉を好む傾向があることを、和牛とアンジャッシュに絡めて四千頭身に落とし込む話。

共同注意による言語の獲得と体験の共有。
情報が非対称であるという現象は、コミュニケーションの場で恒常的に発生している。

自閉症は津軽弁を話さない(松本敏治、2017)が話題になった。方言が話されていない地域であっても、ASD(自閉症スペクトラム症、アスペルガー症候群も含まれる)では、独特の語彙を持つとされているが、方言という着眼点が、大変興味深く面白い。

アスペルガー症候群の語彙の特性について、日本であれば、難しい漢字を使った言葉を多用することが言われている。例えば子供のASDで、手伝ってほしい時に「援助が必要です」といったり、やめてと言いたいときに「それは言語道断だから断固拒否します」などという。難しい漢字の言葉を使うことを好むことは日本語ならわかるのだが、漢字のない英語圏ではどうなのだろうと思っていた。Idiosyncratic languageが、これにあたる用語だと思うのだけれど、具体的な用例がなかなか像を結ばなかった。少し前になるが、トム・ハンクスが父親役を演じて映画化された小説「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」では、主人公は9歳で”レゾン・デートル”といった難しい言葉を日常的に使うアスペルガー症候群という設定であった。英語圏であれば、ラテン語由来、フランス語由来の用語が、漢字的なとらえられ方をしているというのは興味深い。

言語横断的に起こる現象は、ASDの本質的な困難さに結びついていると思われる。今回はなぜ、ASDでは難しい言葉を使うのかについて仮説してみる。

言語の獲得と体験の共有

言葉には、意味の多重性がある。同じ語でも、様々な意味を持つことがある。ソシュール的に言えば、一つのシニフィアン(意味するもの)に対して、複数のシニフィエ(意味されるもの)をもつ。

あるシニフィアンが、シニフィエを増やすのはどのような場合か。

「先週のアレ、やばかったよなー」

このセリフだけでは、何のことかわからないが、会話を交わした二人が例えば大学生で、先週難しいテストを受けるという体験を共有していた場合、「アレ=先週のテスト」、「やばかった=難しかった」という意味を理解することができる。意味の入っていない代名詞である「アレ」というシニフィアンに、「先週のテスト」というシニフィエが付加され、「やばかった」という良い意味でも悪い意味でも使用される(=良い意味も悪い意味もシニフィアンとしてもつ)シーニュに、「難しかった」というシニフィエが付加された。

「あそぶ」例に考える。一般的には、子供などが好きなことをして楽しい時間を過ごすこと、あるいは楽しんで好きなことをすることを指す。

「ニット帽で遊んでもいいですよ」

という文はどのようにとれるだろうか。大人が子供がニット帽を投げ合ったりして悪ふざけをすることを許可するようなイメージかもしれない。

しかしこれが、おしゃれな洋服店で、接客上手な店員が、シックなジャケットをすすめながら、

「ニット帽で遊んでもいいですよ」

といった場合はどうか(和牛、服屋の店員が苦手)。この場合は、ニット帽とジャケットを合わせて着るという、カジュアルとフォーマルの型にはまらない組み合わせを楽しむという意味になるかもしれない。この意味での使用は、洋服店というシチュエーションでなら通常は大した説明をしなくとも成立するだろう。多くの場合これを文脈や空気と呼ぶ。「アソブ」というシニフィアンに、「型にはまらない組み合わせを楽しむ」というシニフィエが付加されたと考えることができる。

ある語は多義性を持つ。ある語シーニュに対するシニフィエが増えるのは、そのシーニュが使われたシチュエーションを共有することによって、共有された体験があらたなシニフィエとして付加されている。すなわち、体験が2者以上で共有されると語は意味を増やす。いわゆる若者言葉のように、共有によってできた仲間内のジャーゴンが、次第に一般化されることもよくある。

私は、ASDにおける独特な言語の使用法の背景に、共同注意の弱さがあると睨んでんのよ。

共同注意と言語獲得

さて、ASDにおいて、困難を抱えやすい、コミュニケーションの機能の一つに共同注意がある。共同注意とは、他者の注意の所在を理解しその対象に対する他者の態度を共有することや、自分の注意の所在を他者に理解させその対象に対する自分の態度を他者に共有してもらう行動を指す。幼児では主な養育者が見ているものを一緒に見るといったことが共同注意にあたる。この共同注意は、言語獲得に重要と考えられている。

共同注意に困難があれば、同じシチュエーションにさらされていても、共有している体験として認識できない。ASDにおいては、このために、シーニュに対して、シニフィエを経験から、増やすことが難しいと私は考えている。共同注意の困難さが、ASDにおける「言葉を自分が体験した範囲で理解し使用」することや、代名詞の理解が難しいことにつながっている。

言葉の意味を増やすことが難しい場合、どのように状況を説明するだろうか。うまく説明しようとすると、語彙そのものを増やさざるを得なくなる。突拍子もない難しい言葉をASDの患者が使うのは、シニフィエの多層化が困難なことに対する代償的な機構と考えられる。

共同注意が弱い場合に、どのように言葉を覚えていくのかということも興味深い。定型発達の子供であれば、初期には耳から聞いて誰かに教えられてごを覚えるが、文字を覚えると、本を読みながら語彙を増やしていく。文字を見て覚えることと、耳で聞いて覚えることは同時に進行していく。共同注意が苦手なASDでは、語の習得が、自を見て覚えることに偏っているのではないか。文字でみて覚える場合は、三項関係を要せず、二項関係で認識が成立する。つまり、児と本の二者があればよい。聞いて覚えるには”児”と”話者”と”話題”の対象の三項関係を必要とする。共同注意は三項関係の代表である。

宮本信也先生は、ASDでは、「言葉を自分が体験した範囲で理解し使用」と述べていた。体験のなかには、共同注意に基づく共有された体験が少ないから、独特の語彙を身に着けることになるのではないか。

情報の非対称性

ASDでの語彙の独特さは、コミュニケーションの失敗につながることもある。ある語を使う背景にある情報が、定型発達者と大きく異なる場合に、誤解が生じやすくなることは容易に想像できる。アンジャッシュのすれ違いコントを考えてみる。数々の名作コントがあるが、「バイトの面接」を例にとろう。児嶋一哉はバイトの面接に来たと思っており、渡部建は万引き犯から事情を聴こうと思っている。お互いに前提としている状況についての情報が異なるために、すれ違う。

渡部に会うや否や「君か!」と呼びかけられた児島は「はい!」と元気よく答える。渡部が「(万引きで副店長に捕まったのは)君か!」と尋ねているのに対し、児島は「(バイトを希望して面接に来たのは)君か!」と尋ねられたと解釈する。

さらに、「長年見ているとわかるけどね、君はやりそうだね!」といせりふでは、「君は(万引きを)やりそうだね!」という意図で話す渡部に対し、「君は(アルバイトをうまくやる、やり手といういみで)やりそうだね!」と解釈して、「ありがとうございます」と返す。

文脈を共有しないために、語用論的な間違いが続き、その絶妙なすれ違いが笑いを生んでいる。めちゃくちゃ名作。

これらのすれ違いコントでは、二人はASD的な人物としては描かれていない。ごく普通の人が、偶然に、コミュニケーションがすれ違ってしまう。一方で、先に挙げた、和牛の「服屋の店員が苦手」と対照的だ。和牛の水田信二は、明らかに空気が読めない人物像をかなりリアルに演じている。 冒頭では、水田の「服屋が苦手」という発言に対し、川西賢志郎「お客さんにいます?いたらごめんなさいね」と客をいじり、それをうけて水田は「います?、苦手なんです」と続ける。面と向かって苦手ということは、顧客に対してはしないという文脈を、裏切る形で言い切ることが笑いになっている。空気が読めないという、冒頭のつかみをフリにして、服屋の店員と客という漫才コントに入る。ここで、先述した、「アソブ」にたいする意味への固執が、ネタになってくる。漫才での水田のキャラクターはかなりASD的であるといえる。

ASD傾向の人の持つ独特の語彙、和牛の漫才コントに現れる語の意味の拡張の困難、アンジャッシュの定型発達者間でのすれ違い。これらは、情報の非対称性がコミュニケーションのすれ違いを生んでいる。そして、情報の非対称性は、疾病の有無でなく、文脈の共有の難易度による連続的な様相を持っている。「言葉を自分が体験した範囲で理解し使用」というのは臨床家として腑に落ちる特徴と言えるが、実際には定型発達であっても語彙はそれまでの体験の蓄積に関連するから、疾病性というよりは、正常と連続する特性と考えられる。

情報が非対称であるという現象は、コミュニケーションの場で恒常的に発生している。

コントの話もう一度戻る。服の買い物でもバイトの面接でも、すれ違いは怒りを生むように思える。しかし、それを見ている我々観客はどうだったか。大いに笑い、そのすれ違いを生み出している言葉の用い方、視点に感嘆しなかっただろうか。

四千頭身 後藤拓実は以下のようにtweetした。


空気を読むのは大切。
だけど簡単。
空気は作れるヤツが一番つよい。
空気を作れるのは、
空気を読めないヤツダ。

四千頭身後藤拓実


ASDの社会生活において、「わけのわからないことを言う奴」として排斥されたりいじめにあうということは往々にして起こり、しばしば二次障害を生む。当事者ではあれば、きれいごとで済まないような大きなミスにつながったりするから、怒りが生じてくることもあるだろう。もし、ASDを包摂していくのだとしたら、会話の当事者としての視点だけでなく、関係に距離をとった視点を持ち、意外な発想と、異なる経験をしてきた者同士の感性に敬意をもって、ともに笑うことが必要だろう。私たちが前提とする情報は、常に非対称なのだから。


お読みいただきありがとうございました。

この記事に関連した私のnoteを紹介します。よろしければお読みください。

病気とは何か

我々はなぜ人を忘れるのか

追記 タイトル変更しました。元のタイトル(ASDでは、難しい言葉を好む傾向がある)
4千頭身後藤さんのツイートをオチに持ってきました。


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