我々はなぜ人を忘れるのか
チェックリストは、「人」を置き去りにする。
ディメンジョナルにもカテゴリアルにも、「人」に出会うことはできない。
パーソン・センタード・ケア、来談者中心療法、ヒポクラテス
先日、パーソン・センタード・ケアについての勉強した。
パーソン・センタード・ケアとは、認知症の患者のケアについての、最も有名な理念の一つである。パーソン・センタード・ケアは以下のVIPSの4つの要素からなる。
V (valuing people): 人々の価値を認める
I(individualized care): 個人の独自性を尊重する
P (personal perspective): その人の視線に立つ
S (Social environment): 相互に支えあう社会的環境を提供する
その理念は以下の通り、認知症者の人間性の回復である。
認知症の人が、一人の人としてあり続けるために、認知症の人の人間性を回復するためのケアが求められるのである。(鈴木みずえ、酒井郁子;パーソン・センタード・ケアで開く認知症看護の扉(南江堂 2018))
また、臨床心理分野での心理療法の”流派”にRpgers, C.の来談者中心療法(Person-centered therapy)がある。ロジャース派は、精神分析に対する批判として、治療者が指示・教育するのではなく、その人が本来持っている自己実現や成長する力を援助することによって回復するとした。これは精神療法(心理療法)の主流の一つであるといってよい。
両者に共通するのは、疾患や病気でなく、その人自身を人間として扱うということである。ちなみに、Tom Kidwoodがパーソン・センタード・ケアを提唱したのが1980年代末、Rogersは1950年代に来談者中心療法を提唱している。
連想したのが以下の名言だ。
人々はヒポクラテスの英知を忘れている――「その人がどんな病気にかかっているかを知るより、どんな人がその病気にかかっているかを知るほうが大切だ」。(Allen J. Frances、大野裕(監修); <正常>を救え(講談社 2013))
えらい人たちがみな同じようなことを言うのは、それが真実だからだ。だから、”人”を診るということがとても大事なんだ!!
・・・などと言いたいわけではない。無論、病を診る前に、人を診るのは重要である。しかし、我々対人援助職が、繰り返して”人”の存在の重要性を啓発されているのは、ヒポクラテスの時代から我々が”人”の存在を忘れることを何度も繰り返しているのではないか。
なぜ、我々は容易に人を忘れるのだろうか。人を対象とした支援・援助・治療をする場合に、どうして人は人らしさを失うのだろうか。
まず具体例として、我々がどのように医学を学んでいくかを、教育課程を調べ、臨床に即した診療のの考え方を検討する。
医学教育の概要からみる、診療の思考法
某大学の医学部の教育課程をみてみると、
1年後半:生化学/組織学、分子細胞生物学、免疫・観戦聖遺物額、生理学
2年前半:薬理学、病理学、解剖
2年後半:消化系、循環系、神経系、呼吸系、内分泌・代謝系
3年前半:血液系、感覚系、免疫・アレルギー系、生殖系、妊娠と分娩、歯と口腔疾患
3年後半:小児の成長・発達と疾患、腎・泌尿系、皮膚・形成系、増井・救急、精神系、腫瘍学、運動系、社会医学
このほか、主に1年生で、外国語、体育など基礎科目や、物理、化学、生物などの専門基礎科目が課されている。
4年生以降はより臨床に即した教育となり、臨床、実際に病院に赴いての次週になる。6年生では実習がおわり、総括講義(座学と試験の連続)に戻り、国家試験を合格すれば医師となる。
3年生までの過程で学ぶのは、”どんな病気か”が中心である。
4年生以降の、臨床で重視されるの症候学である。症候学は、「主訴(症状)から考えられる疾患の可能性を列挙し、臨床情報を用いて鑑別を行い、診断を絞り込む過程を学ぶもの」だ。個々の病気に関するする知識をもとに、断片的に示される主訴・症状から診断を特定する。診断を特定できれば、治療法を調べられる。
病気について学ぶのは当然だ。「診断も治療もできないが、人を診れる」だけの医者は、不要だ。「診断・治療ができる」ことが、医師としては最低限必要だからだ。無論、教育において、人が置き去りになっているわけではない。ボリュームとしては少ないが、「人間性教育」と名付けられるような、医療倫理を含む、患者の心に寄り添う教育もなされている。病院実習では実際に患者さんに出会い、診察を通して実践的な学びのチャンスがある。しかし、画一的な教育によって、十分に人を学べないかもしれない。
症候学は、端的に言えば、分類である。病気と健康を分け、臓器別・系統別に見当をつけ、病名を診断し、必要であればサブタイプを特定する。
診断とは、疾患の”差異”に注目して、分類することである。レヴィ=ストロースは、”未開”な文化において、差異化による分類方法の構造的類似性を指摘し、その精緻さは西欧の”文明”的な文化に劣らないものであるとし、野生の思考の存在を指摘した。
私にとって「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。
効率を昴めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。」(レヴィ=ストロース; 野生の思考 p. 262)
あるいは、デリダは「言語には差異しかない」と述べた。我々の思考の基本となる言語は、内容ではなく、差異によってのみ区別されているに過ぎない。
差異に基づく分類は、文化横断的であり、あるいは人類の基本的な思考方法の一つと考えられる。医学・症候学が症候の分類に重きを置くのは、当然のことといえよう。病態を解明し、鑑別のための検査が開発され、治療法が統計的なデータをもとに確立される。
私が生業としている精神科領域でも、いかに疾病を分類し、治療法を確立することに心血が注がれてきている。診断のために有効な検査に乏しい領域であるため、症状を記述して分類していく記述現象学を基本とし、可能な限り統計的な解析が試みられるよう、横断的でカテゴリアルな診断基準をもうけた、操作的診断が精神科診断の中心となっている。カテゴリアルな診断とは、疾患毎に典型的な症例を想定し、典型的な症状にどのくらい当てはまるかを、問題にする。「リストに挙げられた、九つの症候のうち、五つがあてはまること」「その症状が2週間以上続くこと」「ほかの診断基準では説明できないこと」などが、診断の要件になる。さらに進んで、ディメンジョナルな診断も開発されている。これは、典型的な症候があるか無いかの二分法ではなく、出現しうる症候をリスト化して、症候毎の軸に沿って定量的な評価を行うというものである。病気の典型例を提示することなく、チェックリストによって、より確からしい治療を導きだそうとしている。症候毎の5段階評価(例えば幻覚3、妄想4、抑うつ5、不眠2、・・・)などで患者を評価していく。一般的にはカテゴリアルな診断は、疾病の全体的なイメージをつかみやすいが、個別性に欠ける。ディメンジョナルな診断では、個別性は高まるが、全体的な把握が難しい。
操作的診断において、客観的に定量化できる生物学的な検査がない状況では、診断の妥当性を検討することはできないが、診断の信頼性は高まるかもしれない。信頼性の高い診断をもとに、疫学的・統計的な研究によって、より治療を有効・有益にできるかもしれない。
しかし、患者さん一人一人はそれぞれ名前をもつ。そして固有名は確定記述の束に還元できない。つまり、チェックリストは、「人」を置き去りにする。ディメンジョナルにもカテゴリアルにも、人に出会うことはできない。
生物学的な検査の確立されている他の領域ではもしかしたらより顕著な傾向となっているかもしれない。
「チェックリスト」的な分類を”悪”とするような、単純な二分法を語りたいのではない。しかし、このような、差異による分類、区分、鑑別が、人を対象物にする。私にはそう思えてしまう。
我々が「人を忘れること」を歴史的に繰り返す、その根源には、科学的な思考法に内包される、差異化・分類の性質がある。
私たちが、「人を思い出す」ためにできることは何だろうか。
人を思い出すために
医学の基盤としての、自然科学は、客観性を重んじる。換言すれば、条件を整えれば同じ現象がおこることが、証明されなければならない。同じ現象が起きたことが偶然である可能性を検討するために統計を用いる。条件を一定にするために、対象を"分類"して、できるだけ同一の集団を見出そうとする。
しかし、条件を変えて検討するなど、再現を念頭に置くことが難しい分野もある。”歴史は繰り返す”が、同じことが起こるわけではない。対照を設けて比較することはできない。人も、同じ一生を繰り返すことはできない。歴史を研究する方法で、患者を理解すること。
幼児の言語獲得研究から、Brunerは「論理-科学的様式(logicoscientific mode)」と「物語様式(narrative mode)」の二つの思考様式を指摘し、それらは相補的であるとした。これらの二つの様式は、日本の高校教育における理系-文系の分離や、自然科学と人文科学の分離に一致している。論理-科学的様式による思考が、人を忘れさせるのであれば、物語的な思考は人を思い出させてくれるかもしれない。
私たちの認知方法には分類と物語がフォーマットされているのかもしれない。分類が整理されると、知識がまとまったように感じる。これは分類が一つのフォーマットであるからだろう。一方で、記憶術には語呂合わせなどで、ストーリーをつける方法が良く知られている。物語は、記憶しやすいフォーマットでもあるかもしれない。
思考のフォーマットとしての、分類と物語。なかでも、我々が”人”を思い出すためには、物語が必要なのではないだろうか。
医療の現場で、人を思い出すためには何ができるだろうか。私は、ツールとして現病歴を挙げたい。現病歴は、患者さんの情報をやりとりする、引き継ぎやカンファなどために作成される。
医師同士が、患者さんの情報をやりとりするときには、チェックリストをポンと出して終わりにすることはない。例えば、紹介状(診療情報提供書)にも、「現病歴」がある。現病歴には、主訴・主症状がいつからどのような状況で始まり、どのように経過しているか、医療的なかかわりはいつから始まり、どのような検査・治療が実施されてきたか、それによってどのような変化があったか、などが時系列に記載される。この現病歴に、人を思い出すヒントがあるように思う。とくに、生活歴と呼ばれる、直接疾病とはかかわりがないかもしれないが、患者さんがどのような環境で生まれ、育ち、何をしてきたかということを、やはり時系列に沿って記載されたもの、を私は重視している。いってみれば、患者さんを主人公とした”物語”である。
精神科領域には、患者の「物語」を治療的に応用する方法論として、ナラティブ・アプローチがある。患者のすべてに、ナラティブ・アプローチを実施することは、物理的に困難かもしれないが、現病歴を丁寧に記述することなら、なんとか可能ではないか。私は、初診時に現病歴を丁寧に作ることを習慣にしている。
手記を書くことの有用性は昔から知られている
(笠原嘉;軽症うつ病(講談社,1996); p.54)
もし学生教育の中で、人を診ることを覚える方法があるとしたら、ありきたりのことだが、部活やサークルやアルバイトや、恋愛や旅、そういう個人と個人との関係において培った人間像を投影していくことだろう。社会人となった後も、人に人を学ぶOJTはいつまでも続く。
俯瞰的な視点からみると、人は平等にあるように見える。高みから多くの人を見下ろすような視点を持てば、効率的に差異を知り、正確な状態を把握できるかもしれない。もし、人を人として見るとしたら、同じ地平に立って生きて、遠近法で眺める方が良い。公平な見方はできないかもしれないが、ドラマを感じることはできるだろう。良い臨床家は、二つの視点を自在に行き来する、優秀なドラマの書き手なのかもしれねない。
私たちは物語に人間を感じる。それはなぜだろうか。
人は、ストーリー・ラインの上にいるからである。
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