人は「議論」しない。(2024.8.6)

思考の備忘録として、残します。
僕のいつかの日記を引っ張り出してきて、その日記について今の僕が感想をつける、という形でなんとなく文章を書こう、という魂胆です。

議論においての意見衝突について

人が何かを主張したり何かに対して抗議したりするとき、それは専ら彼らの「善」によるものだと言える。
個の尊厳を強調し、そのユニークさこそ人の価値として認める今日の社会においては、それらの行為自体は概ね是認されており、学校教育においてもそれが社会的な機能を果たす一つの能力として認識され、総合教育等のいわゆる市民性教育においてこれの会得・向上を図るよう手引きされている。

しかし、だからこそ、「善」というものが何か正しく理解しているか否かが、議論する上で何よりも重要になるだろう。

人がその「善」を”矛”となして立ち上がるとき、それが相手の攻撃を防ぎ、また同時に反撃するための道具であるということを彼らは無意識のうちに理解するはずである。
つまりは、その「矛」を握った瞬間、人は寄り添うための議論を放棄する覚悟を決めるわけで、そこには、妥協はおろか、譲歩する姿勢も相手を理解しようと努める姿勢ももはや感じ取ることは出来なくなる。そこにあるのは、いかに相手を屈服させることができるかと卑しく嗅ぎ回る激烈な欲望に満ちた眼差しのみだ。

議論の「果てしない平行線」はこうした果てに現れることとなる。

忘れてはいけないことは、自身の矛で受けた相手の矛もまた、他方「善」であるということである。
人には人の「善」がある。個々の「善」の大きさや形は、それぞれの価値観や社会的地位、役割等様々な要素の構成によって変わってゆき、一つとして同じものは見られない。
自分の「善」と近しいそれを持つ人がいる一方、相入れない「善」を持つ人もいる。きっと自分とは意思を異にする人の持つその「善」を真に感じ取り理解することはできないかもしれない。しかし、彼らもまた、”自分と同じように”自己の自由を守るための「善」を持って人と向き合っているのだということを認識できたなら、議論の行く末はもっと開けた理解と思いやりに溢れたものになるだろう。

僕の日記より(2021.1.17)

この日記を振り返って

多分、「ひろゆき」のような、いわゆる論破の風潮が現れてきたころの日記。

ただ議論が論破するかされるかの勝負のようになってしまって、いささか堕落した弁論術でこそあるような議論の在り方が気に入らなかったころの日記。

ただ、善というのはなかなかに軽率な言葉選びだと思う。
基本的には、議論を過度に合理化しようとせず、人の目を見て、腹を割って話そう、ということを言いたかったような気がする。
それは大方性善説を信じることで成り立つ合理性であり、人がなんらかの信念を高い人間力と併せて有しているという空虚な前提に立っている。

僕は最近になってようやくこんな簡単なことに気づいたんだけれど、
人はあまり議論をしようなどとは思ってない。

ある事象について本気で自分のこととして議論する人は少ない。
本気で議論するような人は、多くの場合その議題に対して当事者意識を強く有しているが、それ故にその主張は自分の中で自己が最大化されて、他者の意見を受容する余裕がなくなっている。

結局のところ、人は自分のために考えるし、自分以外のことに思考する体力は割かない。

議論することを良しとする価値においては、自分の意思は議論によってよりよく昇華していくように考えられる。
だから、議論に自分の意思を持ち込まない人を、「考えない人」と評価しがちだ。
けれども、大概のことについて人はそれに自分以外のこととして接する。

人は自分のことについてそれぞれに考えているのだけれど、議論として自分以外のことを価値付けしたり、それに自分の意見を付け加えたりすることはしない。

それなのに教育は人に「議論」することを勧める。
人はあんまり議論したがるものではないのに。

議論したがるように見える人は、「議論」がしたいのでなくて、自分を表現したいだけなんだろうよ。



結局人は、「議論」はしない。

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