人は「議論」しない。(2024.8.6)
思考の備忘録として、残します。
僕のいつかの日記を引っ張り出してきて、その日記について今の僕が感想をつける、という形でなんとなく文章を書こう、という魂胆です。
この日記を振り返って
多分、「ひろゆき」のような、いわゆる論破の風潮が現れてきたころの日記。
ただ議論が論破するかされるかの勝負のようになってしまって、いささか堕落した弁論術でこそあるような議論の在り方が気に入らなかったころの日記。
ただ、善というのはなかなかに軽率な言葉選びだと思う。
基本的には、議論を過度に合理化しようとせず、人の目を見て、腹を割って話そう、ということを言いたかったような気がする。
それは大方性善説を信じることで成り立つ合理性であり、人がなんらかの信念を高い人間力と併せて有しているという空虚な前提に立っている。
僕は最近になってようやくこんな簡単なことに気づいたんだけれど、
人はあまり議論をしようなどとは思ってない。
ある事象について本気で自分のこととして議論する人は少ない。
本気で議論するような人は、多くの場合その議題に対して当事者意識を強く有しているが、それ故にその主張は自分の中で自己が最大化されて、他者の意見を受容する余裕がなくなっている。
結局のところ、人は自分のために考えるし、自分以外のことに思考する体力は割かない。
議論することを良しとする価値においては、自分の意思は議論によってよりよく昇華していくように考えられる。
だから、議論に自分の意思を持ち込まない人を、「考えない人」と評価しがちだ。
けれども、大概のことについて人はそれに自分以外のこととして接する。
人は自分のことについてそれぞれに考えているのだけれど、議論として自分以外のことを価値付けしたり、それに自分の意見を付け加えたりすることはしない。
それなのに教育は人に「議論」することを勧める。
人はあんまり議論したがるものではないのに。
議論したがるように見える人は、「議論」がしたいのでなくて、自分を表現したいだけなんだろうよ。
結局人は、「議論」はしない。
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